第16話
◇
取り残されてしまったシンシアは途方に暮れていた。何故ならロッテを追いかけようとした時には、既に彼女は姿を消してしまっていたからだ。
まさかの俊足をみせたロッテ。せめてどの方角へ走っていったのかだけでも分かれば追いかけやすいのだが。
うーんと唸っていると、隣にいたロッテの小鳥が忙しなく跳ねて鳴いた。
「チチッ、チチッ」
『ロッテの行き先が分かるの?』
「チッ!」
『お願い、案内して』
向こうの言っていることは全く分からないが、何を伝えたいのか何となく分かる。
小鳥は再度短く鳴くと、翼を羽ばたかせて空へと舞い上がった。
外の通路を進み終わると、その先の舗装された石畳の小道を通る。それから森の中を抜けていくと白い二階建ての建物――使用人専用の宿舎が見えてきた。
木々に覆い隠されるようにひっそりと佇んでいるそれは秘密の場所のようにも見える。
玄関まで歩いたは良いものの、入り口の扉はきっちりと閉まっていて入れそうにはなかった。
扉を恨めしく眺めていると小鳥が再び鳴いた。こちらだというようにぴょんぴょんと跳ねるので素直に従う。案内された場所は大木の前だった。
小鳥は畳んでいた片翼を広げて何かを示してみせた。
『もしかしてあそこがロッテの部屋なの?』
示されたは宿舎二階の角部屋だ。幸い、大木に近い位置で伸びた枝を使えば窓際まで辿り着けそうだ。
『分かった。あそこまで私が登れば良いのね!』
シンシアは小鳥の意図を理解すると早速木に登り始めた。
お風呂嫌いのシンシアは日頃リアンの魔の手から逃げるため、全力疾走は然ることながら物陰に隠れることも木登りをすることも得意だ。
聖女になって間もない頃、木に登って外廊下の屋根へ飛び移り逃げ切ったことがある。最後は見つかり、心配したリアンに木登りだけはやめて欲しいと懇願されてしまったが。
木登りは久方ぶりだったが、動きにくいワンピース型の寝間着でよじ登っていた時と比べて猫の姿は随分と身軽で動きやすい。
幹の膨らみを足場にしながらせっせと宿舎二階と同じ高さまでに到達すると、ハング窓に近い枝へと移動する。シンシアは落ちないようバランスを取りながら慎重に先へ進んだ。枝は窓に近づくにつれて細くなっていて、さらに窓との間には距離がある。
少しだけ開いているので助走をつけて跳べば部屋に入ることはできるだろう。だが、勝手に人の部屋に上がるのは如何なものか。
迷った末、シンシアは大きな声を出した。
『ロッテ、中にいるんでしょ? 出てきて』
しかし部屋からは物音一つしない。
シンシアは首を傾げてもう一度声を掛けようとする。息をたっぷり吸い込んで口を開きかける。と、突然嫌な気配を感じて身の毛がよだった。
意識を集中させてその気配がどこから来ているのか探ってみると、ロッテの部屋から伝わってくる。初めて感じる不穏な気配は魔物の瘴気に似ているが、それとはまた少し違っていた。
(この気配は一体何? 瘴気のようで瘴気じゃない。そもそもこれは魔物のものなの?)
必死にその気配を探ると、それは微かに拡大したり収縮したりしながら蠢いている。魔物の気配や瘴気などは聖職者や魔法使いなら容易に感じ取ることはできるが、今回のように微細な気配は神官クラス以上か上級魔法使いでなければ感じ取れない。
意思疎通ができないロッテは魔法が使えない状態にある。当然気配を感じ取ることはできないはずだ。その上で、もしも部屋に魔物が潜んでいるとなれば弱り目に祟り目だ。
(これが魔物の瘴気ならロッテが危ない)
一刻も早く彼女に逃げるよう伝えないといけない。
……でも、どうやって? ロッテはもう動物の言葉が分からないのに。
シンシアは臍を噛んだ。
名案が浮かべば良いのだがこれといって思いつかない。猫になって特に不自由はしていなかったが、言葉が通じないことがここまでもどかしいのだと初めて知った。
悶々としていると、地面にいた小鳥が飛んできて隣の小枝に留まった。
「チッ!」
首を何度も左右に傾げながら力強く鳴いている。
何を迷ってぐずぐずしているんだ、と急かしているような気がした。
(そうよ。言葉が通じなくたって、私とこの子みたいに心が通じ合えるかもしれない)
高い木の上に登っているところを見ればロッテは慌てて宿舎から出てくるかもしれない。それができれば彼女の身の安全は確保できる。
やってみないと分からないのに最初から諦めてどうする。
シンシアは自身を叱りつけると、肺を広げるように大きく息を吸い込んだ。今度はさらに声を張り上げてロッテを呼ぶ。
『ロッテ! いるなら出てきて!!』
部屋の中から反応はない。それでもシンシアは根気強く呼びかける。繰り返しているうちにいよいよ声が掠れて咳き込む。
(言葉が通じなくても私が鳴いてるのは分かるはずよ。反応がないのはどうして?)
訝しんだシンシアはさらに枝の先端へと進み、若草色の瞳を細めて窓と窓枠の間を覗き込んだ。室内は至ってシンプルで、右側に机と椅子、左側にベッドとクローゼットと小さな本棚がある。そこにロッテの姿はなかった。
一体どこに消えたんだろう。
困惑していると部屋の入り口脇にある扉が開いた。中から清潔なお仕着せに着替え終えたロッテが出て来た。
汚水を浴びて汚れてしまったのでお風呂に入っていたようだ。
トレードマークであるポニーテールは下ろしていて髪は半乾き。頬は少し赤く染まっているがどんよりとした印象だ。
ロッテはふらふらとした足取りでベッドに腰を下ろした。瞳から大粒の涙が溢れ、お仕着せが濡れることも気にせずに俯く。
やがて、胸の奥にしまっていた真情を吐露し始めた。
「……力が使えないこと、正直に陛下に申し上げるしかないんだわ。ユフェ様のお世話は力不足だもの。侍女長に配置換えをお願いしても聞き入れてもらえなかった。だから、わざと陛下がいない時を狙って職務怠慢を起こしたのに。それでも現状は変わらない」
ロッテは耐えるようにスカートを強く握りしめる。
話を聞いてシンシアはその考えが何となく理解できた。
イザークに職務怠慢がバレたらただでは済まされない。きっとすぐにでも処刑しろと言い出すか、最悪の場合剣を抜いて自ら手を下すかもしれない。
できるだけ内密に済むようにイザークの前ではユフェの世話をして、それ以外では世話を放棄していたのだ。
(愛猫重症患者のイザーク様の前なら私もそうする。でも、ロッテが抱える問題はそれだけじゃない気がするわ)
ロッテは今まで息をするように動物たちと対話して暮らしてきたはずだ。突然言葉が分からなくなってしまうことは彼女の当たり前だった世界の崩壊を意味する。つまり、ユフェの世話を続けることは辛酸を嘗めることなのだ。
手の甲で目尻に溜まった涙を拭うロッテは鼻をすすりながら続ける。
「お父様だけには知られたくないわ。庶子の私は今度こそ幻滅されて見限られてしまう。ランドゴルの力を持たない私は価値のない出来損ないだから。――ううっ、また頭が痛くなってきたわ」
額を押さえながらロッテは扉横の壁に設置された飾り棚へ手を伸ばす。
シンシアは視線を動かして飾り棚の上にある茶色いガラス瓶を見た。ラベルが貼られ中には丸薬がいくつも入っている。
至って普通の薬瓶。だが、先程の不穏な気配を感じた。
『……もしかして、瘴気みたいな気配の正体ってあの薬!?』
確認のため意識を薬瓶に集中させる。思った通り、一つ一つの丸薬からまざまざと瘴気を感じ取った。
(ロッテが魔法が使えなくなったのはあの薬のせい? もしそうならあれは毒薬よ)
ロッテはよろめきながら立ち上がると机へと向かう。苦痛の表情を浮かべ、楽になりたいと手を伸ばす様子を見てシンシアは焦った。
『それを飲んじゃ駄目!』
しかしロッテにはシンシアの言葉が届いていないようで薬瓶の蓋を開ける。手のひらにコロンと出てきた丸薬からは先ほどよりも一層瘴気が強くなった。
(多分ここからじゃ浄化の魔法は届きそうにないわ)
瘴気を浄化するにはシンシアが対象物に接近するか触れる必要がある。この距離では浄化できるかどうか怪しかった。
『せめて、せめてロッテがもう少しこっちに来てくれたら……そうだ!』
シンシアは顔を小鳥に向けるとロッテの気を引くように頼んだ。小鳥は了解したと短く鳴くとすぐに枝から飛び立って、部屋の中へと入っていく。
小鳥の大きさから瓶を足で掴んで持ってくることは不可能。しかし、手のひらの丸薬を掴んで気を引くことはできる。
「あっ、何するの! それはあなたの食べ物じゃないわ。返しなさい!」
小鳥は器用に飛びながら嘴で丸薬をくわえると窓枠へと降り立つ。
瓶を握りしめたままのロッテは血相を変えて窓辺へ向かってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます