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 僕がを見たことは、兄の精神を動揺させた一方で、いくらか鼓舞したのかもしれない。


 過去について話す。


 果たさねばならない仕事を見つけてから、兄の体調は随分安定した。ただ、何もかも気の持ちようのおかげ、というわけでもないだろう。

 病院から持ち出した本が役立ったのだ。

 ぼろぼろの医学書と兄曰く『ソウマさん』が書いたノートには、現状出来る効果的な治療・看護のやり方や栄養があって食べやすい食事の作り方など、僕等に必要な情報が詳しく載っていた。それを参考にして療養生活を送ったことが、功を奏したのだと思う。

 僕がそう力説すると、兄はいつも決まって複雑そうな苦笑を浮かべた。


「そうかな」

「きっとそうだよ」


 さて。

『ソウマさん』のノートに記されていたのは、あくまで『マヤさん』の病に関することだけであり、読み込んでみても兄の過去についてはやはりほとんど分からなかった。ただ兄と『マヤさん』―――二人の病状がよく似ている点から、兄の病の感染源はどうやら『マヤさん』らしい、という一事は察せられる。

 たぶん幼少期『マヤさん』から兄へ感染うつった病の種が、何かの拍子に発芽したのだ。

 兄と『マヤさん』の病状が酷似していること。それは僕にとって、救いであると同時に恐怖でもあった。症状が似ているために『マヤさん』の治療法を兄に対して応用できる。しかし症状が似ているということは、遅かれ早かれ、兄も『マヤさん』と同じ経過を辿る可能性があるということだ。



 感情を押し殺したような淡々とした記録の中で、『マヤさん』は苦しみながら死んでいた。






 夏の暑さがいくらか和らぎ、秋虫の声が響き始めたある日の午後。兄が散歩に行こうと言い出した。

 その頃には病が小康を得ており、兄は軽い散歩程度の運動ならばこなせるようになっていた。咳も随分落ち着いて、声を出すのもままならない、という状態ではなくなっている。

 だから、話をする機会をたぶん窺っていたのだろう。間合いを図るような微かに緊張した空気を数日前から感じ取っていた僕は、努めて気易く兄が散歩に行こう、などと口にしたのを聞いて「ああ」と察した。


 いよいよ過去の話をしてくれるのだ。


 以前よりいくらかほっそりとした兄の背中を追って、晴天下の明るい道をゆっくり歩く。夏服の上に羽織った紺色の薄いカーディガン。その袖から生白い手が覗いていた。

 毎年この時節にはすっかり日に焼けていた肌が妙に白いのを意識する度、季節外れの雪を見たような不穏な戸惑いを感じてしまう。何となく居た堪れず足許へ視線を落とすと、蝉の死骸が転がっていた。夏も、もう終わる。



 しばし歩いて行き着いたのは、図書館だった。



 硝子戸を押し開けて中へ入り込み、そこで待ってろ、という風に兄は奥にある閲覧席を指差した。期待と不安が入り混じり、胸がざわついている。本を読む気も起きなくて、手持ち無沙汰に座って待った。

 窓辺の席である。風を入れるため薄く開いた窓の向こう、日溜まりに沈んだ中庭をぼんやり眺める。繁茂した姫蔓蕎麦ひめつるそばの花々が地面を薄紅色に染めていた。その中心に一本だけ植えられた高木は白木蓮で、今は青い葉をいっぱいに付け、午後の明るく寂しい陽射しの底できらきらと光っている―――――


 ややあって僕の対面に座った兄は、一冊の古びた文庫本と写真立てを僕が見やすいよう向きを整えて机に置いた。

 文庫本には覚えがある。いつか読んだ『瓶詰地獄』という表題の短編集だ。写真の方はおそらく初めて見るもので、少し色褪せた印刷面に若い男性が二人、これもまた若い女性が一人、にこやかに写り込んでいた。

 満開の桜の下、女性を間に挟んで男性二人が立っているのだけれど、左側の男性は女性の肩に手を回しており、右側の男性は二人の邪魔にならないよう佇んでいるという雰囲気だ。右の男性と真ん中の女性の顔立ちがどことなく似ていることを鑑みるに、二人は肉親なのかもしれない。一組のカップルと、その兄か弟(雰囲気からして兄だろうか)を映した家族写真―――そんなイメージが頭に浮かんだ。

 思った通りのことを口にすれば、

「ああ。そう聞いてる」

 と兄も頷いた。

「これさ、あの家から昔持ち出して、ここに隠してたんだ。見つかったら、燃やされそうだったから…………こっちがソウマさんで、こっちがマヤさん」

 兄の指先が写真の中の男女を示し、僕は思わず目を瞬いた。兄が示した『ソウマさん』と『マヤさん』は恋人然として寄り添う二人ではなく、兄妹と思われる二人の方であったのだ。


 ソウマさんは僕の父親で、マヤさんは僕の母親………


「……あなたがたはわたしの定めとわたしの掟を守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である」


 聖書の一節らしき文章を諳んじて、兄は気怠げに微笑した。誰に対してかは分からない微かな嘲りが瞳の奥に滲んでいる。


「だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である――――」






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