第22話
幼い時も宮殿に戻った今も、自分を気に掛けてくれる人間は誰一人としていなかった。
母は物心つく前に死に父は息子に、とりわけイザークに興味がない。いてもいなくても同じだとレッテルを貼られているようで苦しかった。
そんな暗くて辛い感情ばかりを抱いてしまうこの宮殿で、居心地が良くて温かな気持ちになったのは初めてだった。
イザークは少女のことをもっと知りたくなった。
「街の人たちというのはどういう意味だ? 君は一体……」
尋ねようとすると、遮るように前方から声が響く。
「シンシア! ここにいたのか。ワシから離れるなとあれほど言っただろう」
黒の祭服と紐文様の刺繍が入った緑の肩掛けを身につけている大神官・ヨハルだった。
街の人たちと言っていたのは彼女もまた教会の人間で慈善活動をしているからなのだろう。シンシアと呼ばれた少女は手を上げてヨハルの元に走って行く。
「もう間もなく皇帝陛下との謁見だ。頼むからどこかに一人で行かないでくれ」
「分かってます。――ヨハル様、ちょっと待って」
シンシアはくるりとこちらに向き直ると、再度不格好な礼をイザークにする。それからにっこりと微笑むとヨハルと並んで歩いて行った。
その笑顔はイザークの目に焼き付いたと同時に初めての感情を抱かせた。
胸の辺りがむず痒く、キュッと締め付けられたような感覚がする。けれど決して不快なものではない。
イザークは胸の辺りの服を手で押さえると少女の後ろ姿を暫くの間眺めていた。
当時の思い出に浸っていたイザークは、頭巾を指先で撫でる。あれ以来、自分も精霊魔法を使えるようになりたいと必死でティルナ語習得に励んだ。
同じように身につけることができればシンシアに近づけるような気がしたからだ。
戴冠式で再会できた時は心が歓喜で満たされた。すぐにでも話しかけたかったが立場上、軽率な行動はできずもどかしかった。
シンシアを見ていると、どうしても頬が緩みそうになる。だから彼女が挨拶をしに来た時、いつも以上に表情を引き締めて対応した。そのせいで彼女を若干怖がらせて避けられてしまっているので事情をきちんと説明したい。
イザークが苦悶に満ちた表情をしていると、カヴァスがにやつきながら言った。
「恋しいからって頭巾に頬を擦り付けたり、匂いを嗅いだりしないでくれよ」
「俺を一体何だと思っている。そんな変態染みた行為、するわけないだろう」
熱心に撫でていることをカヴァスがからかってきたので眉間に皺を寄せる。
皇帝という立場になって気が置けない人間はキーリとカヴァス、二人の幼馴染みしかいない。表向き渋面になるイザークだったが悪い気はしなかった。
「ここで頭打ちというわけではないさ。まだいくつか手段は残してある」
カヴァスが自信ありげに答えるのでイザークはまだ望みはありそうだと気を緩めた。
「引き続き全力で探し出してみせます。――というわけで私はこれからアマンダ嬢と会う約束があるから失礼するよ」
「前に口説いていたドナとクレアはどうなったんだ? あとこの間はコニーと食事にいったばかりだろう?」
「おおっと、何のことやら。私は単純にお喋り好きで交友関係が広いだけだよ」
困った表情を浮かべるカヴァスは誤解だと両手を挙げる。
何度も二人で出かけることをデートと言わないのは無理がある。絶対に相手の方はデートだと認識しているはずだ。
いつか激高した令嬢に刺されないか、イザークは女たらしの幼馴染みの身を案じた。
報告を終えたカヴァスが部屋からいなくなると静けさが室内を包み込む。一通りの仕事を終えたイザークは肩に手を置いて首を鳴らしていると、ピュウピュウという寝息がベッドから聞こえてきた。
椅子から立ち上がりベッドを覗き込むと、ブランケットの上でくるんと丸まって眠るユフェがいる。夢でも見ているのか時折耳がピクピクと動いている。
イザークは目元を手で覆うと悶絶した。
嗚呼、可愛い。目に入れても痛くないほどに愛おしい。この寝姿をしかと目に焼き付けておかなければ。
ひしひしと幸せを噛みしめ、再び愛猫を眺めた。その途端、イザークは瞠目した。
そこにいるのは愛猫ではなかった。代わりに恐ろしいほど顔の整った少女が身体を丸めて眠っている。長い睫毛で閉ざされて瞳の色は分からないが金色の髪と、何よりも紺色の祭服を着ている。
間違いなく、自分の探し求める相手だった。
「――シン、シア?」
震える唇から擦れた声で囁く。
信じられない。これは幻なのだろうか。そう思ってイザークはそっと頬を撫でてみると柔らかな感触がする。
(何が、どうなっているんだ?)
イザークは興奮を抑えながら目を擦り、再び同じ場所に目を向けてみる。と、そこに眠るのはシンシアではなくユフェだった。
しかしイザークの胸は早鐘を打つ。
実のところキーリから不思議な話を聞いていた。
それはロッテが服用していた薬瓶を回収して調べたところ、中身が魔瘴核ではなく清浄核に変わっていたということだ。
心臓の鼓動はさらに速さを増していく。
ユフェはイザークが唯一猫アレルギーが発症しない猫だ。もしも、猫アレルギーが発症しない理由が、呪いで猫にされた人間だったら?
「――まさかな」
そこまで想像を巡らせて、自嘲気味に笑った。
きっと自分は疲れている。疲れているから、こんな都合の良い幻覚を見る。
「ユフェは妖精猫だ。呪われた人間じゃない。ここに来て暫く正体を明かさなかったし、今回も魔瘴核を清浄核に変えたことを言えない理由があるのだろう」
肩を竦めてから幸せそうに眠るユフェの頭を指の腹で撫でる。最後にそっと額に口づけをすると部屋の灯りを暗くした。
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