魔力酔い止めの薬

第15話



 ◇


 イザークは貴族たちとの会議を済ませると執務室で事務作業をこなしていた。

 ユフェの部屋と化している仕事部屋と同様に、室内は年季の入った艶やかなローズウッドの机とその後ろにアルボス帝国を象徴する翼の生えた獅子と月桂樹のタペストリーが掛けられている。

 その他、側近のキーリや文官たちも仕事ができるようにいくつか机が設けられていた。


 今、ここにいるのはイザークとキーリの二人だけだ。

『雷帝』という異名が付いたことであからさまに嫌な態度を取る貴族はいなくなった。



 これは側近たちやオルウェイン侯爵である祖父が手を貸してくれたお陰でもある。

 中でもキーリは頭の回転が速く、状況を把握するとこちらの利になるよう動いてくれる。剣は握れない代わりに多くの書物を熟読し、吸収した知識を駆使して政治の手腕を振るってくれているのだから彼ほど頼りになる右腕はいない。



 キーリは国民を苦しめていた貴族から多くの証拠を掴んで取り締まることに成功した。

 人身売買や麻薬など数々の悪行に手を染めていた貴族は全員財産を没収し、爵位や称号を剥奪した。

 加えて反乱を起こせないように空気中の魔力が薄い辺境地へと飛ばした。魔法も使えず、簡単には連絡の取れない場所に送ったことで周囲は彼らがどうなったのか確かな情報を掴めないでいる。


 貴族たちの間では雷帝に目を付けられると無残な末路を迎えるという噂が流れ、その結果悪事を働いたり皇帝に刃向かったりする者は相当数減った。

 だが、今回の議題で大人しくなっていた貴族たちに反撃の機会を与えてしまった。



「このところ大人しかった貴族たちが騒ぎ始めたな」

「ええ。その通りですね」

 心の内を吐露すると控えていたキーリが深く頷いた。

 議題の内容は中央教会の大神官・ヨハルの弾劾を求めるものだった。



 今回、ヨハルが担当しているネメトンの結界に亀裂が入り、何者かに破壊されて大騒ぎになった。

 討伐部隊の調査の結果、犯人が人なのか魔物なのか分かっていない。

 小心者の貴族の中には取り乱して「魔王が復活したのでは?」などと馬鹿げたことを言う輩も現れる始末だ。


 結界自体が弱まって魔物が侵入してしまうことは過去にも事例がある。これまでさしたる問題ではなかった。しかし、ネメトン付近の領内で原因不明の瘴気の発生も重なって、教会側の過失ではないかと囁かれている。

 ここでもし聖女の失踪が明るみに出れば大騒ぎするどころかすぐに弾劾裁判が決行され、ヨハルは間違いなく罷免される。


(ヨハル殿以外に大神官が務まる者はいない。他の者などそれこそ貴族たちの傀儡くぐつにされるだけだ。シンシアの失踪は隠しているが、瘴気が頻発して人的被害が出れば、領主が教会に対して聖女の派遣を要請するだろう)


 その時が来るまでに何とか瘴気の原因を突き止め、シンシアを見つけださなくてはいけない。不安と焦慮ばかりが先行する一方でイザークはある決断を下した。

「……討伐部隊に命令しているシンシアの捜索を切り上げる」


 既にネメトン付近には帝国騎士団と中央教会の聖職者からなる調査団が赴任している。

 討伐部隊をこれ以上留め続ければ貴族たちに怪しまれ、シンシア失踪が知られてしまうかもしれない。


 苦渋の決断だが仕方のないことだった。

 キーリは首肯すると、手配するために一度下がった。



 平静を装っているイザークはキーリがいなくなると深い溜め息を吐いて眉間を揉む。


 討伐部隊を撤退させてもカヴァスに命じているのでシンシアの捜索は続行される。一度も連絡がないことは気がかりだが、カヴァスの腕は確かだと自分に言い聞かせた。


(結界があるということは生きている証拠だ。カヴァスが必ず見つけ出してくれる)

 なかなか晴れない不安を抱えたまま、イザークは報告書に目を通し始めた。






 仕事が一段落ついたところで、執務室に戻ってきたキーリがお茶を出してくれた。

「お疲れ様です。陛下が毎日ここで仕事をしてくれると僕は大変助かります」

 イザークは出されたお茶を早速啜った。


「最近は仕事が滞るようなことはしていないだろう。あと場所は関係ない」

「そうは仰いましても……噂になっているんですよ。『雷帝が猫を溺愛して自室に引き籠もっている』って」

 それについては自身も小耳に挟んでいる。それはもう嫌というほどに。

 イザークは不満げな顔になった。


「噂を払拭するためにこうして執務室で仕事をしている。本音を言えば、俺は早くユフェのところに帰りたい」

「下心があるにせよ、陛下が仕事に意欲的になったことは嬉しい限りです。ですが擦り寄ろうとしてくる貴族たちから猫が献上されたらどうするんですか? ユフェ様以外の猫に触れるとアレルギー反応を起こすのに!! 勝手に宮殿内に放たれでもしたら今度こそ死ぬかもしれませんよ!?」



 実際問題、ユフェを宮殿に連れ帰ったせいで貴族たちが珍種の猫を献上してイザークの機嫌を取ろうと躍起になっている。キーリにとってそれは頭痛の種になっていた。


 皇族の血を引いているのはイザークただ一人だけ。しかし結婚もしていなければ、世継ぎの予定ももちろんない。ここで途絶えてしまえば内乱が起きるのは必至だ。


「ここで陛下が倒れたら一巻の終わり……猫アレルギーで死ぬとか後世の恥ですからね」


 猫で死ぬ馬鹿な皇帝に仕えたくないというキーリの本音が透けて見えた。

 真顔のイザークは深く頷くと――続いてへにゃりと頬を緩めた。


「分かった分かった。そんなことにならないよう、もっとユフェとの時間を作らなくてはいけないな。他の猫を愛でる隙などないところを見せつければ献上しようとする馬鹿の気も失せるだろう。今度会議にユフェそっくりのぬいぐるみを持ってアピールをしようか」

「いや全然分かってませんよね!?」


 キーリがこめかみに手を当てて突っ込みを入れるが、イザークは上機嫌で笑みを浮かべる。

 ユフェの世話をするのは実に楽しい。手料理を一生懸命食べてくれるところやわざわざ迎えに来てくれるところは堪らなく愛おしい。彼女以外の猫を飼うなんてあり得ない。


「俺は猫ならユフェ一筋だ。浮気なんてしない、絶対に」

「嗚呼、駄目だこの人病気……重度の病気。これが人間の女性なら一番良いのに――想い人に避けられている時点でもうお察しなんだから、そろそろ諦めて別の誰かを見初めて欲しい」



 キーリが壁に額をつけてぶつぶつと愚痴を漏らしたところで、イザークは話題を変えた。

 会議が終わり、一段落ついたタイミングで自分も話そうとしていたことがあったのだ。


 内ポケットにしまっていた小瓶を手に取ると机の上に置く。それはガラス製の小瓶で、キーリはぱちぱちと瞬いて首を傾げた。


「薬瓶? こんなものを持ってどうしましたか?」

 怪訝そうな顔を見てイザークは「なるほど」と呟いた。蓋を開けて小瓶の口をキーリに向ければ、漸く顔を強ばらせた。


「なっ。どうしてこんなものがあるのですか!?」

「これは薬師の薬棚で見つけた。気配は僅かだから俺も近くに行くまで気づかなかった。瓶に入れられていては上級の魔法使いでも気づかない。どうしてこれがあるのかすぐに調べて欲しい」



 こっそりくすねてきたそれはここに決してあってはならないものだ。問題はこれが何の薬に使われていたか。それによっては急を要する。

 キーリは眉宇を引き締め、片眼鏡越しにアーモンド形の目を光らせて小瓶を見つめる。

 イザークもまた机の上に置いた拳を強く握り、唇を噛み締めた。


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