7
また自傷しないよう握って押さえた兄の手が、掌中で小刻みに震えている。どんな言葉を掛ければ良いか分からず、ただ気遣っていることを伝えたくて、僕は両手に力を込めた。熱があるのだろう。兄の肌は仄かに熱く、そのくせ顔は死人めいて蒼白い。
「それから先は、大体想像がつくだろう? 寝惚けてるお前を連れて、あの家から逃げたんだ。逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、今の今まで生きてきた」
「……逃げた………」
その一言を聞いた瞬間、兄が二人のことを『ソウマさん』『マヤさん』と今は他人行儀に呼んでいる理由が分かった気がした。辛く、後ろめたい過去の、最も深刻な部分に紐付く事柄を、意識的か無意識的か、とにかく遠ざけようとしたのだろう。
兄は細く長く息を吐き出し、実を言うとさ、と自嘲混じりに呟いた。
「もう随分前から、病の自覚症状はあったんだ。認めたくなくて、気づかないふりをしていたけれど。でも、だんだん無視することが出来なくなって―――その頃からかな。些細なきっかけで思い出す。過去が僕の背中を追い掛けてくる」
兄の視線が机上を滑り、写真立ての横に置かれた文庫本の上でひたりと止まった。瓶詰地獄。
「この本を読んだ時、たぶん僕、変だったろ。あの時も思い出してたんだ、二人のこと。思い出すのは辛いけど、今思い出してみると少しだけ、昔は分からなかったことが分かる気がする」
ふと兄が身動いだので、僕は両手の力を緩めた。文庫本を手繰り寄せ、何かを探すようにぱらぱらと兄は頁を捲る。
「………『もう大丈夫だ。こうしておけば、救いの船が来ても通り過ぎていくだろう』―――――」
「この物語のあらすじ、覚えてる?」
兄の問いに頷いて、記憶を整理しつつ僕は答えた。
「無人島に流れ着いた幼い兄妹が、成長するにつれ互いに恋愛感情を抱いてしまう……みたいな話だろ。その過程と結末が、ある島に漂着した三つの
「ああ」
肯定して兄は瞳を細め、
「なあ、この物語の兄妹は、どうして自死なんか選んだんだろうね」
そう言って軽く首を傾げた。
「どうしてって」
血の繋がった兄妹を恋愛対象として愛してしまったからではないのか。僕が思い付いた通りのことを口にすると、兄は白い顔に微笑を浮かべた。
「でもそれだけじゃ、彼等は死ななかったと思うんだ」
「……それだけ?」
「ああ。それだけ。だって仮に、仮にだよ。僕等が何かの弾みでそういう関係になったとして、お前、死のうだなんて思うかい」
言われて、想像して、眉根を寄せた。
「思わない」
いや、そもそも、……
「そうだよな。僕等はそうだ。思わない。例え躊躇いながら一線を越えたとしても、死を望むほど思い悩んだりはしないだろう」
僕の思考を引き継ぐように、淡々とした声で兄は言葉を続けた。
「いや、そもそも、どうしてそんなことで烈しく思い悩むのか、本当の意味では理解できないんだ。もちろん、近親愛が忌まれるものであることを、僕等は知識として知っている―――でも、知ってるだけだ。実感は薄い。それはなぜ?」
僕の返事を待つように兄は沈黙している。少し考え、
「罪だと、感じていないから」
僕は答えた。
「なんで罪だと感じていないんだ?」
「……なんでって、…………それは」
そこまで呟いたところで兄の言わんとしていることに、はたと気づいた。
心理的抵抗――忌避感めいたものは多少ある。
しかし僕等は『近親愛は罪である』と切実には感じていない。
それは、
それは僕等の世界に僕等以外の人間が……断罪者となり得る他者が存在しないからではないのか?
作中で、兄妹はおよそ三つのものを恐れていた。一つ目は自分達が犯そうとしている、あるいは犯してしまった近親愛という罪。二つ目はそれを罪と定めて責める、神なる存在。三つ目は
確かに兄の言う通り、兄妹が自死を決意したのは近親愛のためだけではない。
彼等と一緒に漂着した聖書を通じて、罪を定義し罰するもの――神の存在を強く意識したこと。それにより、己が罪を自覚したこと。そして外界に罪を暴露される機会が……救いの船が訪れたことで、二人は決定的に追い詰められた…………
「僕はね、正直なところ、僕とお前と――ソウマさんとマヤさん以外の全ての人間にリアリティを感じない。本を読んでみてもそれは同じで、面白いけど遠いんだよな、何もかも。
あらゆる物語が、伝記が、エッセイが、論文が、僕が生きてきたのとは違う世界の上で描かれていて、だからだろう。いつも漠然と隔絶を感じてしまう。旧時代の生活、社会、歴史、文化、道徳、信仰、人々、彼等が抱いていた感情……僕にとっては全てが微妙にファンタジーで、でもソウマさんとマヤさんにとってはそうじゃなかった。………瓶詰地獄の兄妹がどうして自死を選んだか。考えた時、ふと、思い付いたんだ。僕がいたから、二人をあんな風に―――おかしくなったのかもしれない」
半ば独り言つように兄は言い、ぎこちなく笑って俯いた。
「直視しないようにしていたけれど、頭の片隅ではずっと疑問に思ってたんだ。
二人は、どうして僕の首を絞めたのか。
二人は、どうしてああなったのか。
近親愛は罪であり、罪を犯したから二人は罪悪感に苦しめられて、おかしくなった。この理由付けも間違ってはいないんだろう。でも、少しだけ納得できない―――あの結末に至るには、何かが足りない―――そんな気がしてた。だって、
二人を責める者は誰もいなかった。
二人を罰する者は誰もいなかった。
生存可能な狭い世界に一組の男女しかいないなら、彼等で繁殖しなければ未来がないのは必然で、大げさな言い方だけど詰まるところ、一線を越える大義もあった。なのに、
……………
……………
……………
……………
……………
彼等が彼等自身の罪をどうしても看過できず、許せなかったというのなら、
神が、聖書が、救いの船が、
彼等に罪の重さを突き付ける断罪者が、この島の内側にいたはずなんだ」
なぁ。
兄の指先が机上に置かれた写真の一点を示し、やはり不自然に無感動な黒い瞳が、何かを確かめるように僕の顔をじっと見詰めた。
「そんなに似てる?」
―――――
狼狽えて、咄嗟に答えられなかった。
表情や髪型、服装などの相違によって印象こそ一見異なるものの、兄の『本当のお父さん』の目鼻立ちは兄と非常によく似ている。
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