第23話



 ◇


 ユフェが妖精猫であるという話は雷帝であるイザークと側近であるキーリとカヴァス、そしてロッテの四人のみに知られている。

 シンシアはこれまでと変わらない猫生活を送っていた。


(実際のところ、私はただの呪われた聖女なんだけどね)

 処刑を回避したいがために妖精猫説を否定しなかった。自らが吐いた嘘ではないが、欺していることに変わりはないので良心がチクチクと痛む。


 懺悔の気持ちも込めてシンシアがティルナ語で祈りを捧げていると遠くから足音が聞こえてくる。程なくして扉が開き、現れたのは飼い主であるイザークと分厚い蔵書を抱えたキーリだった。



「ただいまユフェ。今回は予定より一時間も早く休憩に入ることができた」

『イザーク様、お帰りなさい。二時間前に朝食を済ませて仕事に向かわれたばかりなのに。……いえ、貴重なお時間を作っていただきありがとうございます』


 シンシアは内心苦々しい気持ちになったが顔色一つ変えずに礼を言う。

 ユフェと話せると分かってからイザークの猫愛がさらに重くなった。仕事の処理速度が以前より加速し、一緒に過ごす時間が増えたのだ。


 キーリを含め、臣下たちは職場環境が改善されたことを手放しで喜んだ。

 シンシアとしては宮殿を探索する自由な時間が減ってしまったので頭を抱えることになってしまったが。



 項垂れていると目の前に一輪の花が差し出される。


「可愛い俺のユフェに」

 一日の一回目の休憩で、イザークは必ず一輪の花を持ってここに戻ってくる。花は充分愛でた後、窓際の花瓶に飾られる。

 最初は一輪だけだった花瓶も今では豪華な花束が作れるくらいになった。凜と佇む花々はイザークの愛情深さを象徴していた。


 シンシアは胸の奥がキュッと苦しくなる。

 最近、イザークに花をプレゼントされる度に来る、この胸に広がる甘くも苦しい気持ちが分からない。この感覚に陥るのはほんの一時だけで、その後は特になんともない。


 一種の罪悪感の類いだろうか。


 シンシアは内心首を傾げながらプレゼントされた花を眺める。今日は情熱的な真っ赤なバラだ。瑞々しくほんのりと良い香りがする。


『いつも素敵なお花をプレゼントしてくれて、ありがとうございます』

 顔を綻ばせてお礼を言うと、イザークは少しだけ照れ笑いを浮かべる。


 それから窓際の花瓶へバラを挿し終わると、イザークはソファに腰を下ろした。続いて膝の上を手で軽く叩いて合図する。


 呼ばれたので素直に膝の上に載った。

 顔を上げればピンクの鼻をイザークの人差し指が軽くつつく。やがて手のひら全体で全身を優しく撫でられる。その後は肉球をぷにぷにと揉まれてマッサージされる――最近の日課だ。


 最初は恐れ多くて気後れしたが毎回花をプレゼントされるので何かできることはないか考えた結果、もふもふさせるのが一番だという結論に至った。



(ううっ……この魔性の手から逃れられる猫なんて絶対にいない。嗚呼、天国……天国はここですか?)


 気持ちが良くてゴロゴロと喉が鳴っていることにシンシアは気づいていない。リラックスしていつの間にか身体は液体化していた。




 そんな愛猫の様子にイザークは肉球を揉みながら愛おしげに目を細める。


「ユフェ、気持ち良いか? 力加減に問題はないか?」

『大丈夫です。丁度良いです』


 尻尾と一緒に返事をすると、イザークが甘い溜め息を漏らす。


「はあ、どうしてユフェはこんなに可愛いんだ。ユフェはこの世で一番尊い。嗚呼、もっとでろんでろんに甘やかしたくなる。――キーリ、例の物を」


 キーリは小脇に抱えていた蔵書をテーブルの上に置いた。聖書と同じくらい分厚い一冊のタイトルには――愛猫用品カタログと題されていた。

 キーリが大切そうに抱いて持っていたので政治的重要な資料かと思っていたが見当違いだった。

 タイトルが目に留まったシンシアは驚いて液体化していた身体を起こした。



「さて。そろそろ新しい猫グッズを注文するとしよう」

『えっ!? この部屋にはたくさん猫グッズがありますし、一週間前に最高級品のブラシを買って頂いたばかりですよ!?』

「それもそうか。では職人に頼んでいくつか首につける宝飾品を作らせよう。宝石は何が良い?」

『結構です。私は充分良くして頂いてますし、森の宴がとっても気に入っているので、これをずっとつけていたいです!!』


 猫馬鹿を炸裂させるイザークをシンシアはやんわりと窘める。妃に贈るはずの森の宴ですら猫に与えてしまっているのだからこれ以上高価なものを贈られても困る。

 それでも食い下がるイザークを必死で説得していると、こめかみを押さえながらキーリが横やりを入れた。



「いい加減にしてください陛下。ユフェ様の仰る通りです。このところ僕の屋敷に荷物が届くと思ったら全部あなたが僕名義で注文した猫グッズばかり。いえ、そのことに関しては目を瞑りましょう。ですがまつりごと席で重要資料に紛れて猫用カタログを忍ばせないでください!」

 注意されたイザークは不服そうに口を尖らせた。

「キーリはいつから舅になった? 仕事中に表紙を眺めているだけだ。中身は見ていない。これくらい許せ」

「皇帝陛下の沽券に関わるでしょう!? あと個人的なお金だからとやかく言うつもりはありませんけど、最近浪費が酷いです」



 キーリの言うとおり、部屋には猫用グッズが一段と増えた。シンシアがおもちゃで遊ぶことはないので代わりに運動できるように棚を設置したり、家具を増やしたりして結果的にスペースがなくなり始めている。


「心配しなくても自分の決めた金額内で収めている」

「いいえ、どう見たって財布の紐はガバガバです。大体、あなたは昔から――」


 金銭感覚の違いで口論する夫婦みたいだな、とシンシアは微苦笑を浮かべる。

 イザークの主張から国庫のお金は手をつけていないので良いのかもしれないが、もっと別に使い道があるはずなのでそちらに使って欲しいと思う。



「二人とも痴話喧嘩はその辺にして。そろそろ時間だよ」


 すると突然、第三者の声が割って入った。

 入り口に目をやればカヴァスが腕を組んで立っている。相変わらずきらきらしい雰囲気を纏っていて、いけ好かない感じがした。


(そう言えば、側近騎士っていうけど、カヴァス様はちっともイザーク様の側にいないわ)

 常に行動を共にしているキーリと違って、宮殿内での彼はよく女性陣と話している印象を受ける。護衛も仕事のうちの一つであるはずなのに、それで良いのだろうか。


(まあ、雷帝に面と向かって襲いかかる大胆不敵な人なんていないわね。有事の時でもなければ、カヴァス様が側で仕える必要はないのかもしれない)


 カヴァスはキーリの肩に手を置いて、もう片方の手の人差し指を立てるとキーリに忠告をする。


「君が生真面目なのは分かっているけど、それで我を忘れるのは良くないよ。時計を見てみると良い。陛下と中央教会のヨハル殿の約束が迫ってる」

 正論を言われて言い返せないでいるキーリは口を引き結ぶとポケットから懐中時計を取り出して時間を確認する。



 シンシアはカヴァスの話を聞いた途端、期待で胸が高鳴った。


 ヨハルが宮殿に来ている。彼ならば額の呪いに気づき解呪してくれる。

 さらに今の自分は人間と話すことも可能なのでスムーズに帰れなかった事情を話すことができる。

 話すタイミングさえあればこの状況から上手く脱出することができるかもしれない。


(ここ最近のイザーク様は『シンシア』っていう単語を口に出さない。そろそろ怒りも静まって存在を忘れた頃だと思うわ)


 思いがけない幸運に恵まれて自然と猫髭が前に動き、尻尾もピンと上に立つ。

 期待に胸を膨らませていると、イザークがテーブルに置いていたベルを鳴らしてロッテを呼んだ。


「お呼びでしょうか?」

 イザークは膝の上に載せていたシンシアを抱き上げるとロッテに渡した。


「今日は今朝の続きの仕事もあって帰りが遅くなる。俺の代わりに夕食を頼む」

「お任せください。栄養のある食事を用意します」


 イザークは頷いて最後にシンシアの頭を優しく撫でる。

『お仕事頑張ってくださいね』

 心躍る素振りを見せないよう、シンシアは平生を装ってイザークへエールを送る。

 たちまちイザークは頬を染めた。胸に手を当てて「尊い」などと言って呻いている。



「陛下、急いでください」

 キーリとカヴァスに急かされ、後ろ髪を引かれる思いでイザークは部屋を出ていった。

 しかし三人が部屋を後にして束の間、息を切らしたイザークが戻ってきた。



「ロッテ、言い忘れていたがユフェをお風呂に入れてくれ。棚の猫用高級入浴剤を使って構わない」


 イザークは壁際にある棚を指さしてロッテに確認するよう促した。


「実は私もそろそろそんな時期だと思っていました。入浴剤をご準備いただきありがとうございます」

「抜かりない。因みに今シーズン発売したばかりの新作だ」


 新作という単語にロッテは目を輝かせ、俄然やる気を出す。棚の扉を開けてみると、そこには乙女心くすぐる可愛らしいパッケージの入浴剤が置かれていた。


 シンシアは心の中で頭を抱えると延々と叫んだ。

(なんでそうなるのよ!? 自動浄化作用があるからお風呂に入る必要はないし。あと、こんな可愛い入浴剤を持ってるイザーク様とか落差がありすぎる!!)

 もうどこから突っ込みを入れれば良いのか分からない。


 シンシアが混乱を極めているとロッテが入浴剤を手に取った。

「陛下には感謝いたします。さあユフェ様、綺麗になりましょうね」


 満面の笑みを浮かべるロッテに対し、シンシアはこれから待ち受ける苦難に絶望したのだった。

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