第9話
殿下にエダポイトの実の粉末を納品した翌日。
まだ夜も明けないうちから、控えめに部屋の戸を叩く音で目が覚める。
昨日の今日で殿下が何か送ってきた?
まさかと思いつつ、殿下の性格なら十分にあり得るなと戸を開けると、そこには一人の老人が立っていて、私の顔を見るなり丁寧に頭を下げてくる。
「早い時間から申し訳ございません。少し、よろしいでしょうか」
「申し訳ないと言うなら遠慮してくださればいいと思うのですが……仕方ありません。どうぞ」
声を潜めての短いやり取りの後部屋に招き入れると、老人が首を傾げた。
「えらく甘い匂いですね。さては、恋人でもできましたかな?」
「そんな雑談をする間柄ではないでしょう? 用があるなら早く仰ってください。まあ、貴方の持ってくる用事など、殿下絡みしかないのでしょうが」
この老人はエルムンド。
王城に勤める人物で幼い頃の殿下の教育係、俗に言う爺やを任されていた男だ。
闇に溶けるような暗い色のローブを脱ぎながら、肩をすくめる老人。
「久しぶりにお会いするというのに冷たい方だ。その御気性、陛下にそっくりでいらっしゃる」
「二度と言わないでください」
私が静かにそれだけ伝えると、老人は目を細めて口を開こうとしたが、結局何も言わずに頭を下げる。
「失礼。貴方を怒らせるために来たわけではないので、ご希望どおり用件を済ませましょう。お察しのとおりキナリス殿下についてでございます」
「無闇に近づくなという話なら、それは殿下に釘を刺してください」
先回りをしてそう告げると、エルムンドが表情を変えずに頷いた。
「そちらについては、今日にでも陛下自ら釘を刺していただくことになっております。外が明るくなるのを見計らい、遣いの者を殿下の下へ走らせますので、ご心配なく」
監視の目があることは理解しているが、最近私と殿下が複数回接触したことを城側がしっかり把握しているらしい。
「私の監視などというつまらない仕事をさぼることなくこなしている監視役の方に、賞与を与えてはいかがですか?」
私の放った皮肉に、エルムンドは腹を立てた様子もなく、それどころか薄ら笑ってみせながら言う。
「ふむ。陛下に進言しておきましょう」
相変わらずどこまで本気なのかわからない。
初めて顔を合わせた時からそうだが、全く心の内が読めないのがこの男の怖さだ。
殿下の傅役を務めるくらいだから優秀なのは理解できるが、よくもまあこの表情の動きに乏しい男を息子に付けたものだと感心したのを覚えている。
「だとすると、わざわざ貴方が私を訪ねてくる理由がわからない。私から積極的に殿下に接触していないことはご存知でしょう?」
「ええ、もちろん。あくまでも教師と生徒として接してくださっていること。感謝しております」
全く感謝の伝わらない温度の低い声色だが、それはそれとして。
「殿下に陛下から釘を刺していただくなら、万事解決だと思うのですが」
私が首を傾げると、エルムンドがゆっくりと首を横に振る。
「そもそも、殿下と貴方が接触することの是非を話すために来たなどとは一言も申し上げておりません」
……確かに、そうか。
いや、そうかもしれないが、だとすれば益々わからない。
「では、それ以外で私に殿下についての話とは?」
「ドラン子爵家の件に絡むお話でございます」
まるで今日の天気の話でもするような、なんの感情も乗せられていない声でそう告げる老人だったが、聞かされる方はたまったものじゃない。
城が出て来る事態ならば、殿下はもちろん一教師でしかない私の出る幕はないということだ。
「殿下に伺ったこと、生涯口外しないことを約束いたします。ドラン子爵家について私は何も知らない。それでよろしいのですね?」
老人は、私の言葉を聞いて僅かに目を細める。
そして、まるで呆れたと言わんばかりの深い深いため息をついたあと、机に文を置きながら言う。
「気を遣って様々先回りしてくださることは貴方の美点なのでしょうが、人の話を最後まで聞くようにした方がよろしい」
学生時代苦手だった教師に窘められたような感覚を思い出し、思わず顔を顰めてしまう。
そんな私を無表情で見つめた後、老人はローブを小脇に抱えて立ち上がった。
「詳細は文に記してありますのでよく読んでおいてください。返事は後日伺いに参りますので。では、失礼」
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