第5章 仮宮の妃候補
第28話
◇
アルボス宮殿の一番奥に位置する後宮は密かに賑わいをみせていた。
イザークが皇帝に即位してから誰一人としていなかった後宮内に妃候補となる令嬢が入宮したのだ。
女官たちは水を得た魚のように生き生きと働いた。仕えるべき主のいない後宮でずっとこの時を待ちわびてきたのだから当然のことだ。
「シンシャ、各部屋のシーツやクッションカバーを集めてちょうだい。フレイア様は明るくて可愛らしいデザインがお好きだから模様替えをするわ」
「はい。承知しました」
三つ編みのワンテールにお仕着せ姿のシンシアは、掃除係の侍女として働いていた。
お風呂場でロッテが提案してくれた内容は後宮の掃除係の侍女として働くことだった。妃候補である令嬢――フレイア嬢の後宮入りすることが急遽決まったらしく、人手が足りないため女官を補佐する侍女を募っていた。
ロッテは遠い親戚で仕事を探している子がいると言って、シンシアを侍女長に紹介してくれた。幾つかのテストを受けた後、シンシアはすんなりと採用された。
侍女長曰く、妃候補と接する機会はほとんどない掃除係なので読み書きや簡単な作法が身についていれば問題ないとのことだった。
後宮は猫の手も借りたいほど忙しい状況で、シンシアはすぐに後宮で働くことになり、そのまま三日が過ぎた。仕事中はロッテと会えないが運の良いことに同じ宿舎になった。隣の部屋を割り当てられたのは侍女長の計らいなのかもしれない。
イザークの様子をロッテに尋ねると「ユフェ様は暫く私と過ごしますって報告したら寂しそうにはしていたけど、そこまでショックを受けていなかったわよ」とのこと。
一緒の時間がなくなって嘆かれると予想していたのに意外な様子に拍子抜けだった。
(ま、まあいつまでもいられるわけでもないし? いつかは私も人間に戻って離れるんだから、それがちょっと早まっただけ。イザーク様が寂しかろうがそうでなかろうが関係ない。だって相手は私を殺したくて堪らないんだもの。情を持つ必要なんてないわ)
それでも何故だろう。何故か気持ちは晴れない。
シンシアはお仕着せの下に隠している森の宴に触れ、頭を振って仕事に集中する。最後のシーツを取り終わると、籠にぎゅうぎゅうと押し込んだ。
(修道院でいろいろ経験しているから掃除に洗濯、皿洗い、裁縫なんでもござれ。うっかり粗相なんてしなければ大丈夫。あとは休みの日に通行許可証を持って宮殿を出れば自力で教会まで行ける。――完璧だわっ!)
籠を両手で抱えるシンシアはほくほくと笑みを浮かべ、リネン室へと運んでいく。
廊下を歩いていると、丁度通り過ぎようとした部屋から悲鳴が聞こえてきた。
驚いて歩みを止めると、側を通っていた他の侍女もシンシアと同じように立ち止まり困惑している。
部屋の扉をしげしげと眺めればそこはフレイアが使っている部屋だった。癇癪を起こしているのか、彼女とおぼしき金切り声と陶器の割れる音が響いてくる。
時折、誰かの宥める冷静な声がした。
フレイアの年は十六歳。両親から蝶よ花よと大切に育てられた結果、傍若無人に育ってしまっていると女官たちの間で囁かれていた。毎日叫んでは食器類を破壊しているらしい。
フレイアを見たことがないシンシアは一先ず知り得た情報を整理する。と、後ろから女官に小声で話しかけられた。
「気にせず仕事を続けてちょうだい」
部屋からはより激しい悲鳴が聞こえてくる。
閉め切られているので何を喋っているのか聞き取れないが、触らぬ神に祟りなし。今の優先事項は真面目に働いて休みを取ることなので首を突っ込んで悪目立ちしたくない。
シンシアは女官の声かけに無言で頷くと再び目的の場所へと急いだ。リネン室に運び終えると、次にガゼボと玄関前の掃除を言いつけられた。
後宮と一括りにしてもその中は四つの宮で構成されている。三つは妃や後の皇后が住まう宮、残りの一つは妃候補が住まう仮宮だ。
四つの建物のデザインは基本的に統一されていて、柱頭や天井の縁には組紐文様と有翼の獅子の装飾が施され、精霊の加護とアルボス皇帝の庇護を象徴していた。しかし、それ以外は歴代の妃たちが実家の財力を見せつけるように装飾や家具を追加するので、宮殿内とはまた違う華美な女性らしい雰囲気の建物へと変貌を遂げた。
手をつけられなかった仮宮は後宮内の中で最も装飾が地味だ。
とはいっても澄んだ泉と綺麗に整えられた庭園の景色は美しく、入宮したばかりの令嬢がリラックスできるように配慮がなされている。総じて後宮の中で最も落ち着いた場所だった。
庭園のバラの生け垣を抜ければ小道があって、その先にある小さな丘にはガゼボが設けらている。全体の景色を眺めて堪能するには打ってつけの場所だ。
掃除道具を片手にシンシアはガゼボに訪れていた。
シンシアは腕を捲ると早速掃除に取り掛かった。
椅子とテーブルの上に載っている葉っぱを地面に落としてホウキでかき集める。次に井戸から汲んできた水で汚れを落としてブラシで磨く。
黙々と作業をしているとあっという間にガゼボは綺麗になった。
手の甲で額の汗を拭い、腰に手を当ててガゼボ全体を見回す。
満足のいく仕上がりになって喜ぶシンシアはガゼボの手すりに手を置くと、典麗な庭園を眺めた。樹木の葉っぱや花についた雫は太陽の光を反射してまばゆい宝石のようにキラキラと輝き、より一層幻想的で美しく引き立てている。
一頻り景色を堪能したシンシアは掃除用具を手に持つと仮宮へと踵を返した。頼まれたもう一つの仕事、玄関前の掃除に取り掛からなくてはいけない。
早足で小道を進みバラの生け垣にさしかかると、誰かの囁き声がそよ風に乗って聞こえてくる。気になったシンシアが生け垣の奥へと足を踏み入れると、そこには手のひらに話しかける少女の姿があった。
女官や侍女のお仕着せとは違い、彼女はたまご色のドレスを着ていた。
ドレスには花や枝の続き模様の刺繍が入り、所々には真珠がちりばめられ、裾には白のフリルがついている。美しくまとめられたルビーレッドの髪に、意志の強そうなつり目がちな青色の瞳。面差しは凜としていて、その佇まいから醸し出される、気品あるオーラ。
間違いない。彼女がこの仮宮に入宮したというフレイアだ。
分かった途端、緊張感が走る。
(さっきのこともあるし、関わらないようにした方が身のためかも……)
シンシアは気づかれまいと抜き足で通り過ぎようと画策する。
「そこの方、少し良いかしら?」
ギクリ、とシンシアは肩を揺らした。フレイアからは死角になって見えないはずなのに存在がバレてしまっている。
呼び止められたシンシアは大人しくフレイアの元に歩いて行く。彼女はこちらに身体を向けるとつり目がちな目を細めた。
「質問なのですが、あなた虫は平気でしょうか?」
「え? ええ、はい。特に怖いとも気持ち悪いとも思いません」
突飛な質問に面食らいながらも、粗相のないように慎重に答える。すると、フレイアは顔をぱっと綻ばせた。
「まあっ! なら手伝って欲しいことがありますの」
フレイアは優しく包むようにしている手をそっと広げてみせる。怪訝な顔でフレイアの手の中を覗き込めば、そこには数匹のまるまると太った芋虫がいた。
「どうしてフレイア様が芋虫を?」
一般的に考えて令嬢のような身分ある女性は虫やカエルを怖がる。触るどころか視界に入れるのも嫌で、使用人たちに命令して処分して欲しいと懇願するはずだ。
ところがフレイアは他の令嬢と一線を画しているようで、手の中の芋虫に視線を落とすと、にこにこと指の腹で撫でて愛でているのだ。
「先程わたくしの部屋に運ばれた花にこの子たちがついていたんですけれど、屋敷から連れてきた侍女のボニーがひどく取り乱して大変でしたの。カップは投げるわ、皿は割るわ……。この子たちに罪はないからわたくしが責任を持ってここまで連れてきましたのよ」
話を聞いたシンシアは眉を上げた。
廊下で耳にしたあの悲鳴はフレイアではなく侍女のボニーだった。ということは、冷静に話しかけていた声がフレイアということになる。
(あの悲鳴はフレイア様じゃなかったんだ。声しか聞いていない女官や侍女からすると勘違いしてしまうわね)
フレイアを見ていると、生き物が好きという点でロッテを彷彿とさせる。
シンシアは隣に立つと一緒に芋虫を眺めてから目を細めた。
「事情は分かりました。それでその芋虫たちはどうするんですか?」
「低木がある場所ってご存じですか? この子たちを自然に帰してあげたいのだけど適した環境が見つからなくて困っています」
それなら、とシンシアは低木の植わっている場所へ案内する。
庭師に駆除されるかもしれないのでできるだけ目立たないところへ連れて行き、フレイアは芋虫たちを葉っぱが生い茂る枝の上に載せた。
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