第2話
アルボス帝国の王都ハルストンにはアルボス教会の総本山である中央教会が建てられている。聖堂内にある、教会の権威を表すステンドグラスは色鮮やかで、太陽の光と共にガラスの色が白い大理石の床を照らしている。
その神々しい光を浴びながら祈りを捧げるのは、白の祭服に身を包む一人の少女だ。
白のヴェール状の頭巾から覗く髪の色は金色。うっすらと開かれている瞳は若草色をしている。白磁のように滑らかな肌はシミ一つなく容姿端麗。
この神々しい光景を目の当たりにした巡礼者は落涙し、口を揃えてこう言った。
あれがアルボス帝国に舞い降りた精霊姫』の異名を持つ、この国唯一の聖女・シンシア様だ、と――。
厳かな教会と隣接する修道院には、清く慎ましい生活を送る修道士や修道女、その上の位である神官たちが暮らしている。
静寂に包まれた穏やかな早朝、そこに場違いにもほどがあるけたたましい叫び声が響いた。
「シンシア様、シンシア様! お待ちくださいっ!!」
修道女の制止を振り切って、少女が外廊下を全力疾走する。金色の長い髪を揺らし、裸足に寝間着のワンピース姿――シンシアは後ろを振り向いた。
「待つわけないでしょ! 朝からお風呂なんてごめんだわ!!」
振り向けば凄まじい形相の修道女の手が伸びてくる。小さな悲鳴を上げたシンシアは再び前を向いてスピードを上げた。
突き当たりの角を曲がれば教会へ繋がる通路がある。そこは聖女と神官クラス以上の者でなければ通ることが許されない。このままいけばシンシアの勝ち逃げだ。
(これで今回のお風呂も回避できる――)
しかし次の瞬間、足が何かに引っかかって派手にすっ転んだ。乙女らしからぬ鶏を絞め上げたような声を上げながらも、なんとか受け身の体勢を取る。
「ぐえっ!」
身を捩って後ろを振り向けば、足が引っかかるよう絶妙な位置にロープがピンと張られていた。
「うふふふ。毎回逃げ切られては堪りませんからね。手を打たせてもらいました。歴代聖女の中でもここまで往生際の悪い子は初めてです。もう少し私に楽をさせてくださいな 」
追いついてきた修道女・リアンは歴代聖女の世話人だ。
見た目は二十代半ばにしか見えない美しい彼女は実のところ結構な歳らしい。最近はやれ腰が痛いだの、やれ肩が凝るだのと口癖のように言っているが見た目のせいで本当かどうか甚だ疑問である。
「まさか古典的な手法に引っかかるなんて……一生の不覚よ」
こんなロープ一本張った罠に掛かる馬鹿なんてなかなかお目にかかれない。
(うん、そんなめでたい馬鹿は私なんだけど)
恨めしい様子でロープを睨んでいると不意に通路の方から声がした。
「シンシアは今日もとっても元気が良いですね」
声のする方を見ると、紅茶色のマッシュボブに赤銅色の瞳の温厚そうな青年が立っていた。黒の祭服をきっちりと身に纏い、修道士であることが一目で分かる。
さらに緑の生地に白の糸で刺した組紐文様の刺繍の肩掛けをしている。これは神官クラスのみ身につけることを許されている肩掛けで守護のまじないが施されている。
「……ルーカス」
ルーカスはベドウィル伯爵家の三男坊で、シンシアがこの教会に拾われた四歳の時からの付き合いになる。出会った当時から彼のその優しげな面差しは変わらない。シンシアにとっては兄のような存在だ。
神童と呼ばれた彼はその名の通り、史上最年少で修道士から神官になった。その活躍ぶりは幼馴染み同然のシンシアにとって誇りである。
床に打ち付けた肩を摩りながら、シンシアはのそりと起き上がった。
「朝の祈りを一緒に済ませようと聖堂入り口で待っていたのに来ないから戻ってきてみれば……。またリアンを困らせているのですか?」
ルーカスは穏やかな表情のまま眉尻だけを下げる。屈み込むようにして手を差し出してくれたのでシンシアはその手を取って立ち上がった。
「困らせてなんかないわ。ヨハル様に呼ばれているから自分で支度するって言ってるのに、絡んでくるのはリアンの方よ。というか、私もルーカスも十八なのになんで私だけ世話されないといけないの? 私、この国の聖女なのに幼女扱いされてばっかり!!」
世話人の仕事は聖女の身の回りの世話であり、手取り足取りの育児ではない。にも拘らず、リアンはシンシアの服を脱がせてお風呂に入れようとするのだ。
不満を漏らせばリアンが頬に手を添えて困った顔をする。
「それはシンシア様が一人だとお風呂に入れないからです。顔だけは歴代聖女の中でも異名がつくほどお美しいのに。信者が知ったらどう思うか……」
「仕方ないでしょう。水が怖いんだから。水嵩のあるもの全般怖くて無理だわ」
シンシアは肩から下まで浸かるような、水嵩あるものが怖い 。よって湯船に浸かるという行為も恐怖の対象になる。水が怖いと感じるようになった理由をはっきりと覚えていないが、教会に来てからだったように思う。
――でも一体何が原因で水が怖くなってしまったんだろう。
記憶を辿ってもいつも大事なところで霞が掛かって思い出せない。もやもやするのを振り切るように頭を振ると、気を取り直して口を開いた。
「湯船には浸かれない代わりに濡れたタオルで身体を綺麗にしているわ。あと、瓶底眼鏡で修道女に変装しているけど誰からも臭いって苦情は言われたことないから大丈夫」
聖女は式典や典礼などの公式行事以外で人前に姿を現すことはほとんどない。ましてや人々と気さくに接する機会などないに等しい。
それはシンシアの思い描く聖女像とはかけ離れているものだった。そのため普段のシンシアは、顔の半分を隠すように大きな瓶底眼鏡をかけて一般の修道女に変装している。
もっと近い距離で人々と接し、身近な存在になりたい。誰かの役に立ちたい。そんな想いから市井で活動している。
そして、シンシアが誰からも苦情を言われたことがないのには理由があった。
「毎回言ってるけど私は聖女だから最悪お風呂に入れなくても、自動浄化作用があるから常に清らかな身体なの!!」
シンシアが胸に手を当てて強く主張すれば、ルーカスは微苦笑を浮かべ、リアンは呆れ顔になって溜め息を吐く。
「聖女しか持ち得ない浄化の力をそんなしょうもないことに使わないでください」
浄化の力とは魔物や魔物が巣くう森・ネメトンから放たれる瘴気を綺麗にする力のことだ。この力は聖女にしか使えない。
浄化の力はアルボス帝国の少女にのみ宿り、新しく聖女候補が誕生すると現在の聖女は徐々に力を失っていく。稀に十年ほど空席になることがあるにせよ、おおよそ途切れることなく受け継がれていく。
シンシアの場合は前の聖女と十年ほど期間が空いている。そのため、これまでリアンから歴代聖女の話を聞かされてもピンとこなかった。
「いつも歴代聖女と比べるけど自動浄化作用で清潔だし、別に誰にも迷惑を掛けてないから良いじゃない」
たちまちリアンが片頬を引きつらせる。
「いやいや、掛けてるでしょう。私に迷惑掛けてること忘れないでくれますか? そして大人しくお風呂に入りましょう。何故ならあの薬湯には……」
リアンは聖女の世話人でもあるが薬師でもある。うんちくを傾けることは目に見えていたのでシンシアは慌てて話を遮った。
「わ、分かった分かった。リアンが私のことを想ってくれていることには感謝するし、迷惑を掛けていることは謝る。だけどやっぱりお風呂だけは……」
シンシアが尚も抵抗しようとすると、リアンが先ほどの厳しいものとは打って変わって優しい声色で畳みかける。
「良いですかシンシア様。聖女というものは常に民衆の手本とならなくてはいけません。あなた様のように朝から廊下を全力疾走したり、身を清めるためのお風呂を拒否したりなんて前代未聞です。聖女というものは品行方正で完璧な存在なのですから」
そこまで言われると自分の行いに負い目を感じてしまう。しかし、それで簡単にほだされるようなシンシアではない。
「あら、リアンたら聖書と鉄の掟の読み過ぎで妄想と現実の区別がつかなくなったの? この国には私しか聖女はいないのに。一体、現在進行形でどこにそんな聖女が存在するの?」
頭は大丈夫? と付け加えると、とうとうリアンがこめかみにピシリと青筋を立てた。
「いたんですよ! あなたと違って歴代聖女はみーんな慎ましくて清らかだったんです!! もっと聖女らしく振る舞ってください!!」
シンシアはリアンから視線を逸らして唇を尖らせると、絶対そんなの嘘だと心の中で反論する。
(聖女らしくって言っても、歴代の聖女にだって苦手なものとか怖いものの一つや二つはあったはずよ。それこそ自室に戻れば祭服を脱ぎ捨てて下着姿でお尻を搔きながらベッドの上で横になって、ぐうたらしていたかもしれないわ)
人間誰しも完璧ではない。きっと歴代の聖女はリアンにその姿を見せていなかっただけで、陰ではきっと曝け出していたはずだ。絶対そうに違いない。
腰に手を当ててうんうん、と一人で納得していると、いつの間にか背後に回ったリアンに羽交い締めにされた。拘束を解こうと暴れたがリアンの腕力には勝てそうになかった。
「ちょっと! 私はお風呂になんて入らないんだから! ルーカス、助けて!」
助けを求められたルーカスは肩を竦めるとやがて真面目な顔つきでリアンに言った。
「シンシアは少なくとも三日はお風呂に入っていません。念入りに身体を洗って清めてくださいね」
「承知しましたルーカス様。さあシンシア様、身体を綺麗にしましょう」
シンシアの顔から、ざあっと血の気が引いていく。
――ルーカスの裏切り者!!
穏やかな早朝の修道院内に、断末魔めいた叫びが響いた。
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