6
しばしの沈黙を挟んで、兄はまた口を開いた。やはり何かを押さえつけたような不自然に淡々とした声で、続きを語る。
「―――だからじゃないかと思ったんだ。僕が二人の子供じゃないから……だから首を絞められるんだ、と。
ただ、二人から明確な何かを言われたことはなかったから、それについてはあくまで幼い僕の想像に過ぎない。子供が知り得る断片的な情報を繋ぎ合わせて、無理矢理、理由を把握しようとしたんだよ。そうすることで、不可解で辛い現状と心の痛みをどうにか消化しようと試みた―――――
でも何だかんだ、昔の幸せだった頃の記憶があるからさ。その『理由』を考えた僕自身、半信半疑だったんだ。そんな理由で二人が僕を殺そうとするなんて、信じられなかったし、信じたくなかった。けど、
………よく晴れた冬の日だった。
まだ暗い未明、外から妙な音が聞こえたせいで目が覚めて、二階の――僕等の部屋だったあの和室の窓辺に立って、なんだろうと庭を見下ろしたんだ。
明るかった。庭の真ん中で煌々と火が燃えていて、ソウマさんがそれに薪や枯れ葉を突っ込みながら、誰かに話し掛けるような調子で何かしらぶつぶつ独り言を言っている。どうもその物音と声で、僕は目覚めたらしかった。
訳が分からなくて、戸惑って、よく見ている内に気がついた。ソウマさんの足許に、本が数冊置かれてる。その表紙には覚えがあった。二人が本土から持ってきた、あの、アルバム―――――
ソウマさんは無造作にそれも火に
『本当のお父さん』や本土の風景に興味を惹かれて、何度も繰り返し眺めたアルバムが炎に包まれ、次第ぼろぼろに焼け焦げていくのを、僕は呆然と見守る他になかった。ソウマさんはおかしくて堪らないという風に、くつくつくつくつ声を出して笑ってる。…………
不意にソウマさんが振り返って、見開かれた瞳と目が合った。それが、どろりと濁っているくせに、異様な耀きを帯びた変な目なんだ。その目が僕をじっと見詰めて―――それで――――――
慌てて、窓から離れて布団に潜った。
何だかとても怖かったんだ。人の形をしてるのに話が通じそうにない……得体の知れない化け物に、身近な人間が変わってしまったような気がして。
暖かくて柔らかい暗闇の中で震えていたら、くぐもった音が聞こえた。
足音だ。
そう察した瞬間、ぞっとした。
ソウマさんの足音が家の中を移動して、だんだん二階に、僕等の部屋に近づいてくる。もし今、ソウマさんが部屋に入ってきたら。もし今、いつもみたいに首を絞められたら。
殺される。本気でそう考えた。
足音は部屋の出入口――引き戸の前で止まって――…………そのままずっと動かなかった。ずっとずっと動かなかった。
状況が変化しないと、そんな場合でも案外眠くなるんだね。気づいたら辺りが明るくなっていて、全部夢だったんじゃないかと期待したんだけれど、庭を見るとやっぱり黒い燃え滓が地面にこびり付いているんだよ。
…………
二人がまだあんな風じゃなかった頃。
どこかの家の子供部屋、だったと思う。勉強机の
結局、残ったのはそれ一枚きりだった。
うん。
そうだよ。
この写真。バレない内に隠したんだ。
昔はよく、図書館で昼寝してたの覚えてる? ちょっとした隠れ家みたいな、子供向けのスペース……『おはなしのへや』だっけ。あそこに毛布とかタオルケット、持ち込んでさ。お前が寝るまで、適当な絵本を読んでやった。
ここなら一人で行動する隙があったし、隠し場所がたくさんあるのも都合が良かった。
…………
…………
…………
ソウマさんはどうして写真を燃やしたのか。
子供なりに考えてみたけど、よく分からなくて―――ただ、あの日を境に首を絞められることはなくなった。
代わりに深夜、僕等の部屋の前に立つんだ。
立って、僕でもお前でもない、誰かに話し掛けている。独り言じみた小さな声で、しかも引き戸越しに話しているから、何と言っているかは判然としない。でも、繰り返し繰り返し聞いてる内に、いくつかの単語は聞き取れた。
断片を繋ぎ合わせて推察するに、ソウマさんはたぶん僕の『本当のお父さん』に話し掛けていたんじゃないかと思う。話し掛けて、そして、怒ったり、謝ったりしていた。
それに気づいたらもう、認めざるを得なくなった。僕が、僕だけが首を絞められるのは、やっぱり二人の間の子供じゃないからだって。ソウマさんもマヤさんも、僕の『本当のお父さん』に複雑な感情を抱いてる。だから、その子供の、僕のことも―――――……
疎外感と悲しさと、理不尽に対する一抹の怒りと、何より恐怖が胸をひりひりと灼いていた。
状況は一旦停滞したけど、本能的に分かってた。何も改善していない。何も解決していない。むしろ全てが悪い方向に向かってる。
僕等の部屋と廊下を隔てるあの引き戸。
あの薄膜が破れたら、世界が終わってしまうような予感がしていた。それでも逃げようと思わなかったのは、子供の性なのかもしれないな。あの頃の僕の世界は、今以上に狭くて小さくて、逃げ場なんてどこにもないと信じてた。
だから、お守りに縋ったんだ。
子供の手でも扱える、小振りなナイフ。
普段使いしていたそれを、夜、必ず布団の中に忍ばせた。
―――――
明確に攻撃の意志があったわけじゃない。何か起きたら抵抗できる。身を守れる。そう思うと少しだけ、安心して眠れたんだよ。それだけ。本当に、それだけだったんだ…………
その年の、冬と春の境目にマヤさんは息を引き取った。
亡くなった後、久しぶりにまじまじ顔を見たんだけれど、ほんの数年で随分と印象が変わってた。全体的に痩せこけて、幽鬼然とした凄みが蒼い肌に染み付いている―――記憶の中の優しくて柔らかい雰囲気のマヤさんと、目前に横たわる病み疲れた女の死体がうまく結び付かなくて、悲しめばいいのか、怖がればいいのか、分からなくなって戸惑った。
マヤさんが死んだら泣くだろうと思っていたのに泣けなくて、庭に死体を埋めた日の晩、自己嫌悪のせいで少し泣いた。泣いた理由が自己嫌悪であることが、情けなくてひどく惨めだった。
…………
…………
それから数日、ソウマさんはずっとマヤさんの墓の前に佇んでいた。食事も睡眠も碌に取らないで、ずっと――――――
ただそれだけなのに鬼気迫るような緊張が辺りに張り詰めていたのを、よく覚えてる。声を掛けるのすら恐ろしかった。獣が牙を剥く直前の、あの、ひりついた静寂…………
月の明るい夜だった。
月影を透かして障子が淡く光っているのを目の端でぼんやり眺めながら、僕は微睡んでいた気がする。ソウマさんがあんな具合だったから、その頃は夜、うまく眠れなくなっていたんだ。意識が浅く沈んでは、沈みきらずに浮上する―――それを夜の間延々と繰り返してた。時折、厭な夢を見る。自分が殺される夢……………
あの時も、たしか、そう。
引き戸が開く微かな物音で目が覚めた。
でも、中途半端に意識が夢の中に残っていたんで、自分が起きているのか眠っているのか判然としない。いつもの悪夢を見ているようにも思われた。
人の気配が僕の方に近づいてきて、それで、
手が。
手が、すごく冷たかったんだ。
それでやっと現実だと気がついた、けど、気づいた時には遅かった。上にソウマさんがのし掛かってるせいで身動きがほとんど取れない状態で、首を強く締められて――――恐怖と焦りと混乱で、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
咄嗟に布団の中を手探りしたけれど、酸欠も
そうしてる間にも意識がどんどん遠退いて、……
ソウマさんがあの、どろりと濁っているくせに、異様な耀きを帯びた変な目で僕をじっと見下ろしている。ふと、おとうさん、という一言が頭に浮かんだ。
……………
……………
……………
意識が朦朧としてたから、はっきり覚えてはいないけど、後のことを思うに、口に出してたのかもしれないね。
ソウマさん、いきなり手の力を緩めたんだ。
狼狽えたみたいに。
その隙に、息を吸えた。
必死で呼吸を整えながら、布団の中を探って、そして―――……手に硬いものが触れた、と感じた瞬間、頭の中で何かが弾けた。弾けた何かは怒りだった気もするし、悲しみだった気もするし、もっと原始的な生存本能だった気もする。とにかく弾けて……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………気づいたら足許に、血塗れの死体が転がっていた」
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