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 それから間もなく秋が来て、兄は体調を崩した。

 初めはただの風邪だと思っていたのだけれど、いつまで経っても熱が下がらず、全快しない。冬には臥せりがちになってしまった。

 咳と熱、痰に絡む血。

 症状からいくつかの病名が頭を過ったものの、いずれにしても薬がないのがもどかしい。せめて栄養のあるものを食べさせようと、学校の飼育小屋で飼っている鶏を一羽絞めることにした。


 丸々太った白い雄鶏の足にロープを巻き付け、手頃な高さの木の枝に吊す。逆さまに吊られた雄鶏の頭に血が上り、大人しくなるまでぼんやりと僕は待った。



 空が碧い。

 辺り一面、雪景色である。



「雪の上で絞めると、片付けが楽だよ」



 幼い頃、兄がそう教えてくれたことを、ふと思い出した。確か七つか八つの冬―――今日と同じような雪の日―――初めて自分の手で鶏を絞めた時に聞いたのだ。

 懐いてくれたのが嬉しくて、コッコと名前を付けて無邪気に可愛がっていた鶏だった。

 近々絞めると兄の口から聞いた時、呆然としたのをよく覚えている。呆然とした後すぐ、泣いたり怒ったりした。駄々をこねれば、兄が折れてくれるのではないかと期待したのである。

 けれど、


「懐いてるからコッコだけ殺さないのか? 他の家畜は何度も殺して食ってきたのに。そんなの、彼等に対する不実じゃないか」


 そう言われて言葉に詰まった。

 不実という一語が明確な意味は分からないなりに、何か非常に重たいものとして心にのしかかった気がしたのだ。兄は何か思案する風に目を細め、――たぶん考え事をする時の癖なのだろう――自分の首を軽く絞めるように右手で押さえた。



「………殺すってのは、案外、神聖な行為だよ」


 静かな声で言う。


「普段、虫とか魚とか獣とか生き物を殺す時、僕等はその生き物の苦しみ、悲しみ、恐怖―――想像し、共感し得るあらゆる種類の痛みから、無意識に目を逸らしてる。そうしなければ、彼等の苦痛が我が事みたく身に迫って、とても殺せないから。

 でもたまにね、どうしても目を逸らせない時があるんだよ。直視してなお、殺さなきゃいけない時がある。そういう時はさ、殺した相手の命の温度と輝きが、手に伝わる感触を通して、自分の血肉に、骨に、染み込むんだ。融けて、魂の一部になる。………―――そろそろ、やり方を教えようと思ってたんだ。やりなよ。お前が受け取るべきものだろう?」


 数日後。

 僕は兄に手順を教えられつつ、コッコを木の枝に吊した。逆さまになったコッコはしばらく助けを求める様子で懸命に鳴いていたものの、次第大人しくなり―――――ぐっ、と僕はきつくナイフを握った。

 緊張で震える僕の手を取って導きながら、頭の押さえ方、頸動脈の位置などを兄が訥々と語る。


「……………いいか?」


 やがて掛けられた短い問いに、僕は少し間を開けて頷いた。コッコの首へ宛がった包丁に力を込める。ともすればぶれそうになる手を、兄の手が包み込んで支えてくれた。

「―――――!」

 なるほど、確かに、兄が言ったことは本当だった。その時の感触はいつまでもいつまでも忘れられない。



 コッコの身体の温かさ、柔らかさ、息遣い、脈動、肉を断つ感覚と、兄の手の頼もしさ。


「ああ」


 嘆息する。

 裂いた首から血が滴って、雪の地面が真っ赤に染まった。



 ふと、気がついた。


 記憶の中の情景と現在の情景が重なり合っている。違うのは、僕があの頃より大きくなったこと、兄がここにいないこと。

 昔と比べれば僕も随分手慣れた。一人でもちゃんと仕事をこなせる。そのことを誇らしく思う一方で、堪らないほど寂しくもあった。僕はもう、子供じゃないのだ。この先万が一、兄が死んでしまっても、きっと一人で生きてゆける―――――――


(けど………)



 本当に?



 視線を落とすと足許に、滲んだ血の赤色が迫っていた。一人ぼっちの世界を想像しようとして、けれども出来ずに愕然とする。兄がいない世界を僕は知らない。叶うなら、知りたくもない。

 未知という暗闇に覆われた陥穽が、孤独という怪物が底で蠢く陥穽が、僕の足許に忍び寄ろうとしている。

 不安を払うようにして頭を振って見上げた空は、清々しく碧かった。世界は今日も穏やかで、僕には死の影すら差さない。


 その幸福と幸運が、何だかひどく心許ないことに思われた。






***


 大きな船から真白い煙が出て、今助けに行くぞ……というように、高い高い笛の音が聞こえて来ました。その音が、この小さな島の中の、禽鳥とり昆虫むしを一時に飛び立たせて、遠い海中わだなかに消えていきました。

 けれども、それは、私たち二人にとって、最後の審判の日のらっぱよりも怖ろしいひびきで御座いました。私たちの前で天と地が裂けて、神様のお眼の光りと、地獄の火焔ほのお一時いっときひらめき出たように思われました。


―――――夢野久作『瓶詰地獄』


***






 兄の体調は安定せず、落ち着いてはまた臥せり、を不規則に繰り返している。


 春。


 気温が急に温んだせいだろう。

 ある日兄は高熱を出し、そのまま寝込んだ。中々熱が下がらず、兄の疲労が次第深まっていくのを厭でも感じる。たまに症状が軽い時、兄は気怠げな目をベッド上から窓へ向け、自分の首を軽く絞めるように右手で押さえた―――たぶん、何か考え事をしているのだろう。

 その様子を見るにつけ、漠然とした不安が胸に湧く。言葉にされずとも分かる。兄は自分の未来について、死後について、考えているのだ。


(何とか……何か、しないと)


 気ばかり焦るが、生活のため必要な日々の仕事はおざなりに出来ない。兄の看病をしつつ、暇を見つけては役立ちそうな本を読む。

 拠点としている家の一つ―――現在、兄と暮らしている家には、有事に備えて医学書がいくつも置かれていた。記載されている薬のほとんどが今は使えないものだけど、身体の仕組みや病気について詳しく知れば、出来る治療の幅は多少広がる。対症療法でも、何もしないよりはきっとマシだ。

 時々浜から海を眺めて、島の外へ行こうか悩む。水平線のずっと向こうには、『本土』という広い陸地があるらしい。そこなら島より、たくさんの物資が、薬が残っているのではないか。


 迷って、しかし結局やめようと思う。


 ガソリンで動く乗り物は、燃料や細部が劣化しているために、もう使えない。手こぎの舟でよく知りもしない外海へ乗り出して、もし帰って来れなかったら………独りになった兄があまりに悲惨だ。

 そも、兄の年齢と話から推察するに、人類が文明を手放して最低でも四半世紀前後。まともに使える旧時代の薬など残っているのか。どうせ駄目元で探すなら、島内を探すべきだろう。




 島には一つ、病院があった。




 個人経営だったらしい小さな病院で、他よりやや瀟洒しょうしゃな造りの民家が併設されている。何かしらめぼしい医薬品が残っているならそこだ、と一応見当はついていた。拠点に置かれている医学書も、兄が病院から持ち出したものだという。薬がなくとも、役立つ本くらいは見つけられるかもしれない。

 分かっていながら探索を後回しにしていたのは、大した収穫は得られないだろうという諦観と感情的な問題が絡み合い、二の足を踏んでいたためだ。


 僕は、正直病院が苦手だった。


「ここ、お化けがいるんだよ」


 幼い時分病院を訪れた際、兄にそんなことを言われたせいである。

 僕が勝手に薬や医療器具に触らないよう、脅かすことで単独行動を制限しようとしたのかもしれない。長じるにつれ、たぶん作り話だと考えるようになったのだけど、苦手意識はなくならなかった。

 どことなく無機質で、場所によっては昼でも暗い。そんな室内の不気味さと、何より僕に「お化けがいる」と語った兄自身が、病院の敷地に入ると少しだけ青褪めた―――不安と怯えを押し殺したような表情をしたことが子供心に怖かったのだ。それが、今でも尾を引いている。



 好んで近寄ろうとは思えない場所。

 だが今は、立ち止まっている方が恐ろしい。



 春先にやるべき仕事が一段落付いた頃。兄の体調が安定している日を見計らい、僕は病院を探索してみることにした。






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