第20話
太陽が沈み、雲一つない紫色の空には星たちが瞬いている。
宮殿では屋内外問わず主流魔法によって灯りがぽつりぽつりと点り始めていた。地上でも夜空のように美しい光が現れる様は幻想的だ。
その様子をぼうっと眺めながら、シンシアは窓枠に座り込んで尻尾を揺らしていた。
執務室での話が終わるとロッテは宿舎へと帰っていき、シンシアはキーリによって部屋へと戻された。それ以降ずっとある疑問が頭を占めている。
『私、どうして急に人間の言葉が話せるようになったんだろう……』
シンシアが持つ精霊魔法は守護と治癒、浄化の三つで、どれも呪いには干渉できない。
今にも消滅しそうになっていた上級の魔物から受けた呪いだったので中途半端な呪いが掛かってしまったのだろうか。
いくら仮説を立ててもしっくりとくる答えは見つからない。
諦めたシンシアは思考を一旦脇に置くと、今日の出来事を振り返ることにした。
ロッテの虐めの現場を目撃したところから始まって瘴気を帯びた薬の浄化、そしてイザークに危ないところを救ってもらったことなど順番に思い出していく。
執務室へ連行された時はどうなることかと肝を冷やしたが丸く収まって本当に良かった。
ふと、脳裏に執務室でのイザークの姿が浮かんだ。相変わらずの顔面凶器だが執務室から退室するロッテに向ける眼差しは穏やかだった。
(……イザーク様、本当は怖い人じゃないのかもしれない。だって噂ほど誰彼構わず処刑する人じゃなかった。欺瞞罪からロッテが逃れられるように最初から話を聞いていたってことにしてくださったし)
イザークと過ごしてみて薄々気づいていたことがある。
それは彼が臣下や貴族たちから『雷帝』と恐れられているほど血も涙もない極悪非道ではないということだ。
――寧ろ、本来の彼は優しい人間なのではないだろうか。
最初は猫にだけ優しい人間なのかと思っていたが、そうではないことを今日の執務室で知った。
働きづめでうっすらと目元にクマができているキーリを労っていたし、資料を運んできた文官にも礼を言っていた。
何よりも彼の机の上に置かれている書類にはネメトン周辺に住む人々の生活が瘴気に脅かされず、安心して暮らせるように政策提案がまとめてあった。
身近な人や国民を想い、暮らしを良くしようとしている。
『雷帝』と言われて恐れられているが実際は懐の深い人物であるように思う。
(猫にも、そして人間にも優しい。なのに私の名前が出るといつも恐ろしい顔つきになるのはどうして? できれば私に対しても優しさを持って欲しいわ……)
深い溜め息を吐いていると微かに空気が揺れたのでシンシアは意識を引き戻した。
目前の窓ガラスに映り込んでいるのは自分の顔。その隣には顔面凶器が窓越しにこちらをじっと見つめていた。
「何を見ているんだ?」
『ひぎゃああああっ!!』
吃驚のあまり、シンシアは跳び上がってそのまま全速力でソファの後ろに逃げ込んだ。いつの間に隣に立っていたのだろうか。考えごとをしていて気づかなかった自分が悪いのだが心の準備ができていなかったので衝撃を受けた。
「嗚呼、驚かせてすまないユフェ」
言い方や雰囲気からおろおろとしている空気が伝わってくる。シンシアがそっとソファから顔を出せば、片膝を床につけて許しを請うイザークの姿があった。
(皇帝が猫に跪くってどういうこと!?)
今度はシンシアが慌てふためいた。ぱっと飛び出してイザークに駆け寄る。
『私は大丈夫ですので、そのようなお姿はおやめください。皇帝の威厳が損なわれます!!』
だがイザークは微動だにしない代わりにおもむろに口を開いた。
「……正体を明かすことはユフェにとって危険な行為だったんじゃないのか? こんな結果なってしまったのも、俺がロッテを怖がらせてしまったから」
イザークは自分のせいでユフェが妖精猫であることを明かしたのだと勘違いしているらしい。
シンシアは妖精猫ではなく呪われた人間だ。実際はどうして喋れるようになったのか分からないし、謝罪されても却ってこちらが気後れしてしまう。
『確かに誤解はしてしまいました。でも最初からイザーク様はロッテを処罰する気なんてなかったんでしょう?』
「厳重注意処分にはする気だった。だが結果的にユフェに迷惑を掛けてしまったんだ。そのことについては詫びよう」
『それは私じゃなくてロッテに言ってください。あと正体を明かしたことは後悔してません。今まで黙っていたのは突然猫が喋ったら好奇の目に晒されるのを恐れていたからです。でもイザーク様やその周りの方たちなら私を受け入れてくださると確信したんです』
我ながら上手く言ったものだ。口からの出任せではあったがイザークはその言葉に納得したようで、こっくりと頷いた。
「分かった。ロッテには怖がらせてしまったことをきちんと詫びよう」
『ええ、お願いします。というか、私は最初から許しているので早くお立ちに――っ!?』
気づけばシンシアはイザークの腕に抱かれていた。次に優しく頭をぽんぽんと撫でられる。何がどうなったのか分からず、シンシアは目を白黒させた。
「大丈夫だ。ユフェが妖精猫であることは漏らすなとキーリとロッテ、それからカヴァスには伝えてある。宮殿では今までどおり、普通の猫であるように振る舞ってくれ」
秘密を打ち明けてくれたことが嬉しくて仕方がないのか、イザークは瞳を細めて屈託のない笑みを浮かべる。
やがて、渡したいものがあると言われてシンシアは一旦床に下ろされた。じっと眺めていると、イザークは懐から黒くて四角い箱を取り出した。
「悪いが後ろを向いて座ってくれないか?」
頼まれたシンシアは素直に身体を反対に向ける。と、首後ろでカチリという音がして少し重たいものが首に下がった。
下を向いても丁度見えない位置に何かがある。再び抱き上げられて姿見へ移動するとシンシアの首元には神々しく輝く宝石――森の宴があった。
「これは妖精猫であるユフェにこそ相応しい。首が苦しくないよう伸縮自在の特別なものを使っている。――やはり、若草色の瞳には森の宴が似合うな」
どこか満足げなイザークはやがて、シンシアの首後ろに口づけを落とした。
「……っ!?」
鏡越しで目の当たりにした行為にシンシアは目を見張る。
口づけされたところが熱くなり、さらにその熱は身体全体へと広がっていく。
心臓がいつもより激しくて煩く、それと同時に心の底から焦がれるような感情と喜びの感情が沸き起こり綯い交ぜになる。
――また、自分の体調が悪くなっているようだ。
シンシアは心臓の鼓動を感じながら、健康的な生活を心掛けようと何度も自分に言い聞かせたのだった。
執務室での出来事から数日後。
シンシアはロッテと暖かな日差しの下で中庭を散歩していた。
あの日以降、ロッテは毎日献身的に世話をしてくれる。イザークと同じくらい甘やかしてくるところが少々困るが、前よりも打ち解けてとても仲良くなった。
「――それで、ランドゴル伯爵との間にあった誤解は解けたの?」
隣で歩幅を合わせてくれるロッテに尋ねると、彼女は気恥ずかしそうに頬を掻く。
「ええ。お父様は仕事が多忙だったのと娘への接し方が分からなかったのを理由に距離を置いていたみたいなの。私が手紙を送ったことは何故かお義母様にバレて叱られたそうだわ。お義母様、普段は別の領で領主代行をしているから会ったことはないけど……」
そこでロッテが歩みを止めて口を閉じた。
丁度前方から先日ロッテを虐めていた三人組の侍女が大股でこちらに向かってきている。
「ちょっと! この間は私分をわきまえるように忠告したはずよ? どうして先輩に逆らうわけ?」
キッと睨みつけてくる侍女たちにシンシアは口元を露骨に歪めた。
(まったく懲りない人たちね!! 自分の仕事が嫌で無理矢理ロッテに押しつけただけじゃない!!)
腹底から怒りが沸々と込み上げてくる。
ロッテはトレードマークの栗色の髪のポニーテールを靡かせながら、近くの木に向かって「おーい」と声を掛けた。すると、一匹のリスがするすると降りてきた。そのまま軽やかな足取りでロッテの肩に乗る。
「先輩方に紹介します。この子はこの中庭に長い間住んでいるリスさんです。他の動物たちとも顔が広い子なのでいろんな情報を持っているんですよ。例えば、誰かさんが廊下の装飾品の一部を誤って壊したけど隠蔽したとか。宿舎で他の侍女の部屋に忍び込んで物を盗んだとか。あとは……婚約者がいるのに同僚の侍従と逢瀬を重ねているとか、ね?」
たちまち、三人組の侍女の顔色が真っ青になった。
その後もロッテは『誰かさん』と言いながらも暴露されては困るような隠しごとを延々と話し続けた。終いには侍女たちは手と手を取り合ってガタガタと震えている。
「……それで、素敵な先輩方は私に何のご用でしょうか?」
にっこりとロッテが微笑めば、三人組の侍女たちは無言で踵を返してしまった。
ロッテはリスにお礼を言ってポケットからクルミを渡すとシンシアに向かって片目を瞑ってみせる。
シンシアは若草色の瞳を細めると再びロッテと色とりどりの花が美しく咲く中庭を歩き始めたのだった。
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