第3話
身体の隅々まで清められた後、修道女であることを示す紺色の祭服を身に纏ったシンシアは瓶底眼鏡を掛け、ぐったりしながら中央教会の聖堂内へ足を踏み入れた。
複雑なアーチが印象的な高い白天井。その先には壁の積み石を極限まで減らしたランセット窓があり、色とりどりのガラスがはめ込まれている。太陽の光に照らされ鮮やかな色を満たした空間は、神々しい雰囲気を生み出していた。
アルボス教会は精霊女王を信仰している。
かつてこの大陸は精霊女王と精霊たちによって治められていた。だが、闇の力を持つ魔王の台頭によって戦争が勃発し、精霊のほとんどが精霊しか渡ることのできないと言われている
精霊女王は魔王を討つため四人の貴人に力を分け与えた。これにより数百年にも及んでいた戦争は終結し、魔王を倒した彼らは英雄として人々に迎えられ、その血は絶えることなく現在も受け継がれている。
大陸が泰平の世となったことを見届けた精霊女王は、精霊と同じように常若の国へと渡ってしまった。今から五百年前の話である。だが、精霊女王が平和のために広めた精霊信仰は今尚人々の間に根付いている。
シンシアは聖堂奥にある精霊女王の石像を見上げていた。右手には杖を、左手には聖書を持ち、慈愛に満ちた優しげな微笑みを浮かべている。この像を見ると全てが許されたような気分になるのはこの厳かな空間のせいだろうか。
「嗚呼、やっと来たか」
背後から声がして振り返ると、口髭と短く刈った顎髭が特徴の年老いた男性が立っている。
シンシアは一礼した。
「お待たせして申し訳ございません、ヨハル様」
ルーカス同様に黒の祭服と権威を表す組紐文様の刺繍が入った緑の肩掛けを身につけていて、手には大神官だけが持つことを許される聖杖が握られている。樫の木でできた杖の先には魔除けの丸い翡翠がはめ込まれ、金糸の飾りが垂れていた。
教会の階位は全部で四つある。大神官の
聖女であるシンシアはこの階位には当てはまらない。強いて言うなら樫賢者あるいは予言者辺りに相当する。ルーカスは神官の中の詩人だ。
大神官であるヨハル は浄化以外ならなんでもできる。さらに人よりも数倍魔力 感じやすい体質だったため、これまでに多くの優れた修道士や修道女を見出してきた。
それはシンシアも例外ではない。ゴミ溜めのような貧民街を彷徨って空腹で倒れていたところを助けられたのだ。
ヨハル曰く、見つけた時のシンシアは聖女の力を宿し始めたばかりで非常に微かな魔力だったらしい。
(今は年のせいで魔力を感じる力は人並みになってしまったけど。あの時ヨハル様に見つけてもらえなかったら、私はきっとここにはいない)
ヨハルは命の恩人であり、父親同然の存在だった。
「私にご用とは何ですか?」
すると、ヨハルは浮かない顔をして逡巡している。
「……どう話して良いのか分からないが、大変なことになってしまったんだ」
「そんな深刻な顔をして。……まさか、また足の水虫が悪化したんですか!?」
ヨハルの水虫は何故か治癒が効きにくいとても厄介な水虫だ。先日、彼が使ったスリッパをうっかり履いてしまった修道士が犠牲になったばかりである。
祈るように手を組んで修道士を哀れんでいると「そうじゃない!」とヨハルが激しく首を横に振ってきた。
「私が担当していたネメトンの西の結界に亀裂が入った。何者かに破壊され、中級以上の魔物が帝国内に侵入してしまっている。帝国からは騎士団の討伐部隊が派遣されるが、援護を要請されていてな。だがタイミング悪く、守護と治癒の魔力を持った神官クラス以上は手が空いていない。シンシアよ、今回は一人で騎士団と共に討伐に向かってくれ」
魔物に対抗する力を持つのは神官クラスだけだ。しかし、教会の修道士や修道女は数多く存在しても、詩人以上 は数十人ほどでかなり数が限られる。
神官になるには聖書や典礼の膨大な知識を記憶し、何を問われても答えられないといけないことが大前提である。さらに重要なことは精霊魔法を行使する上でティルナ語が話せるかどうかだ。
魔法には主流魔法と精霊魔法の二つが存在する。
主流魔法とは魔法使いや魔法騎士が使う魔法のことで、体内に流れる魔力を使い、火と水、風、土の四大元素を用いそれらを組み合わせた一般的な魔法を示す。
精霊魔法とは、精霊女王の加護を受けた魔法のことで、体内に流れる魔力を使い、精霊の言葉であるティルナ語を詠唱することで行使することができる。治癒や解呪、守護など魔物から身を守り、命を救うための魔法を発動させることができる。
しかし精霊魔法は主流魔法同様、魔力が一定以上備わっていないと使えないことに加えてティルナ語の発音が非常に難しい。ほとんどの者が神官になれない理由はこのためだった。
事情を察したシンシアは真面目な顔つきになった。
「聖女の仕事ではなく、神官としての仕事ですね?」
「そのとおりだ。本来ならば聖女であるシンシアを行かせはしないのだがな」
守護と治癒の魔力はシンシアにも備わっている。最近ではヨハルの魔力を凌ぐほどになっているのでシンシアがいれば騎士団だけでなく、周辺住人も魔物から守ることができ、怪我を治すことができる。
「ついでに結界の調査もしろ、ということですね?」
確認の意味も込めて尋ねると、ヨハルがああそうだと頷いた。返ってきた答えにシンシアはうーんと唸った。
「いくらヨハル様のお願いでも、今回の件はちょっと……」
「どうして!?」
当てが外れたヨハルは泡を食った。
シンシアとてやりたくなくて言っているのではない。小さく息を吐くと腰に手を当てて目を眇める。
「ヨハル様、私の欠点を忘れたなんて言わせませんよ?」
ヨハルは身じろぎして唸った。
シンシアの欠点、それは攻撃魔法が属する主流魔法がほぼ使えないことだ。困ったことにそれだけはどんなに訓練を受けてもからっきし駄目だった。
(いつもなら教会の神官クラスの護衛騎士を必ずつけてくれるのに。こんなこと初めてだわ)
『一人で』ということは今回本当に誰も手が空いていないらしい。
自分を守る術があってもそれに加えて相手を倒す力がなければその場を収めることはできない。中級以上の魔物で護衛騎士なしという状況はさすがに心もとない。
シンシアの中で危険という単語が頭を過った。
「誰も手が空いていないのだ。それに今回は選りすぐりの精鋭である討伐部隊の同伴だから攻撃は彼らに任せて、守護と治癒に専念しておれば大丈夫だ。心配ない」
「ヨハル様がお忙しいのは承知ですけど、この間もヨハル様の代行で典礼を三つ済ませましたよ。主流魔法も使えることですし 、ヨハル様の方が絶対適任だと思います」
シンシアが断りを入れると、丁度時計塔の鐘が鳴り響く。朝の鐘は聖堂内を一般開放する合図でもあるので、そのうち大勢の信者たちが礼拝しにやって来る。
「おうおう。老い先短い老いぼれの頼みを聞いてくれんというのか。『アルボス帝国に舞い降りた精霊姫』の名で有名なシンシアが身内の頼みすら叶えようとしない心の狭い人間だったとは……」
「ちょっと、今は眼鏡をかけているんですよ。礼拝に来た信者に聞かれたら折角の変装が台なし です!」
シンシアは声を潜めると辺りをきょろきょろと見回して誰もいないか確認する。
これまでの努力が水の泡になってしまうのではないかと慌てふためくシンシアに対して、ヨハルはさらに大袈裟に声を大きくする。
「そうかあ。シンシアは行ってはくれぬかあ、聖女なのに。足腰は痛いし、水虫もなかなか治らなくて辛いが、老骨に鞭打って頑張るしかないのう。最近は皇帝陛下にこき使われて疲労困憊だから、うっかりぽっくりなんかしちゃっても仕方ないさのう……ううっ」
「わ、分かりました。行きます! 行きますから!!」
なんだかんだヨハルの涙声にシンシアは弱い。それに貧民街で倒れていたところを助けてもらったことへの恩返しはしたいと思っている。
懸念事項が多く納得していないシンシアではあったが、最後は折れて討伐部隊の援護の任務を承諾した。
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