いつか楽園へと至る今日

白河夜船

1

***


(前略)私はよくアヤ子を生徒にして、聖書の言葉や、字の書き方を教えてやりました。そうして二人とも、聖書を、神様とも、お父様とも、お母様とも、先生とも思って、ムシメガネや、ビール瓶よりもズット大切にして、岩の穴の一番高い棚の上に上げておきました。私たちは、ホントに幸福しあわせで、平安やすらかでした。この島は天国のようでした。


―――――夢野久作『瓶詰地獄』


***






 僕が産まれる前に、人類は概ね滅亡したらしい。小さな島の、かつては中心部だったのだろう石造りの町は荒廃して静まり返り、物心ついた頃から僕の世界に存在する人間は、ただ兄一人きりだった。


 兄は僕の兄弟であり、親であり、友達であり、仲間であり、生きる術を教えてくれた先生でもある。


 道具の使い方や作り方、文字の読み方、話し方、食べられる植物の見分け方、獣や魚を獲る方法―――兄はあらゆることを僕に教えてくれたのだけど、人類がどうして滅亡したかについてはほとんど語ってくれなかった。兄もまた僕と同じく人類滅亡後に産まれた子供であるらしく、詳しい事情は知らないのだという。

 いつだったか尋ねてみた時、


「ソウマさんとマヤさんなら、何か知ってただろうけど」


 呟いて、兄は瞳を細めた。


「あの二人、昔のことあまり話したがらなかったから…………結局、ちゃんと話聞く前に死んじゃった。まぁ、今となっては聞いたって仕様がないし、どうでもいいことではあるけれど」

「ソウマさん? マヤさん?」

「―――ん。ああ、覚えてないか。前はさ、僕等の他にも二人、いたんだよ。ソウマさんとマヤさん。ソウマさんはお前の父親で、マヤさんはお前の母親。ほら、この前読んだ本に出てきたろ。おとうさん、おかあさん。あれだよ、あれ」

「その人たち、どうして死んだの?」

「病気」

 短く答えて、兄は口を噤んだ。その唇が詰まらなそうに引き結ばれているのに気がついて、子供心にぼんやりと、

(聞いたら、いけない話なんだな)

 察して、以来僕は『ソウマさん』と『マヤさん』に関する話題をなるべく避けるようになった。本の中によく出てくる、お父さん、お母さんというものに興味を惹かれなかったわけではないけれど、好奇心のために兄が厭う話を敢えてしようとは思えなかったのだ。



 僕の世界に実在する他者は生まれてこの方兄だけで、僕の庇護者も理解者も兄を置いて他にいない。



 想像しても曖昧なイメージしか湧いてこない両親よりも、僕にとっては兄の方が余程大事な―――尊重すべき唯一無二の人間だった。






 雑草と樹木に覆われ、町は一見荒れ果ててしまっているものの、建物や物資はどういう経緯でそうなったのか、不思議と綺麗な状態で残っている。僕等は適当な建物でその時々寝起きしながら畑を作り、家畜を育て、役立ちそうな前時代の遺物を探し、冬支度を整えながら日々を暮らした。

 島の気候は穏やかで、危険な野生動物などほとんどいない。飲用水を汲める場所もいくつかあって、たった二人の人間が死ぬまでを朴訥とやり過ごすには、充分すぎるほどの環境だ。

 陽の高い内に、目下やるべき仕事が終わってしまうと、兄は決まって幼い僕を図書館へ連れて行った。


 学校という施設内の図書館ないし図書室と、町立図書館。


 主にそこで、兄は僕に本を読み聞かせ、やがて僕が一人で文字を読めるようになってからも、その習慣は形を変えて継続された。


 二人きりでずっと一緒に暮らしているせいだろう。いつしか兄と僕は、ただ目を合わせるか二言三言話をすれば大体の意思疎通が済むようになり、会話をする機会が段々に減ってしまった。すると、話すための声の出し方というものが次第分からなくなり―――――

 詰まるところ発声練習のため、僕等は本の朗読を始めたのだ。週に三、四度、兄か僕の片方が短編小説を選んで読み上げる。もう片方が黙ってそれを聞く。読み終わったら銘々に、好きな本や必要な本を探しに行く。気が向けば、二人で埃を払ったり、床を掃いたり、図書館の掃除をすることもあった。



 ある日の出来事。



「……拝呈、時下益々御清栄、奉慶賀候けいがたてまつりそうろう陳者のぶればかねてより御通達の、潮流研究用とおぼしき、赤封蝋ふうろう附きの麦酒ビール瓶、取得次第届告とどけつげ仕る様、島民一般に申渡置候処もうしわたしおきそうろう、此程、本島南岸に、別小包の如き、樹脂封蝋附きの麦酒ビール瓶が三個漂着致し居るを発見、届出申候とどけいでもうしそうろう。…………」



 いつものように僕は適当な本を手に取って、短い物語を読み上げた。無人島に漂着した兄妹の話だ――陰気な結末である――――読み終えて、ふと目を上げてみると、兄の顔がひどく青褪めていたので、ぎょっとした。

 僕が「どうしたの」と問い掛ける前に、兄は窓辺のソファーから立ち上がり、林立する書架の間に消えてしまった。

 戸惑いながらぼんやりと、手中の文庫本を見詰める。紙が飴色に変色した古い短編集で、表題作は先ほど読んだ兄妹の話だった。



『瓶詰地獄』



 やがてふらりと戻ってきた兄は平素と全く変わらぬ様子で、僕は返って「どうしたの?」とか「大丈夫?」とかいう一言を口にすることを躊躇った。詮索や心配を、暗に拒絶されているような気がしたからだ。

「兄さん」

「なに」

 問おうとしてまた、口籠もる。


 兄は僕のことをよく知っている。だが僕は兄のことを、本当にはよく知らないのではないか。


 ふとした瞬間に感じる一抹の不安と寂しさは、兄と僕との間に横たわる小さな、しかし深い断絶に由来している。その断絶はたぶん、僕が産まれる以前、あるいは物心つく以前の兄の過去に纏わるもので、兄はおそらく僕にそれを知られたくないと思っている――――――

 言いたいことを僕はぐっと飲み込み、心の中で呟いた。



 兄さん。

 兄さんはあの物語の兄妹に、一体誰を重ねたんだ?






***


 かような離れ島の中の、たった二人切りの幸福しあわせの中に、恐ろしい悪魔が忍び込んでこようと、どうして思われましょう。

 けれども、それは、ホントウに忍び込んで来たに違いないのでした。


―――――夢野久作『瓶詰地獄』


***

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