第5話

 


 次に目が覚めると、開けた川のほとりに倒れていた。雨はすっかり止んでいて雲の切れ間から青空を覗かせている。



(生きて、る?)


 土砂降りだったお陰か雨水を充分に吸った地面が泥濘み、衝撃を緩和してくれたようだ。どこまで飛ばされたのか分からないが、早く救護所に戻らなくてはいけない。


(上級の魔物が救護所に出たってことはきっとネメトンの境界にいる討伐部隊は怪我をしてるはず)



 シンシアは怠さの残る身体に鞭を打ち、立ち上がろうとする。が、何故か上手く立ち上がることができない。

 違和感を覚えておもむろに視線を下へ向けると、手と足が人間のものではなかった。


「なっ、何これ?」


 獣の足に、後ろ足の間には尻尾が垂れている。

 異様な光景を目の当たりにしてシンシアは悍ましい生物に変えられるという呪いを思い出す。近くに水たまりがあることに気づいたシンシアは自分の姿を確認することにした。


(私、どんな悍ましい生物に変えられたんだろう。あの気持ちの悪い魔物の上をいく醜い生物なんてこの世に存在するの?)

 恐る恐る水面を覗き込んでみる。



 三角の耳とくりくりとしたつり目がちな瞳、すっと伸びたヒゲ。丸顔は金茶の毛に覆われてふわふわしていて、鼻はすっと通っている。

 その悍ましい姿は――。


「……って、どこからどうみても普通の猫じゃない! どこが世にも悍ましい生き物なの!」



 あの魔物はネズミみたいな姿をしていた。おそらく猫科動物が悍ましい存在なのだろう。不思議なことに自然の摂理は魔物社会にも適用されているらしい。


「もっと気持ち悪い生物に変えられたらどうしようって思ってたけど。猫……猫かあ」

 現実を受け止めるべく、もう一度水面を覗き込んだ。


 ふわふわの金茶の毛並み、ピンクの鼻に、くりくりとした若草色の瞳。手足は白くて靴下を穿いているみたいに見えてそこもまた絶妙に――可愛い!



「よく見たらそんじょそこらの猫と違って私、とっても美猫じゃない?」


 それに額には模様と交じって少し分かりにくいが呪いを受けた時にできる花びらのような痣ができている。

 神官たちが見ればすぐに呪いに掛けられた人間だと気づいて解呪してくれるだろう。


 シンシアは解呪の魔法が使えない。

 これが得意なのは神官のルーカスとヨハルの二人だ。どちらかに会うことができれば元の姿に戻ることができる。二人とも小言がオプションで付いてきそうだがこの際それは気にしない。


「問題は呪いを解いてもらうまでの間ね。猫だけど聖女の力や精霊魔法は使えるのかな? 私が担当しているところの結界が消えたら今よりもっと大変なことになるわ。確かめるためにもその辺に死にかけてる生き物は――いた」



 辺りをきょろきょろと見回していると丁度いい具合に男が頭から血を流して倒れていた。

「都合良く瀕死の人が倒れているなんて! 不謹慎だけどラッキーだわ」



 倒れている人物の上に載ると、試しに治癒を施す。

 シンシアが謳うように治癒の精霊魔法を唱えていると男の身体が徐々に淡い光に包み込まれた。頭の傷はみるみるうちに塞がり、血も浄化されて額からなくなっていく。


「良かった。聖力は健在みたい。これなら私が担当している北の結界が消える心配はなさそうね」



 アルボス帝国は大陸の西に位置し、その面積の四分の一を占めている大国だ。国内の北西部には魔物が巣くう森・ネメトンが存在し、そこには五百年前に勇者が倒した魔王が浄化石の中で眠っているとされている。

 手下の魔物たちは魔王が復活することを渇望しており、少しでも瘴気をアルボス帝国内へ蔓延させたい。

 しかし、その瘴気もアルボス教会の聖職者が練り上げた結界によって押しとどめられている。



 かなめとなるのはヨハルが錬成した強力な結界だ。だが、そのヨハルも六十を過ぎてからは力が衰えてきており、シンシアは力を補填する形で北の結界を担当していた。

 ほっと胸を撫で下ろすと、改めて倒れている男をしげしげと眺める。どこかで見たことがある顔だった。


 さらさらとした黒髪に彫りの深い整った顔立ち。その人の身なりは帝国騎士団のものとよく似ている。

(この人は誰だろう。身なりもいいし、討伐部隊の人? でも討伐部隊にここまでの美形はいなかったし……)


 シンシアとて美しいものは好きだ。これほどの美形を忘れるはずがない。

 では彼は一体誰なのだろうか。



 細い記憶の糸をたぐり寄せていると、不意にある光景が浮かんだ。

 荘厳な空間に大勢の紳士と淑女。そして、眉間に深く皺を刻み、眼光が炯々としている人物。


 全てを悟ったシンシアの心臓が早鐘を打つ。全身からは瞬く間に汗が噴き出した。



「ちょ、ちょっと待って。こっ、この人って……イザーク様じゃないの!!」


 見たことがあるなんてものではない。彼は三年前の戴冠式後の宴の席でトマトジュースを掛けてしまった相手である。


(あの時はトマトジュースの演出もあって血みどろ殺人鬼みたいで本当に卒倒しそうになった。ヨハル様がフォローしてくださったおかけでことなきを得たけど、暫くじっと殺意の籠もった瞳で睨まれていたのよね……)



 後に聞いた話だが、彼は『雷帝』という異名で貴族たちから恐れられている。

 その由来は三年前の先帝が崩御し、帝位に就くために兄弟を殺したばかりか気に入らない臣下やその家族をも処刑して財産を奪ったからだ。


 シンシアは国唯一の聖女だがその力を失えばただの小娘だ。さらに言えば代わりとなる聖女は現れるのだから処刑されてもおかしくなかった。だが、こうして頭と胴体が繋がっているのはシンシアよりも不敬を働いた貴族が会場にいたからだった。


 戴冠式でその貴族とシンシアは挨拶を交わしたが優しい人で、印象はとても良かった。

 しかし次の日にはイザークの命で一族諸共、断頭台の露と消えたと中央教会へ祈りに来ていた誰かが話していた。


 以前のことを思い出し、ぶるりと身体を震わせる。今回は絶対に粗相がないようにしなければ。



(でも、あれ? 私って今……イザーク様の上に載ってるわよね?)

 これは完全に不敬ものだ。バレたら処刑されてもおかしくない。

「ひぃっ! 一刻も早く降りなくちゃ!!」



 起こさないように慎重に足を動かす。

 前足を地面につけ、残りは後ろ足を動かすだけだ。


 だが突然、ガシリと大きな手に身体を掴まれてしまった。


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