9
帰り道。
いつの間にか太陽がやや傾いていた。町は淡い飴色のヴェールに覆われている。その中を緩やかな速度で歩きつつ、兄はふと今日の夕飯の話でもするような気易い調子で口を開いた。
「なあ」
「何?」
「僕を、殺してくれないか」
「は」
あんまり驚いたせいで、咄嗟に声が出なかった。言葉が喉奥に引っ掛かり、うまく舌を動かせない。ややあって僕はどうにか、
「いきなり、なに言い出すんだよ」
それだけ訊ねた。空を眺める兄の瞳は妙に穏やかで、何を考えているのか、いまいち判然としない。
「別に無理なら断ってくれて構わないよ。ただ」
「ただ?」
「このままじゃ嫌だと思った。それだけ」
どういう意味か分からず戸惑う僕の隣で、兄は笑った。はにかみ混じりの笑顔である。
「もし、もしさ。あの時お前がいなかったら、僕は生きることを放棄していたんじゃないか―――そんな気がするんだよ。死にたいってはっきり望んだわけじゃない。けど少なくとも、すぐに明日の生活を考えたりはきっとしなかった。頭の中が真っ白になったまま、野垂れ死ぬまでずぅっとぼんやりしてたと思う。お前がいたから、僕は生きようとしたんだよ、生かさなきゃ、半ば本能的に考えて、だから……………」
僕は今、生きてる。
呟いて兄は立ち止まり、首を傾げた。
「僕が死んだ後、お前、どうするつもりだ?」
「……………………………」
問い掛けというより確認するような声音だった。心の片隅に漠然と蟠っている願望を見咎められた気がして、思わず俯く。どうするかなど、その時になってみないと分からない。分からないが、時折ひどく不安になるのだ。不安になって、考える。
兄が死んだら、僕は一人ぼっちになってしまう。一人というのはつまり、人生のあらゆる喜びと人生のあらゆる悲しみが全て、ただ自分一人のものであるということだ。それは、
それはとても寂しくて、恐ろしいことなのではないか?
未知という暗闇に覆われた陥穽が、孤独という怪物が底で蠢く陥穽が、僕の足許にぽっかり口を開けている。何かの弾みでそれを強く意識すると、考えないではいられなかった。
幼い頃一度だけ、辛うじて残っていた乾電池とポータブルDVDプレイヤーを使って、兄と映画を観たことがある。子供向けのジュブナイル映画でとても面白かったのだけど、ラストに音楽と静止画と読めない文字ばかりが延々と流れる部分があって、子供であった僕にはそれが少し退屈だった。
「エンドロールっていうんだよ」
兄がそう、教えてくれた。
「これ、何のためにあるの?」
「終わりを惜しむため」
「ふぅん……?」
分かるような、分からないような。
結局、まともに観られた映画はそれ一本で、二本目は途中までしか再生出来なかった―――エンドロール―――別に観なくても構わない物語の余白。
僕等が過ごしている今はきっと、それに当たる。物語はもう終わっているのだ。なら
「…―――僕にあったものがないんだよな、お前には。だからいざって時、そうなるんだ」
内心を見透かすように僕の顔をじっと見詰めて、兄は微かに苦笑した。
「死ぬな、とは言わないよ。人にどうこう言えるほど僕だって強くないからさ。正直なところ、気持ちはすごく分かるんだ。どうしても辛いなら、いつ死んでくれてもいい。望むなら、心中だってしてやるさ。ただ……これはまぁ、僕の我が儘なんだろうけれど、独りが怖いから―――そんな理由で、お前が追い詰められみたいに死ぬのは、何となく嫌だ。なるだけ幸せに長生きして、なるだけ幸せに死んでくれ」
どこからか聞こえるツクツクボウシの鳴き声が耳鳴りのように、頭に響く。
そんなの、
「そんなの、一人じゃ無理だろ………」
呆然と呟いた僕を見て、
「やっぱり?」
兄は笑った。
「そうだよな。僕が何言ったって、不安の源泉はなくならないんだ。だからずっと迷ってた。僕はどうするべきなのか。迷って、考えて……正解なんて結局分からないままだけど、思ったんだ。生きて欲しい。せめて最後に、悪くなかったって笑えるような、そういう―――――そのために、お前が僕にくれたもの、それに釣り合う何かをお前に遺したい」
生きる
言って、兄は何かを思い出すような顔付きで瞳を細めた。
「コッコのこと、覚えてる? 昔、僕等が殺した鶏」
「覚えてるよ。忘れるわけないだろ」
「コッコを殺した時だったかな。僕が、話したことは?」
「……………………覚えてる」
かつて兄の語った言葉が、ふと鮮やかに脳裏を過った。
どうしても目を逸らせない時があるんだよ。直視してなお、殺さなきゃいけない時がある。そういう時はさ、………
ああ、と察する。あれは家畜を、動物を殺す上での心構えではなかったのだ。動物ではない。人を――――――――……
「昔のこと、近頃までうまく思い出せなかったって言ったろう。何があったか、全体の輪郭はぼんやり分かる。けど、細部は濃い霧のようなものに覆われていて、よく見えない―――そんな状態でさ。当時の感情も感覚も情景も、ほとんどが他人事みたいに遠かった。その中で、首を絞められた感触と……ソウマさんを刺した感触だけは、不思議にはっきりしていたんだよ。首に、手に、心にずっと残ってた。今でもずっと、残ってる」
兄は
恐る恐る、その手を取る。痩せて、すっかり白くなってしまったものの、長年色んな道具を器用に扱ってきた兄の手は所々の皮膚が厚く、固くなっている。この手でソウマさんを―――僕等の父を殺したのだろう。爪の隙間にこびり付いた血が、いつの間にか黒っぽく変色していた。
「忘れるよ」
静かで何となし虚ろに聞こえる兄の声が、ふ、と鼓膜を震わせた。
「忘れるんだ。忘れたくないと思って、忘れないと決めていたこと、たくさんあったはずなのに、気づいたら何もかも、あやふやにぼやけてる。ソウマさんとマヤさんのこと、ほんとはもっと覚えていたかったんだ。でも、あの人達がどんな風に笑うのか、どんな声で話し掛けてくれたのか、もう正しく思い出せない。躰に残った感触だけがくっきりと今でも色褪せなくて、だからこんなものでもさ、僕にとっては価値があるんだ。僕が死んでも確かに残るもの―――
僕を、殺してくれないか。
もう一度、兄は初めと同じ言葉を口にした。沈黙し、僕の答えを待っている。
狼狽えた。何と答えればいいのだろう。そも、僕はどうしたいのだろう。咄嗟には、分からなかった。兄を殺す自分を想像する。コッコを殺した時の記憶がイメージと重なり…………やはり兄を殺したくなどない。僕だって、兄に生きて欲しいと思っているのだ。生きて欲しい、少しでも長く生きて一緒にいて欲しい。
そう、伝えてみようか。
悩みながら、そっと兄の顔を窺った。いつも通りの落ち着いた、年長者然とした表情である。意を決して唇を開きかけ、しかしその瞳の、凪いだ面の奥底に、縋るような、祈るような、あるいは挑むような色が微かに揺れているのを見付けた瞬間、どっと心臓が跳ねた。なぜ兄が僕に対して、こうもひたむきに献身しようと努めるのか。その理由の一端を―――最も重く根本的である故に、兄自身無意識かもしれない一端を、ふと悟った気がした。
救いを、求めているのだ。
きっと今までもずっと、求めていた。
怒って、泣いて、喚いて、八つ当たりする。理不尽な扱いを受けた子供にありがちな、激情を消化する行動を、僕が知る限り兄はほとんど取っていない。それは兄の心に、漠然とした罪の意識が深く根付いているためではないか?
父母に拒絶され、父を殺した己を兄は罪深いものと感じて嫌悪している。だからこそ自己犠牲的なまでに良い子供として、良い兄として振る舞って、存在を認めて貰おうと、許されようと―――許されることで、救われようとした―――――
殺してくれ、というのはたぶん家族の情と《それ》にもう一つ、別の強迫観念が混ざり合った結果、導き出された提案だ。
ソウマさんのノートに書かれていたことを思い出す。感情を押し殺したような淡々とした記録の中で、マヤさんは苦しみながら死んでいた。幼少期、兄はその様子を身近に見ていたはずで……兄の瞳の奥底で揺らぐ、挑むような色……兄はきっと怖いのだ。怖いと同時に、憎いのだ。
マヤさんを殺した病が。
心に巣くう地獄の引き金となった病が。
その病に今、肉体を蝕まれている。それは兄にとって耐え難い恐怖であり、納得できない屈辱なのだろう。だから、探していた。病に殺される以外の結末を、命を絶つに足る大義を。
(いつから………)
いつから、殺して欲しいと思っていたのか。唐突な思い付きでないのなら、なぜ今、それを口にしようと思ったのか。考えて、ああ、と気づいた。
僕が、兄を肯定したからだ。兄の罪を寛容し、兄の存在を受け入れた。だから、
兄はやっと僕に頼れた。
生まれて初めて、等身大の兄と向き合えた気がした。案外、繊細な人なのだ。
僕の答えを、兄はじっと待っている。
落ち着いた、不安と緊張を底に隠した面持ちで。
僕はどうしたいのか―――そも、答えを出すために考えるべきことがずれていた。考えるべきは、僕は兄をどうしたいのか……つまり兄の想いと願いに応えるか否かだ。
コッコを殺した時の情景が鮮烈に頭を過り、考えて、考えて、口を開く。
西の端がほんのりと黄金色を帯び始めた青空の下、安堵したように兄は笑った。
毛皮に覆われた大型動物の首を裂くのと比べれば、無抵抗の人間の首に一筋、死に至る傷を付けるのは簡単だった。ただ、感触はひどく生々しくて、掌に忘れ難く染み付いている。
雪面に零れた血の鮮やかさ。
鼻腔を満たす鉄の匂い。
最期の
高すぎると思えた体温は、冬の凍て付いた空気の中で速やかに失われ、兄の肌がすっかり冷たくなった後も僕はしばらく呆然として動けなかった。太陽が中天を過ぎた頃ようやっと、あらかじめ掘っておいた墓穴に兄を埋めた。
図書館の中庭である。
僕等に定まった家はないけれど、ここなら頻繁に訪れる。兄も、きっと寂しくないだろう。
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