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「先に言っておくけれど、当時は僕もまだ幼かっただったから、起こったこと全てを正しく把握できているわけじゃない。残ってる記憶も断片的で、実を言うと近頃まで忘れてた――というより思い出さないようにしてたんだろうな――思い出せなかったことも多々あるくらいだから、空白を想像で埋めて話す形になると思う。
それでもいいなら、聞いてくれ。
……物心ついた時にはもう、病院と繋がってるあの家で、僕は二人と暮らしてたんだ。ただ、あの家が元から二人の家だった、というわけじゃないらしい。リビングに飾られてた家族写真に彼等の姿はなかったし、実際二人とも島の外から舟でここへ来た、みたいなことを言っていた。たまたま漂着して、行く当てもないから居着いたんだと。
…………
島の外がどうなってるのか、僕は知らない。どうして世界がこうなったかも。
あまり話したいことじゃなかったんだろう。訊ねると、ソウマさんもマヤさんも何となし暗い顔して押し黙るんだ。それでも、いつかはきっと話すって言われてたけど、結局その時が来る前に二人ともそんなことに構ってられなくなって―――――
今更愚痴っても、しようがないね。
本題に入ろう。
ほんの小さい頃はさ、結構穏やかに暮らしてたんだ。穏やかだったし、今思えばたぶん、幸せだった。ソウマさんもマヤさんも優しかったし、色々なことを教えてくれて………何の心配もなく、安心して子供でいられた。
でも、いつからかはもう覚えてないけれど、真夜中に時々首を絞められるようになったんだ。
それをするのはソウマさんの時もあったし、マヤさんの時もあった。と言っても、二人とも全然手に力が入ってなくて、僕が少しでも身動いだり目を開けたりすると、何だか悲しそうな顔付きでそっと頭を撫でてから隣の布団で眠りに就くんだよ。だからあんまり怖いとは感じなかったし、そもそもあの時分は行為の意味すら、よく分かっていなかった。
…………
…………
…………
そういうことの頻度がさ、だんだんに増えてきた頃―――だったと思う。マヤさんのお腹が大きくなり始めたのは。
うん。妊娠したんだよ。
弟ができて、嬉しかったよ。
本当に。
でも、―――――
産後の肥立ちが悪いって、ああいう状態を指すのかな。マヤさん、出産以来体調を崩してさ。たぶんそれがきっかけだったんだろう。病気になった。
身体が弱ると、心も不安定になるんだね。
初めは気丈に振る舞っていたんだけれど、病気が進行するほど、些細なことで泣いたり怒ったりするようになってしまって………しかもそれが一々身体に響くんだ。だからソウマさんは、マヤさんを刺激するものをなるべく遠ざけようとした。
その中に、僕とお前も含まれたんだ。
僕等を見るとマヤさん、なぜかひどく狼狽えて………病気が感染らないようにっていう配慮も勿論あっただろうけど、お前がある程度大きくなってからは、ソウマさんとマヤさんは一階、僕等は二階っていう風に分かれて暮らすようになった。
…………
…………
子供ながらに大人達の態度や様子が悪い方向に変化したのは感じていてさ、だから、いい子でいようとしたんだよ。一生懸命仕事を覚えて、拙いなりに手伝って―――今思うと、褒めて欲しかったのかもしれない。褒めて、それで、前みたく構って欲しかった。
でも忙しくて余裕のない大人にとって、聞き分けのいい子供は手の掛からない……手を掛けなくていい子供なんだ。気づいたら、自分の面倒もお前の面倒も、僕が一人で見るようになっていた。
仕方なかったとは思ってるんだよ。
マヤさんはさっき言った通りだったし、ソウマさんは普段の仕事に加えて、マヤさんの看病までしてたんだから。
お前も見たろ?
一階の、あの部屋。
あそこが二人の部屋だったんだ。懐中電灯とか蝋燭を点けて、ソウマさんが夜、マヤさんを気遣いながら勉強や調べ事をしてる姿もよく見かけた。………ソウマさん、ずっと何かに追われるように働き通しで、体力的にも精神的にも辛かったんだろう。次第に表情が険しくなって―――――それで、
真夜中にやっぱり、僕の首を絞めるんだ。
…………
……………
……………
マヤさんは階段を昇れなくなっていたから、たぶんソウマさんだね。ソウマさんが僕の首を絞めているのを、あの頃はほとんど毎晩、夢現に感じてた。
前は全然手に力が入ってなかったのに、日毎に指がじわじわと肌を圧すようになって、多少心身が成長したせいもあるかもしれない。
だんだん怖くなってきた。
子供心に、殺意をぼんやり意識したんだ。それを向けられる理由に心当たりがないでもなかったから、余計に怖くて不安で悲しかった」
「理由?」
大人が子供を殺そうとする。
その理由を咄嗟に想像できなくて思わず問うと、
「ああ」
兄は頷き、自分の首を触っていた右手に少し力を込めた。軽く絞めるように。爪が食い込んで蒼白い肌が仄かに赤らみ、見開かれた目がどこか遠くを見詰めている。
「違うんだ」
「え?」
「僕とお前は父親が違う。………写真、ソウマさんとマヤさん以外にもう一人写ってるだろ。その人が、僕の父親」
何かを押さえつけるような淡々とした声で語りつつ、兄は写真を指差した。マヤさんの肩に手を回している左側の男性―――言われて、まじまじ見比べてみると、表情や髪型、服装などの相違によって印象こそ一見異なるものの、目鼻立ち自体は兄と非常によく似ている。
「小さい頃はまだ気軽にマヤさんのことを『お母さん』と呼んでいたけれど、ソウマさんのことは『お父さん』と呼んでいなかった―――マヤさんの真似をして『ソウくん』とか、そんな風に呼んでいたんだ。でも絵本を読んでいたらさ、出てくるだろ。
おとうさん。
当時、僕の身近にその言葉が当て嵌まりそうな人間はソウマさん以外にいなかったから、ある時、呼んでみたんだよ。『おとうさん』って。そしたらソウマさんもマヤさんも何だか気まずげな顔してさ、その翌日だったかな。アルバムを見せられた。
その中にこの写真もあったんだ。二人は写真を指差して言った。
この人が本当のお父さんだよ。
『本当のお父さん』は本土で死んだんだと。
でも、ここに流れ着いた時、マヤさんのお腹には僕がいたらしい。医者なんかもういなかったけど、他より多少設備がマシな病院で出産して、そのままそこに住み着いた―――……最初聞いた時は半分くらいしか意味が飲み込めなかったけれど、何となく突き放された、距離を置かれたような感じがしたんだろう。漠然とショックだったのは、よく覚えてる」
「兄さん」
爪が皮膚を突き破ったのか、指先と首の間に赤いものが滲んでいる。驚いて声を掛けると、兄は「ああ」と吐息を洩らし、先程まで自分の首を絞めていた右手をじっと眺めた。爪の隙間にこびり付いた少量の血を見るともなく見詰めているその瞳は、変に無感動である。
「………大丈夫?」
辛い記憶を思い出しつつ、話しているせいだろう。明らかに様子がおかしい。これ以上は話さなくてもいいんじゃないか。暗にそう気遣ったつもりだったが、兄はゆっくり息を吐き出し、
「大丈夫」
と呟いた。
「駄目なんだ。今、話すのをやめたら、きっともう話せなくなる。最後に、ちゃんと」
兄の唇が微かに動き、半ば独り言つような小さい声が耳に届いた。
「向き合いたい」
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