第8話 変転
普段とは変わった朝を迎えたからか、この日は義母と朝の仕事をしている間もオリヴァーはずっと上の空だった。
先ほども井戸から汲んできたバケツの水を玄関で盛大にこぼしてしまったし、義母と新しく届けるための薬を調合している最中も、指示された薬草とは全く異なる植物を混ぜてしまい再び一から作り直すことになった。
「オリヴァー、大丈夫?顔色も良くないわ。今日は部屋で休んでていいわよ」
器の中に薬草を一つずつ千切っては入れていたオリヴァーの左手をメアリーが掴む。
「.......」
手を掴まれてもオリヴァーは口を開かずに、ただ器に入った深緑の薬草をじっと見つめている。しかし、その瞳の中には何も映っていなかった。
まるで感情をなくしたかのように、物思いにふけっている息子の姿にメアリーは一瞬困惑する。
(今日はなんだか様子が変ね....)
いつもは自分以上に素早く動いて真面目働く彼がこんな姿を見せたのは今日が初めてだった。人に言われる前に自分から積極的に動こうとする息子のことを、無理をしているのではないか、と心配もしていたが、あまりに突然な豹変ぶりに驚きと不安を隠せなかった。
(そういえば、朝起きた時から違和感があったような...)
――――メアリーはふと起床後の出来事を思い出した。
時刻が午前六時をまわった、普段となんら変わりのない静かな朝。
メアリーは自分の相変わらず狭い自室で目を覚ました。
敷いている布生地はけして高価な物ではなく、生前の夫と息子と共にこの家に住み始めた時から使い古している市場で安価でみつけた薄い生地のものであった。
メアリーももう四十五歳。
寝ている間も床と背中が少しばかり擦れてしまうため、だんだんと体の衰えを感じてくる齢の自分にとってこの家にあるあらゆる生活品は端からみても随分と質素である。
けれど、昔からメアリーは贅沢を好まなかった。それは今でも変わらない。
寝間着から作業着へと着替え終えると、顔を洗うために立ちあがる。
奥の洗い場へ行こうとして、歩いていた足を止める。
いつもなら台所で既に朝食を作ってくれている息子の姿が見当たらなかったからだ。
規則正しく、今まで寝坊したことなど一度もない彼にしては珍しいことだった。
(まだ寝ているのかしら)
具合でも悪いのかと思い、彼の部屋をコンコンと二回ノックする。
「オリヴァー....?」
扉の向こう側からは返事がなく、再び声をかけても一向に静かだったため一度断ってから部屋に入った。
そこで視界に入ってきた息子を見た途端、メアリーは静かに息を呑んだ。
寝床では既に起きていたオリヴァーが、放心したように両手で眼帯を握りしめたまま
木枠の外を眺めていた。
下ろしてある髪がわずかに乱れており、強く握りしめた両腕にはまだ出来たばかりだあろうひっかき傷が数か所残っている。
瞳の焦点は合ってはいないものの、木枠の外に向けられた端正な横顔はどこか遠くを見つめているようだった。
無意識でやっているのか、彼が左手の爪で右腕を引っ掻こうとしたのに気づき咄嗟に彼の元へ駆け寄ると、その左手をすんでのところで止めた。
「オリヴァー!...オリヴァー、どうしたの!」
大きな声に彼の肩がびくっと揺れる。一瞬、手を止めた自分の姿に驚いた表情を見せた後、初めて自分がしていたことに気がついたようだ。
彼の緑色の瞳が困惑で左右を行き来する。
メアリーはふぅと息を吐くと、状況が追いついていない息子の目の前にしゃがみ込んだ。
「やっと気がついたのね、何かあったの?」
心の内にある不安を押し込んで努めて落ち着いた声で聞く。
「.........僕...僕......わからない..」
消え入りそうな声で答えた彼の顔色は奥深くに沈んでいってしまいそうなほど暗かった。
「何がわからないの?」
たった一晩の間で、こんなにも脆く不安定な様子に変わってしまった息子にメアリーは心が痛くなる。
「....僕......」
続ける言葉が思いつかないのか、それを言ったきり黙って俯いてしまった。
(寝る時はいつも通りだったわよね....一体何があったのかしら...)
心配と不安で問いつめてしまいそうな自分をぐっとこらえる。
今無理に問い出したところで彼の負担になってしまうことは目に見えて分かった。
自分ができることは、落ち着きを取り戻したうえで話を聞くべきだと考え直す。
「...不安だったわね。温かい飲み物を持ってくるわ、落ち着いたと思ったら話を
聞かせてくれるかしら」
頭をぽんぽんと優しく撫でると、やがて彼がこくんと小さく頷く。
「ありがとう。準備して来るから少し横になっていなさい」
最後にそう言い残すと部屋を出た。
閉めた背後のドアに背中をゆっくりと預ける。
「..............」
しばらく何も考えずに目を閉じる。
彼の姿を見た時、不安などの親としての当たり前の感情の他に一つ頭によぎった考えがあった。
でも、これを認めてしまったら本当の意味で自分はあの子の母親ではなくなるのではないか。
交差する思いをなんとかせき止めて、メアリーは落ち着かない胸に手を当てながら台所へ向かった。
――――――――
「....オリヴァー、今日はもう手伝いはいいわ」
彼の肩に片手をのせて静かに告げると、唐突に彼がハッと我に返る。
「叔母さん....その....」
「疲れてるんでしょう?いつもが働きすぎなんだから、今日は一日ゆっくりしてて」
本人も、今日は手伝える状況ではないことを理解しているのか、しぶしぶではあったが了承してくれた。
「...迷惑かけてしまってごめんなさい」
困惑と申し訳なさがにじみ出ている表情を見せる彼に、いたたまれない気持ちになってつい自分よりはるかに背が高い彼の頭に手を伸ばして、わしゃわしゃとその柔らかい髪をかき回した。
「そんなことで謝らないの!あなたには毎日ほんとうに感謝しているわ。でも、たま
には休息も必要よね」
「...叔母さん」
「それとね、実はオリヴァーに秘密にしていたことがあるの」
ちょっと待ってて、と部屋に入っていった義母の姿をオリヴァーは何も言えぬまま見つめる。
部屋の向こうから何やらガサゴソと物音が聞こえてくる。
数分待ったあと、義母が両手に包み紙のような物をもって戻ってきた。
突然どうしたのだろう、と首を傾げていると義母が満面の笑顔で手にもっていた物を渡してきた。
「........?」
目の前で何が起きているのか分からず、ぼんやりとしながらも両手でそれを受け取る。
「ふふっ、開けていいわよ」
ぽかんとしている息子の顔が可愛く、つい笑みがこぼれる。
慎重に四角い包み紙をめくり、その中身を知ったオリヴァーは一瞬驚いた表情を見せたが次の瞬間には花が咲いたような笑顔を浮かべた。
メアリーにとって彼のその表情はこれまで見たことがなく、言葉には言い表せない程嬉しいものだった。
「これって....」
手にした実感がまだ湧かないのか、嬉しくも泣きそうな目でなんとか声を出す。
「これまであげられなくてごめんなさいね。オリヴァーの十六歳の誕生日プレゼント
よ」
そう目配せした先の彼の手元には、おそらく五百頁はあるであろう分厚い本があった。
「.....っ、叔母さん、本当にありがとうございます」
オリヴァーの目元にはかすかに涙の粒が滲んでいる。
「改めてお誕生日おめでとう。あなたが喜ぶ顔が見られてよかったわ」
メアリーは潤んだ瞳でこちらを見つめる息子を正面から強く抱きしめた。
オリヴァーが今彼自身の中で、決して彼女自身には触れることのできない何かに思い悩んでいることも知っている。
しかし、だからこそ今の彼には人ではない、心の拠り所となる場所が必要だと感じた。渡すには良い時であったと思う。
裕福ではないため、今まで特別に誕生日を祝ってあげることは叶わなかった。
けれど少しずつ働いて貯めた銀貨で、やっと今年は彼に贈り物を渡すことが出来た。
「...すごく嬉しいです。ずっと大切にします」
抱きしめていた腕を離すと、オリヴァーの幸せそうな顔がうつる。
(....本当に嬉しそうね...私の力では助けてあげられない時は...この本がきっとあなた
の救いになる)
そんな願いを込めていることは彼にはこの先ずっと言うことはないだろう。
けれど自分のひそかに願っているこの思いが現実になりますようにと、祈らずにはいられなかった。
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