第13話
部屋に帰って来るなりイザークはベルを鳴らしてロッテを呼んだ。
「お茶を淹れてくれ」
「かしこまりました」
ロッテは二つ返事で答えるとすぐに茶菓を運んできた。
テーブルに置かれたのはほんのりと香る柑橘系の爽やかな香りのハーブティー。お菓子のケーキはドライフルーツやアーモンド、くるみなどが入っていて美味しそうだ。
猫になって食べられないのが非常に悔やまれる。物欲しそうに眺めていると、シンシアの目の前に魚形のクッキーが置かれた。
「ユフェ様もどうぞ」
ロッテは相変わらずイザークの前では献身的に振る舞っていた。いない時は会話すらなく、向こうが話しかけてくることはないしこちらが話しかけても無視される。
動物の世話をしたくない彼女にとって、この仕事内容は相当苦痛なことだろう。この際、世話係を辞退するように勧めた方がいいのかもしれない。
『ロッテ、私の世話が嫌なら無理にしなくて良いよ。侍女長に申し出て担当から外してもらった方があなたの気が楽になれるわ』
「ん? ユフェはなんと言っているんだ?」
平生のイザークはシンシアが何を喋っているかロッテに尋ねてこないが今日は興味があるらしい。ハーブティーを啜りながら訊いてくる。
シンシアは冷や汗をかいた。今の申し出を伝えられるのは不味い。
ロッテの行いがバレてしまえば、愛猫重症患者のイザークは激怒するだろう。腹の虫が治まらないと言ってその場で首を刎ねるかもしれない。
内心焦っていると、ロッテはにっこりと微笑んだ。
「イザーク様の猫でとても幸せと仰っています」
無論、ロッテは愚かではないのでシンシアが心配する必要は微塵もなかったようだ。彼女は如何にユフェがイザークを慕っているのかを伝えていく。
(そんなこと言った覚えはないわ)
尻尾をぱたぱたと動かして耳を外に向けて低く伏せる。
イザークは「それで?」と催促し、紫の瞳を爛々と輝かせた。よほどその言葉が嬉しかったのかしきりにシンシアにちらちらと視線を送る。
『ねえ、ロッテ。仕事の評価が大切なのは分かるけど、イザーク様に嘘を伝えるのは止めてくれるかな?』
ロッテに詰め寄って少しだけ強めに申し出る。
眉を顰めるロッテはスカートをきつく握りしめると口を開いた。
「私のことを評価していると。イザーク様には……」
『えっ? ちょっと、口から出任せを喋らないで?』
「今、今はなんと言ったんだ? 頼むから同時通訳をしてくれ」
懇願されたロッテは当惑した様子でイザークを窺う。伝えにくそうに僅かに言い淀んだが意を決して答えた。
「……く、口から臭いがするから喋らないで――と」
「待ってくれロッテ、ユフェはそんなことを言っているのか!?」
『一言もそんなこと言ってません!!』
「一言も言うな。つまり喋るな、と」
会話が、彼女の通訳が怪しい方向へ向かってしまっている。
『私を嫌いなのは分かってる。でもお願いだから波風立てないで……』
「お願いだから風上に立たないで、と仰っています」
そこまで酷いことは言っていない。
完全に口臭が耐えられないから喋るな近づくなと言っているではないか。
これはただの悪口であり、そして不敬ものである。
シンシアは恐れ戦いた。
『……ろって……やめロッテ』
「やめろ、と仰っています」
頭痛を覚えて気が遠くなった。何故悪い方向ばかりに通訳されるのか。
シンシアが胡乱な瞳でロッテを見れば、たちまち視線を泳がせる。エプロンスカートの前で頻りに手を擦り合わせていた。
すると突然、激しい音が聞こえてきた。互いに顔を見合わせてイザークの方を見れば、テーブルに拳を打ちつけ、わなわなと身体を震わせて顔を朱に染めていた。
嗚呼、終わった。自分の人生は猫生も含めて終わってしまったと覚悟する。
ごくりと生唾を飲み込んで次の動向を注視していると、イザークが震える唇から言葉を紡いだ。
「…………俺としたことがなんという失態だ。すまないユフェ。すぐに薬師のところへ行って菜園のペパーミントを根こそぎもらってくる!!」
『えっ?』
椅子から勢いよく立ち上がると言うが早いか、イザークは部屋から出て行ってしまった。
(もう! ロッテのせいであの後大変だったんだから!!)
翌朝、シンシアは心の中で悪態を吐いていた。部屋から飛び出したイザークは数刻後に帰ってきた。
薬師からペパーミントティーを処方してもらったらしく、息はとても爽やかになっていた。おまけにお風呂も済ませるという徹底ぶり。
それでも嫌われないか不安のようで、触っても大丈夫かと自信なさげに何度も訊いてくるので宥めるのに苦労した。
とんだ
彼女はイザークが戻ってくるまでの間、ずっと落ち着かない様子で物言いたげにこちらを見つめてきた。結局最後まで口を開くことはなかったが、後ろ暗い何かがあるような気がしてならなかった。
(なんというかロッテは懺悔室にやって来る人たちと同じ雰囲気があったのよね)
人には言えない悩みや犯してしまった罪。そういったものを抱える人間は良心の呵責に耐えられず誰かに救いを求める。
ロッテはその人たち同様、表情に暗い影を落としていた。心配で尋ねたかったが、本人が話したくないという態度を貫いているのでそっとすることしかできなかった。
『考えても仕方ないわね。とにかく、使用人の出入り口を今日こそ見つけないと』
小さく息を吐くと、昨日とは反対側を探索するために部屋を出た。
寄せ木細工の廊下を進んでいると、陶器の水差しを運ぶ侍女の二人組が前方を歩いている。
二人は歩きながら声を潜めて話し込んでいた。
クスクスと笑って楽しげだ。宮殿のゴシップにでも花を咲かせているのだろう。仲の良い女の子が集まってひそひそ話をするとくればお決まりである。
遠巻きに眺めていると、二人のうちの一人が扉を開けた。廊下の突き当たりにあるそれは中庭とは反対側だ。開いた先から風が入り、外の景色が垣間見える。
間違いない。あれはずっと探し求めていた使用人出入り口に続く扉だ。
シンシアは全力で走ると扉が完全に閉まってしまう前になんとか身体を滑り込ませることに成功した。
外の通路は石畳みによって整備されていて、中庭ほどではないが垣根や樹木が植わっていて景観が整備されている。その先では商人が積み荷を運び、衛兵が誘導していた。
たちまちシンシアの胸が高鳴った。
(向こうの方で商人も行き来しているし、この先に出入り口がありそうな気がする)
希望を胸に抱いていそいそと歩き始める。
すると突然、小さな悲鳴が聞こえてきた。
声のする方へ頭を動かすと、少し離れたところで三人組の侍女が同僚であるはずの侍女を突き飛ばしていた。悲鳴は突き飛ばされた侍女からのもので、地面に尻餅をついている。
シンシアは近くの茂みに隠れると、こっそり様子を窺う。
目を凝らすと尻餅をついていたのはロッテだった。
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