第25話



 残されたシンシアは俯き、尻尾をだらりと垂らした。

 状況が状況だけに仕方がないのかもしれないが、期待していただけに落ち込みは激しい。

 一人で悲嘆していると後ろから声を掛けられる。

「んもう、ユフェ様ったらこんなところにいたのね」

 後ろを振り向くと、腰に手を当てたロッテが仁王立ちしている。


『ロッテ……』

「勝手にいなくなっちゃ駄目よ。他の動物さんたちに訊いて回って、やっと居場所を教えてもらったのよ」

 ロッテは優しくシンシアを抱き上げるとぽんぽんと背中を叩いてくれる。

「どうしたの? なんだか元気がないみたい」

『大丈夫。何でもないわ』



 シンシアは尻尾を揺らすとロッテの腕に身を預けた。

 その後、歩き始めたロッテが他愛もない話をしてくれるがシンシアはずっと上の空だった。


 暫くすると辺りが湿っぽくなって、それと同時にロッテが明るい声色でこう言った。


「さて着いたわ。準備も整っているからさっそく綺麗に洗っていくわね」


 綺麗に洗う。今から洗濯でもするのだろうか。そんな呑気な考えが頭に過った途端、たちまち自身の置かれた状況を思い出す。



 ――すっかり忘れていた。


 思い悩みすぎてお風呂のことが頭からすっぽりと抜け落ちていた。慌てて扉を確認するが扉はきっちり閉められている。


 完全に詰んだ。万事休すだ。


 諦めの声が頭の中で延々と響くが、それでもシンシアは抵抗をみせた。


『お風呂に入らなくても私は大丈夫! いつも清潔だから問題なしよ!』

「嫌がらないで。たまに石けんで洗わないと。病気になったら大変よ」



 暴れていると有無を言わさないロッテにバスタブへ浸けられる。水面にはもこもことした泡が立ち、バラの匂いが鼻孔をくすぐる。


 バラの香りにはリラックス効果があるはずなのにちっとも効果を発揮しない。

 泡のせいで却ってお湯の嵩が分からないシンシアは完全にパニックに陥っていた。


(ひいぃっ。怖い怖い怖い!! も、もももう無理。た、耐えられない……)

 気が遠くなり始めているとロッテが横で海綿を使って石けんを泡立てている。



「それじゃあ背中から洗っていくからね――って、誰!? ユフェ様はどこ!?」

 悲鳴を上げるロッテは手にしている石けんを床に落とす。

(ロッテはどうして狼狽えているの? ユフェは私で、私は猫なのに……)


 ふと、いつもより視線が高く感じ、心なしかロッテが小さく感じる。



「……えっ?」


 異変に気づいて視線を下に向けると、ボロボロの紺色のスカートから伸びた人間の脚が目に映る。

 手を見れば体毛が一本もない白い陶器のような滑らかな人の手――元の姿である人間に戻っている。


 声を失って茫然自失になっていたシンシアは状況を飲み込むと我に返って叫んだ。


「私、人間に戻ったの!?」



 人間の言葉が話せるようになったばかりか、まさか解呪なしで元の姿に戻れてしまった。やはりあのネズミみたいな魔物は残りの魔力を充分に発揮できず、中途半端に呪いを掛けてしまったらしい。


 混乱しているロッテは口を半開きにしてこちらを凝視している。ただ、顔にはしっかりとあなたは誰? という疑問文が書かれていた。


「欺していてごめんなさい。私は猫でも妖精猫でもないの。もともとは人間で、中央教会の人間。魔物に呪いを掛けられて猫にされていたの」


 バスタブから出て腰を折るシンシアはこれまでのことを包み隠さずに話した。

 静かに話を聞いていたロッテは漸く納得した様子だった。手にしていた海綿を棚に置き、盥で泡だらけの手を洗うとエプロンで拭い始める。


「つまりあなたは聖女様で、人手不足で神官と偽って魔物の討伐部隊に参加していたけど、魔物に襲われて倒せた代わりに呪いで猫にされてしまった、ということなの?」

「ええ、そうよ」


 シンシアは深く頷いた。


「呪いが半端に掛かっていたから人間の言葉が喋れるようになったけど、戴冠式で陛下に粗相をして、反感を買われているから素直に真実を口にできなかった、と」

「そうなの。欺す形になって本当にごめ……」

「だとしても、私には教えて欲しかったわ!」


 間を詰めて一喝されたシンシアは目を見開いた。


「あなたにとって私はただの世話係かもしれない。でも私は陛下の猫じゃなくて、大切な友達だと思ってたわ」

 ロッテは怒りながらもシンシアの手を取って優しく握りしめてくれる。

「それにあなたは何度も私を助けてくれたでしょ? 世話しなかったり、無視したり酷いことをしていたのに手を差し伸べてくれた。だから今度は私が助ける番なの」



 同性で同年代の友達が一人もいないシンシアにとって『友達』という言葉の響きはふわふわしていてどこかむず痒い。それだけでなく宮殿内に味方ができたことは心強かった。


 シンシアが心を込めて礼を言うと、ロッテは今後のことをどうするべきか提案する。


「一先ず、ユフェ様がシンシア様だったってことが一番バレてはいけないことよね?」

「私のことはシンシアって呼んで。友達に『様』は変でしょう?」

 目を眇めてみせれば、ロッテは口元に手を置いてくすりと笑う。


「それもそうね。じゃあシンシア、優先すべき点は合ってるかしら?」

「ええ、合っているわ。だけど今の私は聖女のシンシアに戻ってしまってるからユフェの部屋には戻れない。でもユフェがいないって分かったらイザーク様はご乱心になる思うの」


 顔を真っ青にして狼狽えるとロッテが真顔になった。


「……思うんだけど、イザーク様って噂通りの恐ろしい方かしら? 私の欺瞞罪を見逃してくださったんだし、きっとシンシアのことも謝罪すれば許してくださると思うわ」


 シンシアは首を横に振った。


「ユフェとして一緒にいて分かったんだけど、イザーク様は一度懐に入れた人間にはとことん甘くて優しい。だけど一度敵と見なした人間にはとことん残忍で容赦がない。……私、目が合う度に殺意の籠もった視線を向けられてたの。だからもし私がユフェだってバレたら、弓矢の的になって殺されるどころか三日間食事抜きにされて目の前で豪華な食事を見させられた挙げ句、最後は手足を切り落とされて馬で引きずり回されるの」

「食事抜きの地味な嫌がらせから一気に残酷に!! ……とにかく。ユフェ様は侍女生活に興味があるから暫く私の部屋で過ごすとか適当に理由をつければ大丈夫。陛下はユフェ様には甘いし、我が儘言っても聞いてもらえるわ」



 ロッテの提案にシンシアは感嘆して手を叩く。

 女性使用人の宿舎は男子禁制となっている。皇帝のイザークといえど後宮ではないのに貴族の令嬢が暮らす宿舎に何の前触れもなく訪れることは醜聞に繋がりかねない。つまり、ロッテの部屋で過ごしてもイザークが突然乗り込んでくるようなことはないのだ。


(ロッテに正体がバレて良かったのかも。私一人だけだったらこんなこと思いつかない)

 しかしシンシアの明るい表情には、たちまち暗い影が差した。


「可能なら宮殿を出て、こっそり教会へ帰りたい。教会の皆が心配しているし、ずっとロッテの部屋で過ごさせて貰うにしても限界があるよ」

「そうなんだけど、使用人の出入り口は許可証がないと出入りができないの」


 許可証には特殊な魔法が掛けられていて持ち主でない者が外へ出ようとすると警告音が許可証から鳴り、出入り口を無理に通れば弾き飛ばされてしまう。


「シンシアは容姿端麗だから侍女に変装して宮殿内を彷徨くにしても却って注目を浴びるわね」

「私の顔って目立つのね……」

 シンシアは苦笑いを浮かべた。


 何か他に方法はないか唸りながら考えていると、突然ロッテが閃いたと手を叩く。

「そうだわ! 丁度さっき侍女長が話していたんだけど――」


 今後どう動くべきか、ロッテが詳らかに説明してくれる。説明を受けるシンシアは寸の間、訝しんだが続きを聞いているうちにそれが一番良い方法だと理解した。


「分かったわ。その方法に賭けてみましょう」

「じゃあ、今後どうするかはこれで決まりね! あとは――まず着替えることから始めましょう」

「着替え?」


 首を傾げると、ロッテが姿見を指さした。姿見を覗き込むと祭服の袖やスカートは所々が裂けていて、中には太もも辺りにまで達するものもあった。確かにこの状態は、はしたない。

 そして宮殿内で祭服は非常に目立つだろう。


 シンシアはロッテからバスタオルを受け取ると、着替え始めた。

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