第24話
「お湯を張ってくるのでソファの上で寛いでいてね」
イザークを見送った後、ロッテは入浴剤と一緒にお風呂場へと向かった。
もちろんシンシアは大人しくソファの上で待機するつもりはない。
(逃げるが勝ちよ)
ぴょんっとソファから飛び降りると素早く外へと駆け出した。聖職者との謁見室の場所は以前探索した時に突き止めている。
(あとは誰にも邪魔されずに謁見室へ辿り着くこと。それなら、中庭を通るのが一番だわ)
中庭は猫のユフェの背よりも少し高い低木が植栽されている。隠れながら移動するにはもってこいだった。
早速シンシアは中庭を通行する。時折、使用人たちの話し声が聞こえてくるので植物に紛れてやり過ごした。何度かそれを繰り返した後、とうとう謁見室のある廊下に足を踏み入れた。
入り口近くに飾られている鎧の陰に隠れると、辺りの様子を窺った。丁度、謁見室の重厚な扉が音を立てて開き、中からはルーカスが一人で出てきた。
神官が着る祭服ではなく、護衛騎士の時に着る騎士服姿で、腰には剣をさしている。
(ヨハル様のお供で来ているんだわ)
彼は謁見室に向かって深く一礼をする。一旦どこか別の部屋で待機するようだ。
再び顔を上げるルーカスはシンシアがいる反対側に向かって歩き始めた。
(あっ、待って!)
シンシアは慌ててルーカスを追いかけた。寄せ木細工の廊下には彼と自分以外誰もいないことを確認して声を掛ける。
『ルーカス!』
名前を呼ばれたルーカスは立ち止まるとこちらへ振り返った。猫のシンシア以外、この廊下には誰もいない。
空耳かな? といった様子で首をかしげるものの、ルーカスはすぐに額の花びらに気がついてくれた。話しやすいようにしゃがんでくれる。
「おや、呪いで猫に変えられてしまったのですね。この間の討伐部隊の方でしょうか? 早く要請してくだされば解呪したんですけど……」
『討伐部隊へ派遣はされたけど騎士じゃないわ。私だって一刻も早く帰りたかったけど、イザーク様に捕まって帰れなかったの』
しゅんと耳を垂らして事情を説明するとルーカスが吃驚した。
「猫が喋った!?」
ルーカスは跳び上がると数歩後ろへと下がる。
『あ、驚くのも無理ないわ。私も言葉が通じると分かった時はびっくりしたから』
「話し方とその声からして、もしかしてシンシアですか?」
『ええ、シンシアよ』
答えを聞いたルーカスは口を半開きにして唖然としていたが、やがて頭を振ると剣を構える姿勢になった。
「あなたは一体何者です? 呪いを掛けられた人間は姿を別の生き物に変えられるだけでなく、人間の言葉も話せなくなります。魔物の核が額にはありませんが、新種の魔物の可能性も否定できません」
ルーカスは警戒心を露わにする。そのことについてはシンシアも究明できていないので説明のしようがない。ただ、事実を話すことしかできなかった。
『私も何がどうなってるのか分からない。つい最近人間の言葉が話せるようになったの。でも私の額にはこの通り呪いの花びらはあるし、もし新種の魔物だとしてもこんなところにいるわけないでしょ? ここは皇帝陛下のいる宮殿なんだから』
ルーカスは黙り込むと考え込む。暫くすると腑に落ちないといった様子ではあったが、剣の柄から手を離して攻撃の態勢を解いてくれた。
一先ず魔物ではないと判断してもらえたのでシンシアはほっとした。
『証拠になるか分からないけど私しか知らないルーカスの話をした方が信憑性も増すかな? 幼少期に山で足を滑らせてあなたが捻挫した話とか。あっ、それよりも数年前にルーカスが羊皮紙に書いてた詩を一言一句間違えずに今ここで披露し……むぐっ』
話の途中でルーカスの手に口を塞がれる。
「分かりました。あなたは間違いなく私の幼馴染みのシンシアです。認めるので私の思い出したくない黒い過去を晒さないでください」
良いですね? と、念押しされたので頷くとルーカスの大きな手が口元から離れた。
シンシアはずっと気がかりで仕方がなかった教会の状況を尋ねた。自分がいなくなって周りに迷惑を掛けていないか不安だった。
「シンシアが失踪してヨハル様もリアンも、それから修道院の皆も心配していますよ。聖女が失踪したなんて知られれば混乱が起きるので、今のところ関係者以外は秘密になっています」
皆に心配されていると聞いて申し訳ない気持ちになる。
シンシアは縋るようにルーカスの腕に前足を乗せた。
『ルーカス、我が儘を言って申し訳ないんだけど教会へ私を連れて帰ってから解呪して。ここで元の姿に戻ることは危険なの。私はイザーク様の反感を買ってしまっていて、見つかったら処刑されることになっているから。……今は私に怒りの矛先が向いてないけど、それでも波風立てたくないわ』
イザークは猫にとても甘く、そして国民想いだ。
その一方で一部の貴族たちからは雷帝と恐れられている。その理由は一度敵だと認定した相手に容赦がないからだろう。
つまり、一度敵だと認定されてしまったが最後、どんなに挽回しても覆すことはできないのだ。
殺意が籠もる極悪非道な顔つきを思い出していると、ルーカスは躊躇いがちに口を開く。
「それは難しいです。先ほど謁見室で少しだけ陛下にお目に掛かりましたが、相当あなたに対してお怒りのようでしたよ。開口一番にシンシアの行方についてヨハル様に話をされていて、瞳は
イザークの中からシンシア処刑の願望は消えていなかったらしい。
シンシアは事実を知って震え上がった。
ルーカスは大丈夫だと言って安心させるように頭を撫でてくれる。そして、今日ヨハルと共に宮殿を訪れたのは別件だと教えてくれた。
「魔物討伐の件はもともとヨハル様の結界が弱まったせいで起きました。さらに最近は謎の瘴気事件が頻発しています。貴族たちはヨハル様を激しく非難し、罷免の声が上がっているんです。皇帝陛下と何のお話をされているのかは私には分かりませんがきっとヨハル様の今後についてだと推測します」
穏やかなルーカスの表情に暗い影が差した。
瘴気事件はシンシアも討伐部隊へ派遣される前に耳にしていた。ネメトン付近の森で原因不明の瘴気が多発している。
今のところ人的被害は出ていないが、それも時間の問題であるように思う。
浄化の力が使えるのは聖女であるシンシアのみ。
このまま発生が続き、周辺集落に被害が出ればいよいよ領主が教会の扉を叩くだろう。その時、聖女がいないと分かれば、ヨハルの立場がさらに悪化してしまう。
『早く元の姿に戻っておく必要があるのね。聖女がいないってバレたらそれこそ大事だし。いつでも浄化の要請に対応できるようにしておかないと』
「現状、瘴気が滞留することはなく、時間が経てば消えるので安心してください。ヨハル様も心配ですが私はあなたも心配です。陛下の怒りを買っている上、欺して愛猫になっているんですから」
意図的に欺したつもりはない。いろいろなことが重なって結果的に彼を欺したことになっているだけだ。
シンシアは反論したかったがルーカスが心から心配しているのが分かったので何も言えなかった。
「陛下の機嫌が直るまで、シンシアが人間に戻ることは得策ではありません。大事な幼馴染みが処刑だなんて考えただけで胸が張り裂けそうになりますよ」
『でも……』
できることなら今すぐ教会に帰って人間に戻りたい。
なんとか理由をつけてルーカスを説得しなければ。
しかし頼み込む前に、無情にも騎士がルーカスを呼んだ。
ルーカスは「折を見て必ずあなたを助けます」と小声で言い残すと騎士の元へと駆けより、談笑しながらそのまま歩いて行ってしまった。
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