3

 三日前、長く続いた高熱がやっと下がってからこちら、今までの疲れを癒やすように兄は昏々と深く、長く、眠っている。

 額に手を当てて体温を確認しつつ、兄さん、と呼び掛けてみた。反応はなく、起こそうか少し迷ったものの、久しぶりの休息に水を差すのも悪い気がして、兄の枕元に置かれたノートに、


『病院 行ってくる』


 とだけシャープペンシルで書き記して、家を出た。

 一人で行動する際は、事故などの有事に備えて、互いの目的地を必ず伝え合わねばならない。これも子供時代、兄に教わったことである。

 兄が身体を壊してからは起きた時確認できるよう、兄の身近にノートを置いてメモとして使っている。目が覚めたら、たぶん読んでくれるだろう。



 心持ち早足で病院を目指す。



 植物に覆われた町の至るところに、初夏の花々が咲いていた。紫陽花あじさい野薊のあざみ露草つゆくさ捩花ねじばな――――柔らかい朝陽に照らされたそれらをぼんやり目で追いながら歩く内、ふと甘い香りが鼻腔を擽り、顔を上げるといつの間にか病院のすぐ傍まで僕は来ていた。

 甘い香りには覚えがある。病院のぐるりを囲む生垣の隅、梔子くちなしが一本植わっているのだ。眩しいほど真白い花に目を細め、病院を眺める。灰色の無機質な建造物が、僕をじっと見下ろしていた。






 出入口には鍵が掛かっていない。

 硝子戸を引き開け、院内を覗く。床には埃が厚く積もっているようだった。土足でも構わないくらいだろうが、靴脱ぎ場があってスリッパが置かれている手前、靴のまま上がるのは躊躇われる。スリッパの汚れを軽く払い、突っ掛けて中に入った。

 相変わらずどことなく無機質で、場所によっては昼でも暗い―――仄かな恐怖と共に懐かしさが胸に込み上げ、僕は辺りを見回した。

 前にここへ来たのは、いつだったろう。


 随分昔………

 それも、たった一度きりの探索だった。


 おそらく兄も僕同様、いや僕以上に病院が苦手なのだと思う。小さい頃から駆け回り、ほとんど全てを把握している町の中、病院にだけ訳もなく足を踏み入れようとしなかった。

 塀が傾いている。

 蜂が巣を作っている。

 屋根が崩れかけている。

 他の『近付いてはいけない場所』には現実的な理由があるのに病院にはそれがなく、だからこそ幼い僕は民家とも公共施設とも微妙に違う不思議な外観に興味を惹かれ、病院を探索したいと気易く言い出したのだ。兄は渋ったものの、僕を止められる言い訳をうまく思い付かなかったのだろう。渋々という様子で、細やかな冒険に付き合ってくれた。


「ここ、お化けがいるんだよ」


 その時、あの一言を聞いたのだ。

 どこで聞いたのだったか。確か、診察室の更に奥―――…そう言った兄の背後、短い通路の突き当たりに木製の開き戸があった。他の扉は基本白い引き戸だったので、印象に残っている。




「………あ」




 めぼしい場所を探索し、やはり収穫がないという事実を確認して、落胆しながら院内を彷徨いていた時。その開き戸を見つけた。

 兄が「お化けがいる」と言い出したのは、確かにここだ。

 子供の頃はただ純粋に恐怖して、長じてからは単独行動を制限するため脅かされたのだと考えた。しかし、こうしてこの場所に立ち、当時の様子を振り返ってみるに、兄はこの場所から、扉から僕を遠ざけようとしたのではないか―――ふと、そんな気がした。

 記憶を探る。

 今よりも少年めいた風貌の兄は、少しだけ青褪めた、不安と怯えを押し殺したような表情で木製の開き戸の前に佇んでいる。立ち塞がるようにじっと、佇んでいる。

 なぜ?

 病院の外観を思い浮かべた。この扉の先にあるものは、…………


(家だ)


 そうだ。家。

 病院には、他よりやや瀟洒な造りの民家が併設されている。この扉は、その『家』に繋がるものだろう。

『家』

 体感としては病院の一部である。ゆえに病院を避けていた延長で、何となくそちらも避けていた。そういえば、まだ一度も足を踏み入れたことがない。

 ドアノブにそっと手を掛ける。

「お化けがいるんだよ」

 兄の言葉が一瞬頭を過り、しかし好奇心が恐怖に勝って、僕は扉を押し開けた。

 心臓が五月蠅い。

 直感に基づく予感があった。


 この先に、躊躇いながらもずっと求めていたものが――――兄の過去秘密がきっと眠っている。






 思った通り、扉は『家』の廊下に繋がっていた。

 往時は医者とその家族が暮らす居住スペースだったのだろう。室内には埃を被っているものの品の良い調度が置かれ、かつての暮らしぶりが窺える。とりあえず目に付いた部屋を軽く調べながら進む内、微かな違和感を僕は覚えた。何だろうと考えてみて、ややあって気づく。


 ここは、人の住んでいた家だ。

 それも文明が崩壊した後に。


 一度意識してしまえば、違いはもう明白だった。現在僕等が使っている家とそうでない家とでは様相が少し異なる。生活の内容が今と昔でがらりと変わったのだから、当然だ。

 昔は使えていた物が今は使えなくなり、昔は必要なかった物が今は必要になった。だから置いてある家具や日常用品など、細部を見れば分かる。

 ここにはたぶん、文明崩壊後の世界を生きた誰かが住んでいた―――――

 誰か。

 この場所が兄の過去に纏わる場所であるならば、その一人は兄なのだろう。幼少期、兄はおそらくここにいて、そして、



「あっ」



 つい上擦った声が出た。

 一階の庭に面した洋間で、思いがけない収穫を見つけたためだ。

 書斎と寝室を兼ねていたと思われる、立派な本棚とベッドが設えられた部屋の隅―――書き物机の上に興味深いタイトルの医学書がいくつも積まれている。一冊手に取り、何度も何度も繰り返し読まれた本特有の、歪みや手擦れが目立つそれを流し読んだ。

 インデックスや付箋で印が付けられたページを開くと、兄の療養の参考になりそう事柄が必ず記されている。もしやと机上にあった大学ノートを開いてみれば、ある患者の病状について細やかな記録が残っていた。



「…………マヤ」



 患者の名前を指でなぞって呟く。


『ソウマさん』と『マヤさん』――――僕のお父さんとお母さん。


 やっぱりそうだ。間違いない。兄は昔、ここで二人と暮らしていたのだ。






 意外な収穫を得られた喜びと、知らなかったことを少しだけ知った興奮で、僕はいくらか浮かれていた。だからつい、忘れていたのである。

 病院には―――『家』には、兄が恐れて隠そうしたがあることを。



 二階。

 かつては布団だったのだろう、襤褸布とすら呼べないゴミが二枚敷かれた和室。



 その異常なほど黒く汚れた床の真ん中に、大人のものと思われる人間の骨が転がっていた。 






 収穫医学書とノートを鞄に詰めて、拠点へ帰った。


 逡巡。

 ノックして扉を開ける。


 いつの間に目覚めたのか、ベッド上には半身を起こした兄の姿があった。出発前僕が行き先を記したノートを、じっと見詰めている。

 不意に顔を上げ、



「……………………見た?」



 うまく声が出ないのだろう。入り口で立ち竦む僕に小さな声でそれだけ言って、兄は笑った。今まで見たことがないような、ぎこちない―――ともすれば泣きそうな微笑である。

 狼狽えて咄嗟に言葉が出て来ず、しかし反応から全てを察したらしい。何かしら諦めた様子で兄は力なく溜息を吐き、


「もう少し、声……出るように…なったら、話すから」


 呟いて深く項垂れた。






***


 ああ。お父様。お母様。すみません、すみません、すみません。私たちは初めから、あなた方の愛子いとしごでなかったと思って諦めて下さいませ。


―――――夢野久作『瓶詰地獄』


***

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