第17話



『今だ!』


 シンシアは素早くティルナ語で呪文を詠唱し始めた。

 言葉を紡ぎ始めると虹色の光の粒が現れ、それは瘴気を纏った茶色い瓶も小鳥がくわえる丸薬もそしてロッテすらも、全てを包み込んでいく。


 何が起こったのか分からないロッテは恐怖で悲鳴を上げたが、すぐに意識を失ってガクンと膝からその場にくずれおちてしまった。

 全ての詠唱を終えると光の粒はまるで生きているように渦巻き状に動き、神官が身につける組紐文様の陣を描くと空気中に溶け込むようにして消えていく――。



 辺りは鳥のさえずりやそよ風に揺れる葉音だけが響いていた。

 立っている位置からはかろうじて倒れているロッテの顔が見える。体内の瘴気が消えたことで顔色が幾分か良くなっていた。


 シンシアはほっとして小さく息を吐いた。


『浄化はこれで完了したけど。……あの薬、どうして瘴気が含まれていたの?』

 通常瘴気があるのはネメトンか瘴気を持つ一部の上級の魔物だけだ。その場合は気体なので薬の調合で使用することは不可能。とはいっても人間が瘴気を扱える方法は一つある。


(魔物の核――魔瘴核ましょうかくは瘴気の塊だから、核を粉末にしてしまえば可能だわ)



 魔瘴核は赤色の鉱物石のような見た目で内部に瘴気が含まれている。

 魔瘴核の瘴気は各内部に含まれ、気体ではないので割って砕いたものを口にしない限りは安全だ。


 瘴気を含む魔瘴核だが、それを取り除くことで貴重な良薬となる。故に平生は帝国が魔瘴核を回収し、中央教会の元で浄化され厳重に管理される。浄化された魔物の核は青色に変化して清浄核せいじょうかくと呼ばれ、そこで漸く薬の材料となる。


(魔物の核に瘴気が含まれているってことも薬になるってことも一般の人は知らない。知っているとすれば魔物の討伐部隊の騎士とか、神官や宮殿のお偉い薬師の一部の人間だけってリアンが言っていたわ)


 さらに魔物に関しては帝国と中央教会が連携して管理している。

 教会がネメトンに結界を張って魔物の侵入を防ぎ、有事の際は帝国が討伐部隊を派遣する。民間のギルドが討伐することは絶対にない。


(これまで結界が破れて魔物が侵入したことがあったらしいけど、それは私が教会に引き取られる前の話で最近までなかった。魔瘴核はすぐに清浄核にされて帝国と教会が厳重に管理しているのに。……誰がどうやって手に入れたの?)



 じっと考え込んでいると、小鳥が窓枠に丸薬を置いて部屋の中に引き返す。ロッテの耳元で鳴いて軽く頬をつつけば瞼が震え始め、榛色の瞳がゆっくりと開かれた。


「……私ったらどうしたのかしら」

 状況が把握できていないロッテは額に手を当てながら起き上がる。



「チチッ、チチチッ」

「そう。あなたとユフェ様が助けてくれたの。――え?」


 額から手を離して目を瞬きながら、ロッテは小鳥を見下ろした。困惑と歓喜を綯い交ぜにした表情が浮かび上がり、うまく言葉が出せないのか口をぱくぱくさせている。


「う、嘘……言葉が、言葉が分かるわ!!」

 やっとの思いで言葉を絞り出したロッテは口元を両手で押さえ、感極まって涙を零した。

 その様子を見たシンシアは目を細めた後、彼女の名前を呼ぶ。

『ロッテ!』

 こちらに気づいたロッテはハング窓に駆け寄ると、下窓を全開にして身を乗り出した。



「ユフェ様、木の上は危険だからすぐに降りて!」

 お礼を言われるのかと思ったが予想は大きく外れて心配されてしまった。

 シンシアが立っている枝は宿舎二階と同じ高さにある。

 万が一落ちれば骨折は免れないだろう。


「早く幹の方へ戻って。私はランドゴルの魔法が使えても主流魔法は使えないの!」

『え、何? なんて言ったの?』

 強い風が吹き始め、ロッテの最後の言葉は掻き消されてしまう。

 シンシアが聞き取ろうともう一歩踏み出すとパキリ、と枝が音を立てた。

 あっと声を出すと同時に枝は折れ、シンシアは地面へ真っ逆さまに落ちていく。



「ユフェ様!!」

 ロッテの悲鳴に近い叫び声が頭上から響く。この速度で精霊魔法はまず間に合わない。

 精霊魔法の欠点はティルナ語の発音が難しいことと、主流魔法のように詠唱を省くことができないことだ。そして精霊魔法が使えない理由がもう一つある。


(普通の猫は魔法なんて使えないからロッテに魔法を使っているところを見られたら困る。それなら怪我が最小限に済むように手を打つしかないわ)

 シンシアは受け身の形になるよう体勢を整えて衝撃に備える。



 できれば軽傷で済みますように。心の中で祈っていると落下速度が急激に緩んだ。


(ど、どうなってるの?)



 ロッテが助けてくれたのだろうか。頭を動かして宿舎二階に視線を向けてみるも姿はない。開いた窓からはためくカーテンが見えるだけだ。


 それでは一体誰が?


 地面に足が着き、こてんと首を傾げていると背後から足音が聞こえてきた。振り返ると同時に誰かに優しく抱き上げられ、目前に真っ黒の上衣が現れた。この宮殿で黒を纏う人物はあの人しか見たことがない。

 顔を上げれば、心配な面持ちのイザークの顔がある。彼はためつすがめつ時間を掛けてシンシアに怪我がないか確認する。


「ユフェ、どこも痛いところはないか?」

「ミャウ」


 大丈夫だと鳴けばいつも以上に強く抱きしめられる。彼の温もりがじんわりと身体に伝わってきて、今更ながら恐怖で全身が小刻みに震える。


(タイミングよく助けてもらえて良かった。覚悟はできていたけどやっぱり怖かった)


 温もりをもっと感じたくて顔を胸板に押しつければ、大きな手が背中を撫でてくれる。何度も撫でられているうちに徐々に恐怖心は消えて、身体の力も抜けていった。



「ユフェ様っ!!」

 宿舎から急いで出てきたロッテは顔が真っ青だった。が、イザークを見るなりさらに顔を青くさせ、ごくりと生唾を飲み込む。

 ロッテは深々と一礼した。


「イザーク皇帝陛下に拝謁いたします。ユフェ様をお救いくださりありがとうございます」

「ランドゴル家の者ならば、猫の習性など熟知しているはずだが。どうしてこんなことになった?」


 怒気を含む声が響き、シンシアでさえも肝を冷やした。殺気立ったオーラを直接肌で感じて息をするのもままならない。


「そ、それは……」

「ついてこい。詳しい話は執務室でする」

「……かしこまりました」


 顔を上げるロッテは恐怖の色を滲ませながら、イザークに付き従った。


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