第18話
執務室に連れてこられると程なくして書類を抱えたキーリが姿を現した。
「おや、一度休憩すると仰って喜色満面でユフェ様の元へ向かわれたはずなのに。何か問題でもありましたか?」
執務室は本来であれば皇帝とその側近や関係者以外、立ち入り禁止だ。それにも拘らずただの猫と世話役の侍女がこの場にいる。
これは何かあったのだろう、とキーリは察しているようだった。
イザークはシンシアを抱いたまま自身の椅子に腰を下ろして長い脚を組む。
「――ロッテ、さっきは何があったのか包み隠さず話せ」
気に入らない人間を目だけで瞬殺できそうな厳めしい表情で、ロッテを睨めつけている。
シンシアは宮殿に連れてこられた当初よりイザークに対する畏怖の念は抱かなくなったと自負していた。ところがそれはただの勘違いだったらしい。
今は心臓が縮み上がるほどの恐怖で支配されている。
ロッテは小さな悲鳴を上げるとすぐに深々と頭を下げる。その体勢のまま、彼女はことの次第を話した。
「――本当に申し訳ございません。陛下の大切な猫を危険な目に遭わせてしまいました」
謝罪の言葉を口にするロッテに対してイザークは終始無言のままだ。沈黙と張り詰めた空気だけがその場を支配していた。
シンシアが落ち着かない様子で二人を交互に見ているとやがて、イザークが沈黙を破った。
「侍女長から話を聞いているぞ。ユフェの世話を嫌がっていたらしいな。それから世話をしていなかったことについても報告を受けている。今回のことはそれと関係するのか?」
「……っ!!」
侍女長はロッテの配置換えの頼みも、さらには世話を放棄していたことも包み隠さず報告していたらしい。
イザークに申し出ればどうなるか分かっていたからこそ、ロッテは侍女長に相談していたのに。すべては筒抜けだった。
ロッテは血の気のない顔を上げて口を開き掛けたがそのまま噤んだ。
大事な愛猫を危険な目に遭わせた事実がある以上、どんな言葉を並べ立てたところで雷帝と恐れられるイザークがロッテを斟酌してくれる可能性は低い。
シンシアは話が恐ろしい方向へ進展してしまうのではないかと危機感を募らせていた。
(ロッテは自分が動物と意思疎通ができないから侍女長に配置換えを頼んだのよ。それを聞き入れなかったのは侍女長でしょう? 彼女が配置換えをしてくれていれば世話の放棄だってなかったんだし、ロッテが全部悪いっていうのは違うと思うわ。私が木に登ったのだってロッテのせいじゃない)
シンシアが救いを求める眼差しをイザークに向ける一方で、彼はじっと考え込むように黙り込んでいる。やがて小さく息を吐くとおもむろに席を立った。それから机を回ってロッテの前へと足を運ぶ。
「ロッテは俺の期待に応えなかった。あまつさえ、俺の前ではユフェの世話をきちんとしているように欺いていた。これが何を意味するか分かるか?」
詰め寄られたロッテは傍から見ても分かるほど震えている。消え入るような声で「分かりません」と応えると、キーリが代わりに答える。
「皇族に欺しや嘘を吐いた場合は欺瞞罪が適用されます。重い場合は個人のみならず家族も含まれ、財産の没収に加えて爵位の剥奪もあり得ます」
「申し訳ございません! わ、私はっ……」
涙声で謝罪の言葉を何とか絞り出すがイザークは聞き飽きたとばかりに手を振った。
「言うことは謝罪の言葉だけか?」
さらに低くなった声音にロッテは息を呑む。怒りの静まらない様子のイザークはこれから処罰するつもりだ。
シンシアはイザークの腕の中で暴れると、腕の力が緩んだ隙に机の上に飛び乗った。
『ロッテから詳しい話を聞いていないのに勝手に処罰しないでください!』
シンシアは必死にイザークに訴えた。言葉が通じなくとも、小鳥と気持ちが通じ合ったようにイザークにも気持ちが届くかもしれない。
それに愛猫重症患者なら自分の猫の気持ちくらい表情を見て擦ることができるはずだ。
ところがイザークはシンシアの方を見てぽかんと口を開けただけだった。何故かその背後では同じようにキーリも驚いて呆気にとられている。
シンシアは首を傾げた。
(いつも一声鳴けば話しかけてくれるのに。どうしてイザーク様は応えてくれないの?)
聞いているか確認を取るために再度話しかける。尚も反応を見せないイザークにとうとうムキになった。
『もうっ! イザーク様の人でなし!! ロッテを傷つけたら私が許さないんだから!!』
「…………俺は人でなしか?」
『ええ、そうです! 人でなしです!! ロッテが意思疎通できなくなったことやその苦しみを知らないまま勝手に処罰しようとしてるあなたは人でな……うん?』
途中まで捲し立てるように喋っていたが二、三瞬きをする。
(今、イザーク様は正確に私の言葉を聞き返さなかった?)
室内は一瞬沈黙が流れ、シンシアは背中に嫌な汗をかきはじめる。
これは一体どういう状況だろう?
混乱しているとロッテが恐る恐るといった様子で小さく手を上げて呟いた。
「あの、ユフェ様は妖精猫だったんですね」
「妖精猫? なんだそれは?」
聞き慣れない言葉に疑問符を浮かべたシンシアの代わりに、イザークが尋ねる。
ロッテは自分が話しても良いものか躊躇ったが、訥々と説明を始めた。
「妖精猫は
シンシアはロッテの説明を聞いて、どういう状況に直面しているのか漸く理解した。
呪いで猫の言葉しか話せなかったのに、どうやら人間の言葉が話せるようになっているらしい。
人間の言葉を話す猫など奇怪を極めている。だからイザークもキーリも目を白黒させていたのだ。ただ一人、ロッテだけは冷静だった。
「妖精猫は人間事情にも詳しく、あと妖精なので精霊魔法が使えるとも書かれていました。一族の中には作り話ではないかと怪しむ声もあったのですが、たった今本当であることが証明されました。数百年に一度の大発見です」
率直な見解を口にするロッテに対して、シンシアは慌てふためいた。自分は魔物の呪いで猫にされた普通の人間で、そんな滅多にお目にかかれない存在ではない。
訂正を入れようと口を開き掛けたが、喉の先まで出かかった言葉をグッと飲み込んだ。
まずここで自分が呪いを掛けられた人間だと告げれば速やかに中央教会の神官が呼び出され、解呪してくれるだろう。しかし解呪してもらったが最後、シンシアは元の人間の姿――つまりイザークが処刑したくて堪らない聖女に戻ってしまう。
それだけは絶対に回避したい。
このまま妖精猫と偽るか、人間であることを正直に申し出るか。
心の中で葛藤が続く。
(心配している皆に迷惑掛けてしまったことを謝りたい。元気な姿を見せて安心させたい。――でもやっぱり解呪してもらうならイザーク様がいない、安全が保証されたところがいい)
最後の最後でシンシアは命惜しさに黙殺することにした。
ロッテの話を聞いて喜びの声を上げたのはイザークではなく意外にもキーリだった。
「なんと。ユフェ様がそんな希有な存在だったとは!」
いつも生真面目で笑顔の一つも見せないのに珍しい。爽やかな笑みを零すキーリはすぐに我に返ると咳払いをして真顔になった。
「失礼しました。精霊を間近で拝見するのは初めてだったので。ランドゴル嬢もユフェ様も何か勘違いをされているようですが、陛下が先ほど『言うことは謝罪の言葉だけか?』と仰ったのは、ランドゴル嬢がどうして陛下を欺いたのかを正直に応えて貰うためですよ。だってあなたの口から事実を話しておけば陛下を欺いたことにはなりませんからね」
キーリの言葉を聞いて驚いたロッテは不安げに顔を上げた。
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