第6話 寝ている時にも呼吸をしましょう。コツは意識的に呼吸をすることです。

 ラブントゥール・ルール6      


寝ている時にも呼吸をしましょう。コツは意識的に呼吸をすることです。


             ◯


 夢を見た。

 それは教室で、誰かが教壇の上に立っていて、つらつらと何かを話している。

 その説明は比類なく正確で明確なものだと僕は理解しているが、しかし、話は何も頭に入ってこない。自分の机に開かれているノートに目を落とすと、僕も何かを書いてはいるが、何を書いているのかわからない。読めもしない。そして、再び教師を見るが、僕はその人物が教師だとも思わず、それが授業とも思っていないことに気づく。何か全てに意味を欠いていた。そこで、目が覚めた。

 その日は、とんでもない頭痛で目が覚める。

 これが二日酔いというやつか。僕は、人生で昨日までお酒を飲んだことがなかった。すぐには昨日のことも思い出せない。嫌なことがあったことだけはうっすらと感情として残っている。

 少しずつ、昨日のことを思い出していく。そういえば、あの後も、ワインなどを勧められるがままに飲み、僕は倒れるギリギリで、乙女屋にベッドに放り投げられたのだった。自分の酒癖が悪くなかったことに気づけたことだけが救いだ。そして、昨日の、を思い出した。

 思い出したところで、今日から自分がすることについて、また頭が痛くなった。これがサラリーマンが酒を飲む理由なのだろう。

 順調に人生が狂いだしているのは言うまでもない。少なくとも、僕の人生はわずか一週間で大きく舵を切られている。誰だ、舵を切ったのは。

「先輩、私、刑事をやめようと思います」

 そんな一言から、その日の朝は始まった。

「刑事をやめて、宇宙飛行士になろうと思います」

「……宇宙飛行士?」

 僕は煤ヶ谷後輩に訊く。僕は二日酔い真っ盛りで、オレンジジュースを飲みながらそれを聞いた。

「はい」

「良い夢ね」

 乙女屋はそう言ったが、僕はその言葉で彼女が混乱していることを察知し、とりあえず彼女を座らせた。洋子さんの店で朝の事だった。

「どうしたの? 急に」

「いえ、どうもしていません。ただ、昨日言われたことを踏まえて、私は責任を果たせそうもないと思いました。本当にダメな刑事です。愚かな刑事です」

「そうね、愚か者メガと名前を変えるといいわ」

「はい、そうします」

「いや、ダメだよ」

「司、また仕事が増えたわね。無職なのに忙しいわね。無職が仕事を辞める辛さを説く、をやっているがいいわ」

 僕は乙女屋を少し離れた席に移動させ、二人で話すことにした。

「このままでは、先輩が死んでしまいます。私のせいで。ひっく」

 煤ヶ谷後輩はめそめそと、自分の不甲斐なさを恥じるように両手で拳を握りながら泣く。彼女の責任感の強さと、そして蓄積した疲労か、僕は彼女の中に仕事に思いつめて、命を立つ人間を見る。彼女は過労死とかするタイプの人間だ。

「そんなに背負い込まないほうがいいよ。煤ヶ谷後輩はよくやっているよ。それにさ、乙女屋の言うように、僕らが最終的に犯人を見つけて解決すれば、何も問題はないんだから」

 と自分でも胃が痛むような言葉を言う。僕は自分の中に中間管理職の人間を見る。

 ひとまず、彼女を励ましながらご飯を食べさせる。美味しいものを食べさせれば多少は回復するところを見ると、女子高生らしい若さがある。

「とりあえず、わかっていることから、整理していこう」

 僕は煤ヶ谷後輩に言う。

「わかっていること?」

「うん、僕らは犯人を見つけるってことでさ、さっき考えてたんだけど」

「妙案があるんですか」

 彼女は淀んでいた目を少し輝かせて言う。

「いや、僕も何もわかっていないんだけどさ」

 と僕は彼女を早速、期待を持たせ過ぎないよう言った。

「でも、振り返ってみても、やっぱり、僕がここに来てから、僕はずっと乙女屋と一緒にいたんだ。僕と乙女屋が一緒にいなかったのは、僕が学校へ行った時、それから煤ヶ谷後輩から初めて外に誘われて聞き込みをしてた時だけ。そして。洋子さんー」

 と僕はキッチンにいる洋子さんを呼ぶ。

「はーい、なにー?」

 彼女はキッチンから顔だけを出して返事をする。

「洋子さんは、僕が乙女屋と離れている間、乙女屋が誰かと会っているのを見たり聞いたりしましたか?」

「ううん、乙女屋は誰とも会ってないよー、一人になりたくないからって、ずっとここにいるしー」

「ほら、やっぱり何もやってない、乙女屋は僕がいない間もずっと何もやっていないんだ。そして、洋子さんは犯人を知らない。昨日、そう言ってましたよね?」

「うん、私は知らないよー」

「ということで」

 僕は洋子さんに礼を言って、煤ヶ谷に向き直す。

「乙女屋は、本当に僕ら以外とは話していないし、本当に、何もやっていないんだ、あの女は!」

「そうですね、乙女屋先輩は常に何もしていないですね」

 彼女も真剣に頷く。

「そこで、二人の言葉を信じるのであれば、僕がここに来てからの五日間、僕と乙女屋は会っている人も知っていることも一緒ということなんだ」

「ええ、そういうことになりますね」

 煤ヶ谷後輩はこれにも頷く。

「つまり、僕と乙女屋はほとんど一緒にいて、同じことを経験して、同じことを聞いている。つまり、知っている情報については、完全に共有していると言っていいと思うんだ。それなのに、僕は全く見当もつかない今回の事件の犯人を、乙女屋は既に知っている、ということ」

「……どういうことですか?」

「つまり、乙女屋が知っていることは、僕も知っているはずだということ」

「ということは、先輩も、すでに犯人を知っている?」

 僕も頷く。

「そうだと思う。小窓さんも言うように『こんな自明なことであれば』っていうのは、視点を変えれば、こんな事件はとるに足らないほど簡単に解けるっていうことで、僕たちは単に何かを見落としているだけで、これは難解な事件でもなんでも無いってことなんだと思う」

「……それは、私も同意します。しかし、思い返してみても、お恥ずかしい話なのですが、まったく手掛かりも見当がつかないのです」

「まあ、それは、僕もなんだけど」

 ということだ。

 乙女屋は知っていて、僕は気づいてすらいない。同じ話を聞いているはずなのに、犯人のことなんて、僕は思い当たる容疑者すらいない。いや、危ないのはいっぱいいたけど、今回の犯人と特定できるようなことは何もなかったと思う。これは、単に、僕たちが情報を見逃している、聞き逃しているだけかもしれない。でも、もしかしたら、そんなことではなくて、もっと、考え方というか、根本的な認識の違いだと思うんだ」

「認識の違い、ですか?」

「うん、ここへ来てから、何度も言われてるんだ。貴方は、偏見という名の常識で凝り固まっているのね、って。何か今まで当たり前だと思っていたことが実は当たり前じゃなくて、みたいなさ。本当に抽象的で申し訳ないけど、そんな感じ」

「常識に凝り固まっている——それは、私もそうかもしれないですね」

「うん、煤ヶ谷後輩もまだここへ来てから日が浅いし、外の常識が抜けきっていないということなのかもしれない。だから、乙女屋たちには気付けても、僕らに気付けていないことがあるとか」

「ローン!」

 と大きな声が僕らの後ろから聞こえる。

 僕らの後ろの席では大いに盛り上がっているテーブルがあった。洋子さんと小窓さんと乙女屋、仲良し三人組がドンジャラをやっていた。さっき四人目に誘われた僕と煤ヶ谷後輩は一瞬その光景を見つめ、そして視線をお互いに戻す。

「……二年生の皆さんを見ていると、常識とかでは語れないのはなんとなくわかりますが……ですが偏見、具体的に言うと?」

「……」

 そして、振り出しに戻る。

 それがわかれば、苦労はないのだ。

 視点を変える。認識を変える。

 言うのは簡単だが、まるでサングラスを掛けながら星を探せと言われているような、そんな無茶にも思える問いになっている。言われても、サングラスの外し方がわからないのだ。

「そして、実際、思い返してみると、僕が会った人全員怪しいというか、僕も二回銃を向けられてるし、もう現実に殺し合いをしてきてる人たちだから、沢山の殺人犯の中から、今回の殺人を犯した人間を探す、という無茶なミッションでもあるんだけどさ」

 それでも、と僕は言う。

「今日は、僕に付き合ってもらってもいい?」

 僕の言葉に、煤ヶ谷後輩は首をかしげる。

「付き合う、というと?」

「つまり、もう僕が犯人を知っているという前提で、乙女屋と会ってから、この五日間やってきたことを、そのまま、もう一度やってみようと思うんだ」

「もう一度、先輩がやってきたこと、先輩の足跡を辿るということですか?」

「うん、五日間何をしてきたかを追体験してみる。五日間を振り返れば、改めて思い出すことも気づくこともあるかもしれないし。僕が気づかなくても、煤ヶ谷後輩なら気づくかもしれないし」

「なるほど。ここへ来てから何をやったかを——復習するってことですよね」

 ここへ来てから学校など行っていないし、何一つ勉強などしていないはずだったのに、復習とは言い得て妙だった。

「じゃあ、乙女屋行ってくるから」

「あら、行ってらっしゃい。早く帰ってくるのよ?」

「うん」

「大丈夫よ、司ならきっと簡単に解ける事件よ」

 ドンジャラに夢中で、手をひらひらと振る乙女屋。自分も殺されるらしいのに、まるで人事だった。しかし、これは僕への信頼と取ることにしよう。


             ○


 そして文字通り、僕は振り出しに戻る。

 入学したての、何も知らなかった五日前の僕に。

 とりあえず、僕と煤ヶ谷は学校へ向かうことにした。

 僕がまだ何も知らず、当たり前のように、吸い込まれるように、あの校舎に向かっていったあの日を思い出しながら。

例の殺人事件があったということを聞いたのは学校へ行った後のことだったので、これまでを振り返るにしても、事件を聞いたあの時から振り返ってもよかったけれど、常識ということがポイントということもあり、もう一度、僕の常識を形作っている象徴のような、学校という場所にもう一度行ってみることにした。

「そういえば、煤ヶ谷後輩は学校とか行っているの?」

 僕は道中、訊いてみた。

「ええ、仕事がない時は行ってますよ。これまで学校というものに、ほとんど縁がありませんでしたから」

「縁がなかった?」

「ええ、私は小学校中学校もほとんど行っていません。家庭教師についてもらって、家で勉強してました」

 彼女もやはり普通の家で生まれ育った僕とは、やはりどこか違うようだった。

「そうなんだ。やっぱりすごいんだな。ラブントゥールに入る子って」

「私は大したことはないですが、そういう学校というものに馴染んでない人も多いと思います。だから、みんなウキウキして通ってます。ですから、私も仕事が休みの時は行くことにしています。クラスメートに会えるのも楽しいですからね」

 彼女は昨日より一層疲れた顔を少し緩ませて言った。

「学校ね。僕自身も、あまり良い思い出はなくて、ほとんど通うのはやめちゃったんだけど」

 と色々をぼやかして言う。

「そうですか。でも、そういうのって、やっぱり少し憧れがあるじゃないですか。友達とか、行事とか」

 普通の学校へ行っていた僕としては、良い所も悪いところも知りすぎるほど知っているのでそうも思えないところもあるけど、一般的にはそうなのだろうと思う。

「小窓先輩なんかは、普通の公立中学に行っていたらしいですよ。あまり、上手くいかなかったみたいですが」

「ああ、そう。想像できるけど」

「ええ、あれだけの人なので、なにか先輩のために教室が作られて、特殊学級で一人そこに通っていたとか」

「……それは、学校へ行く意味あるのかな?」

「そういうことですね。ほとんどの生徒は、だから、なんだかんだで楽しんでいるんですよ、学校を」

「二年生以外は、か」

「ええ、ご存知の通り二年生の皆さんは、全員不登校です。でもみなさん、本当は来たいんだと思いますよ」

「来たい? 学校にってこと?」

「ええ、先輩たちは、以前はみんな仲良しで、ほとんどの二年生の皆さんは、仕事をサボっても、毎日学校に通っていたといいます。それは、皆さんそれぞれ事情があるとは思いますが、やっぱり、怖いんだと思います。学校へ来るのが」

 彼女たちの後遺症。トラウマ。

 そういえば、文化祭に並々ならぬ好奇心を持っていた。二年生の全員が、文化祭へ出ようとしている。それはそういうことなのだろうか。まさか、みんな実は、学校へ来たいということなのだろうか。

「とんだ問題クラスですよね。先輩が、なんとかしてあげてください」

 といたずらっぽく言った彼女に、やはり胃が痛んだ僕は正常なのかどうなのか判断はつかない。

 そうこうしているうちに、学校へ着く。

 先日来た時と外観は何の変わりもなく、登校時間はとうに過ぎているので、校門近くにも玄関にも誰もいない。なにか遅刻してきた時のような、バツの悪さを覚える。そんな懐かしい感覚を思い出しながら、僕はあの日のように階段を登る。

「それで、今のところまでで、何か思い出しましたか?」

 階段を登りながら、彼女は僕に問う。

「いや、全く。この時は、転校してきて、これからどうなるんだろう、と思っていたくらいで。正直、何もわからなさすぎて何かを思っていた記憶もない。人並みにドキドキはしていたけど、このありさまだからね。それから、そう言えば、ここから、あれを見たな」 

 踊り場から見えるギロチンを再認識し、僕は教室へ着く。中からは授業をする声が聞こえる。

 ちらりと教室を覗くと、やはり彼女一人しかいない。教育実習の先生が生徒のいない教室で予行練習をしていると思えば可愛らしいこともないが、しかし彼女はれっきとした教師で、彼女は本番の真っ最中なのだ。

「とりあえず入ってみるよ。実は学校へ来たのには、彼女に会いに来たっていう意味もあるから」

「なるほど。私も行きたいところですが、流石に学年も違いますから遠慮しておきます」

「まあ、僕の教師も一年なんだけどね」

 止めておきたいところはやまやまだが、ドアを開ける。

「遅刻ですよ、羽井戸君」

 彼女は不機嫌そうに言った。

「はい、すみません」

 ただ一人出席したことを褒めてもらえるでもなく、僕は自分の席に座る。

 僕は、教科書も出さず、彼女がしばらくの間、一人で授業をしているのを見る。ラブントゥールでは、職業を厳格にまっとうする、それは聞こえがいいが、言うまでもなく、この光景は異常としか思えない。

しかし、こんなものをもう一度見にきたわけでもない。僕がここへ来た理由は一つ。彼女に確認しておきたいことがあったからだった。 

 僕は手を上げる。

「はい、羽井戸君、なんでしょうか」

 彼女は僕を指す。

「えっと、先生、先日、ここで殺人事件が会ったのはご存知でしょうか」

 彼女は授業中に明らかに相応しくない質問に、表情を曇らせる。しかし、この質問は、そのあまりの場違いさから彼女を一瞬正気に戻らせたのか、

「はい、もちろん知っています」

 そう答えた。

「一年生セクションでもその話題で持ちきりです。それが、どうかしましたか?」

「先生は、その犯人に関して、何か心当たりはありませんか?」

「……」

 彼女は一瞬黙った。そして表情を変えないまま、

「いいえ、知りません。どうして私にそんなことを訊くのですか?」

 そう質問を返した。

「いえ、ただ、犯人は二年生だと評判なので、もしかしたら、先生なら心あたりがあるんじゃないかな、と思いまして。僕の友達が、教科書に載っているくらい明白だ、といっていたので。もしかしたら、僕らの担任教師である先生なら、知ってるんじゃないかな、と思いまして」

 これには、彼女は明らかに表情を固くした。

「私が教師であるのに、そんな教科書に乗っているような自明なことを知らないことに、苦言を呈しているのですか?」

 言葉に怒気がこもっている。何か、教師失格と言われたように捉えたのかもしれない。

「いえ、そんなことを言っているんじゃないですけど。いや、あの、なにか、事件解決の手がかりになりそうなことを知らないかな、と思って」

 彼女は、一瞬間を置いて、

「殺人犯のことは知りませんが、その殺された人間のことは知っていますよ」

 無知と言われるのが嫌で、少しだけ、言い訳するように聞こえた。

「その人間のこと、被害者、裁判官ですか?」

「はい、その裁判官のことです。彼は、私の兄ですから」

「……え?」

「ご存知ありませんでしたか? 裁判官、翳合春樹は私の兄です」

「……」

 そう言えば、彼女の名前を聞いていなかった。

 次の瞬間、反射的に、姿勢を正し「ご愁傷様です」、やあるいは非礼を詫びる謝罪の言葉が出てきそうになった。が、しかし、その言葉も、僕は飲み込む。

「……じゃあ、僕が初日ここに登校した時、あの朝は、あなたのお兄さんが失くなった直後だったってことですか?」

 僕はその事実に驚愕し、声が震えてしまう。

「そうなりますね」

 しかし、こともなげに彼女は言った。

「……報道規制があったので、先生は聞いていなかったとかですか?」

「いえ、報せはその日の翌日に、私の元に、警察から入っていました。公表は控えてくれという条件付きでしたが、肉親ということもあり、その日のうちに聞きました」

「……でも」

 あの日の彼女からは、そんな雰囲気、かけらも感じなかった。

「殺されたのは知っていました。ですが、両親以外の忌引きは一日と規定がありますし、私は教師ですから。私事で職場を離れるわけには行きません」

「それは——違う」

 彼女のその繰り返されるセリフに、そんな言葉が咄嗟に僕の口から出ていた。

「あの日は、教室に誰もいなかったじゃないですか。誰も出席なんてしていない。家族が死んだのに、あなたは——こんな無駄なことをしていたということですか?」

「もちろん、何も思わないということはありません。悲しいですけれど、教師というものは、そういう感情は殺さなければやっていけないところもあります。職務を真っ当するというのは、そういうことです。受け持っている生徒がいますから」

「いや」

 その無茶苦茶な理論に、また僕は何かを言い返そうとしたが。

 しかし。

これはもしかしたら、実は外の世界でも平然と行われていることかもしれない、と僕は思い直す。というより、外の世界でこそ平然と行われていることかもしれない、と。

 たとえ、身内が死のうと、何かそれらしい理由を述べながら仕事を続ける人は少なくないだろうし、僕はこのラブントゥールで、十六歳の彼女がやっているから、そしてこの一人しかいない教室でやっているから、それが異常だと気づくことが出来ただけで、たぶん、それは外であれば、気丈に振る舞って、仕事熱心、責任感がる、みたいな言葉を絡めて、褒められることすらあるかもしれない。

「うん」

 言って、僕は席を立つ。

 ここへ来て、一番のカルチャーショックだった。 

 無駄足ではなかった。 

 仕事に食べられる。

 役割に取って代わられる。

 乙女屋の言うその意味が、やっとわかってきた。

 ともかく、僕は再び早退をすることにした。

 彼女は一言二言僕に苦言を呈したが、チャイムがなると、すぐに気にせず、教師として授業を始めたようだった。


           ○


「何かわかりましたか、先輩」

「うん」

 学校から出て、僕は言う。

 僕は整理するように煤ヶ谷後輩に今起こったことを説明していく。しかし、彼女は首を捻り、あまりわかっていない風なリアクションだった。僕もそうだった。

 何かが、わかりかけてきた気がしているが、しかし、それは言葉にできるほど具体的ではなく、むしろ頭がかき回されるようで、乙女屋の言っていたように、自分の常識が逆流してくるような感覚で、決して気持ちがいいものではない。それは乙女屋が言うところの、偏見で構成されていた僕が、何かの形に変容しようとしてきているのか、僕の認識が少しずつ変わって来ているというのか。それが良いことなのかどうなのかもわからない。

「それで、次はどうしますか?」

 煤ヶ谷後輩の問いに、僕は「うーん」と曖昧な反応を返す。

「この日は、学校から帰ってきて、煤ヶ谷後輩から例の事件のことを聞いて、それから乙女屋とUNOをやっていただけだったから、他に振り返ることは特にないと思う。そして、三日目は煤ヶ谷後輩と一緒に二年生地区を回った以外はしてなくて、改めて犯人がわかっていない二人の行動を再現するのも、無駄かもしれないと思う。だから、というか、今日出発した時からこれが本命なんだけど、図書館に行こうと思う」

「図書館ですか?」

「うん、やっぱり今回気になるのは、洋子さんは知らなくて、乙女屋は知っているってことでさ、そうなると、洋子さんは確かに仕事しているから僕らのやりとりを全部聴いていないこともあったと思うけど、基本的には一緒にいて、そんなに店では特別なことは起こってないからさ。そうすると、消去法で、僕と乙女屋が二人でいた、図書館で得た情報で犯人がわかった、っていう可能性があるなって」

「つまり、その図書館で乙女屋先輩が何かを知った可能性がある。そういうことですね?」

「うん、そういうことになると思う。考えれば考えるほど、乙女屋に吐かせたほうがいいような話なんだけど。それに、図書館には、同じく犯人を知ってる小窓さんもいたしね。だから、図書館は行っておいたほうがいい気がする」

 煤ヶ谷後輩も同意し、そうして次の行き先が決まる。

「で、その前に、ちょっともう一つ、行ってもいい?」

 と僕は提案する。

「どこにですか?」

「えっと、あのギロチン台に寄って行こうかな、と思って。せっかく学校に来てるし」

「処刑台ですか? えっと、一応言っておきますが、もちろん色々と片付けた後で、証拠も私たち警察が押さえている以外は何もないですよ? そして、その私たちの捜査結果はご覧のとおりの有り様で、何も事件解決に結び付いてはいません」

「いや、別に探偵ごっこするつもりもないし、警察を疑っているとか言うことでもないんだけど——ここから近いっていうのもあるけど、ヒトトセセツナが、僕をここへ連れてきたんだよね。最初に」

 と僕は言う。

「え? ヒトトセセツナ、図書館が、ですか?」

 煤ヶ谷後輩は驚いて言う。

「うん、初日に七葉さんっていう図書館司書に、僕をここに案内しろって言っていたんだって」

「……図書館が。へえ、そんなことってあるんですか? あの現図書館が、まともに人と喋っているところすら見たことないですけど」

 彼女は動揺した面持ちで言う。

「うん、僕も想像はできないんだけど、でもそういう運びで、僕は彼女にここに案内されたといいうことになるんだよね。で、その日の前日に、ギロチンが使われたって」

「じゃあ、図書館は、殺人が起こったことを示唆していて、先輩に知らせようとしたってことですか?」

「その目的はわからない。ともかく、意味もないと思うんだけど、一度、図書館に行く前に、なんか見ておきたいんだ」

 そう言って、校庭の真ん中に併設してある処刑台に向かう。相変わらず、その光景は異質極まりない。

「これが使われたんだよね」

「ええ、間違いなく」

 僕は巨大なギロチンを二人で見て言う。

「というか、やっぱり何度考えても、どうしてこんなものがあるんだろうね」

 僕は処刑台を前に、僕より先にここに来た後輩に訊く。

 ふうむ、と聡明な彼女は唸る。

「やっぱり、ここが実際の社会だと認識させるためでしょうね」

 彼女は、そう答えた。

「もうご存知でしょうけれど、大人がこのラブントゥールに置いていったのは、ここを取り囲む壁、処刑台、図書館、本当にそれだけです。その理由に関しては諸説ありますが、三つは大人がここに用意した唯一のルールのようなものといわれています。他には何もありませんし、そう考えるしかないと言ったことですが。なので、この処刑台については、解釈は様々ですが、最初から人を殺すところまでを想定してこの場所を設計しろ、という警告のようなものであるという説が一般的です。遊びじゃないんだぞ、ということですね」

「学生だけの、お遊び半分の擬似社会ではなく、人を殺すほどの、本当の社会であるということを考えさせるため、それはそうなんだろうけど」

「ええ。ただし、他にも、これを使わないようにせよ、という戒めであるという説や、犯罪の抑止効果としてあるなどというのもあります。学生だけだとやはり自治にリスクはありますし、こんなものがあれば、誰も軽率に犯罪を起こそうとはしないですからね」

「でも、色々議論は有ったけど、一応、ここの最高刑は死刑となっているよね」

「そうですね。やはり、これがある以上は、使うことを前提とする考えに引っ張られてしまいますね」

 歴史上、ギロチンが使われたのは、何度かあるということでもあり、必要性もあったということなのだろうけど。

「それで、やっぱりこれを使って殺すのって、生徒になるわけだよね? そうなると、生徒が生徒を殺すことになるし、それって、あの、単に学生同士の殺人だよね?」

「まあ、新興宗教や政治団体でも見られがちなクローズドスペースでの粛清とも呼べます。しかし、ここにはここの法律があり、正当にこれを使用することができます。もちろん、ここを一歩出れば、そんなものが通じるわけもなく、ここは法治国家などとは考えられはしませんので、大問題となりますが。しかし、ここにいる限りは、生徒間であろうが、それは法に基づいて行われるので、それは暴力とは呼べなくなります」

 ここが閉じている限りは、ここにはここのルールに従うことになる。これまでも何度も言われてきたこと。

「ちなみに、これを使うのを専門でやっている人もいるんだよね?」

「ええ、処刑人です。現在の処刑人は、先輩の同級生ですよ。彼女は処刑廃止論者ですが、仕事はやります」

「会いたくない人がまた増えたけど。でも、本当にシステムと必要さえあれば、その役割を果たす人間が出てくるんだね。たとえ、人を殺すとかであっても」

「ええ、そうですね。死刑判決がある以上は、仕事の需要に対して供給が行われます」

需要。死刑の需要は、誰からの需要なのだろう。死刑判決を下した裁判官も、その需要を満たすためにするのだろうか。

「……そういえば、その犠牲になった裁判官は、抵抗をした形跡はなかったって言ってたっけ?」

「はい、そうです。状況は分かりませんが、薬物を使用されたということもなく、犯人と格闘するなど暴れた形跡もありませんでした。その他の外傷もありませんでした」

「ということは、ここに、自分で入ったってこと?」

 僕はギロチンの首を固定する場所を指す。首と両手を固定する仕組みになっているが、しかし、それは錠がかかるようなものではなく、もし抵抗して出ようとすれば、簡単に出られる仕組みになっている。受刑者に潔さが期待できない場合、見張る人間や、誰かが押さえつけるなどする必要がある。

「抵抗はなかったってことは、罪を受け入れたように、ここに首を入れたってこと? 自分で?」

「……どうでしょう。一応、自殺幇助という線も考えてはいますが。ですが、そんなことを手伝う人間が、いるでしょうか?」

「……それは」

 それは、僕にはわからない。


             ◯


 そして、僕らは図書館へ向かう。僕らのいる場所から南西のほど近いところにあるその建物。処刑台からも離れているし、この二つの位置関係についても、何か意味は見出せない。

「先に言っておくけど、ここになければ、もう他に思い当たるものはないんだ」

 僕らは図書館の前に立って言う。

「でも、正直大した話をした記憶はない。消去法で、ここぐらいしか乙女屋は外部とコンタクトを取ってないっていうだけで、ここしかないと思っているだけで。でも、この図書館には」

「ヒトトセセツナがいる」

 煤ヶ谷後輩は先回りするように、その名前を出した。

「やっぱり、有名人なんだよね?」

「もちろんです。彼女を知らない人間なんて、ここにはいません。図書館は、ここでは最も特別な職業ですけど、現在校生のなかで、前にも言った保険屋と、図書館は別格の扱いを受けています」

 彼女のその言葉には、多少の緊張感があった。

「図書館と、話したことはある?」

「ありません。ここに入った時に名前を呼ばれることくらいです」

「二年生って言ってたよね? 彼女に、聞き込みはしていないの?」

「流石にしていません。それは唯の――答え合わせになってしまうので」

「……答え合わせ。ということは、やっぱり知ってるんだ。犯人も」

「ええ、間違いなく。彼女は、本物の図書館ですから。ここの情報については全て網羅する、それを体現しています。にわかに信じ難いですが、彼女にお会いになられていたら、信ぴょう性もあることはわかっていただけると思います」

 人間とも思えなかった、という僕の感想に、彼女は完全に同意する。

「ですので、犯人について彼女に訊ねることはできますが、それは私の職務放棄にもなってしまいます。そうなると、私は多分、ここを出ていかないといけなくなるでしょう。役割の放棄ですから」

「それだけの心労を抱えながらも、彼女は図書館には訊かなかったということは、シンプルにすごいと思うけど。だって、答えを知ってるし、訊けば教えてくれるんだから」

 煤ヶ谷後輩は、ふふッと笑う。

「いいえ、それなら、知らないほうがましです。訊いた瞬間、自分の何かが壊れてしまいそうですし。少なくとも、自主性や自律的な学ぶ姿勢なんて、生涯にわたって口にできなくなりますよ」

 笑いながら言ったが、それを自信を持って口にできる勇気は、正直僕にはない。 

そんな会話をして、僕らは図書館の重い扉を開ける。

「こんにちは、羽井戸様」

「こんにちは、煤ヶ谷様」

 挨拶はする彼女。

 挨拶しかしない彼女。

 微笑む彼女。

 しかし感情が見えない彼女。

 挨拶をしない僕。

 当たり前のように僕らは彼女の横を通り過ぎて、とりあえず図書館の奥に進み、彼女の姿が見えなくなったところで、足を止める。

「まあ、離れたところで、この会話とかも聞かれてるというか、知っているんだろうけど。何故ここに僕たちが来たかも、彼女は全部知っているのかもしれないけど」

 全く現実離れしたことを言ってみるが、彼女の雰囲気から、自分で言ってみても、やはり、それほど誤ったことを言っている気にはならない。

「彼女に関してはあの容姿も相まって、あらゆる意味で、人間離れしています。生徒からも、神聖視と言っても良いくらいに特別視されていますし。図書館については、謎に包まれているところも多いですが、おそらく、大人とつながっているということは確かだと思いますが」

 と後輩は言った。

「大人? それはエヘウやフガーケスと、ってこと?」

「ええ、そうです。図書館は、歴代、それはシンシアレモンの代から、大人とコミュニケーションを取っていると言われています。レモンは、それを目的として、図書館という仕事を作ったとも。例えば全て知っていると言いますが、先輩も、初日から彼女に名前を呼ばれたでしょう? そんなの、大人が知らせない限り、わかりっこないでしょう」

 確かに、彼女は初対面の僕を見るなり、僕の名前を呼んでいた。

「それは、今まで人間離れしたエピソードが多すぎて、ミステリー過ぎたけど、それは、ある程度現実感のある話だね」

 僕は言う。

「ますます、彼女に犯人を訊いた方が良い気がしてきたけど。煤ヶ谷後輩が職務放棄になるから訊けないというのはわかったけど、僕が訊いてこようかな?」

「それもやめておきましょう。だって、先輩もここの生徒です。答えをカンニングして正解を得るなんて、ここの生徒として失格です。彼女に質問をすると精神が崩壊する、なんて話も真偽の程は定かではないですがあったりしますし。だから、図書館へは誰も何も訊きません。あくまで表向きはですが」

「表向きは」

「ええ。図書館に質問をする生徒は基本はいないことになっています。ご存知の通り、図書館は生徒の質問に答えるのが業務ですが、その実は、常に沈黙を続けるのが仕事です。少なくとも過去、それほど優秀でない図書館はそうでした。しかし、彼女は本当にシステムそのものと言った感じで機能してしまっている。だから、彼女に質問している生徒はいるでしょう。容易に想像できます。そして、彼女が質問に答えることで、逆にこの街の自主性が失われていくという矛盾した存在です。天才が小さなコミュニティに影響を与えるのは、ある程度仕様がない側面もあるでしょうが」

「天才」

 どこかで聞いた響きだった。

 他称の天才。

 しかし、その言葉も彼女には当てはまらないきもする。だって、人という感じすらしない。

 そうして、二人で話していると、図書館のドアが開き、光が入ってくるのを見つける。平日の午前に、生徒が入ってくるのは珍しいということだったが、その姿を見て納得する。

「あ、七葉さんだ」

「お知り合いですか?」

「うん、図書館司書の七葉さん。さっき言った、僕をギロチンに案内した人」

 彼女も僕らに気づいたよう、セツナの横を通り、階段を上がり、嬉しそうに、こちらに向かってきて、いつものようにお辞儀をしたあと、ニコッと笑う。それは少しだけさっきの彼女に似ていることに気づく。

「こんにちは、初めまして」

「初めまして、煤ヶ谷といいます」

「こんにちは、煤ヶ谷様。図書館司書の七葉と言います」

 と彼女は丁寧に自己紹介をする。

「そして、羽井戸様、お久しぶりです。今日は図書館にどんな御用ですか?」

「まあ、久しぶりということもないですが、あ、えっと今日はちょっと、七葉さんにも訊きたいことがあって」

「先輩、一応事件のことは伏せてください」

 と僕に耳打ちする後輩。

「でも、先日乙女屋が、七葉さんに事件のことは言っていたよ」

 額に手を当て観念したように目をつむる後輩。話してはいけないのは図書館だけではないのだ。

「実は、先日もお話した事件で、ちょっと改めて、図書館に来たんですが」

「えっと」

 言って、顎に手を当てて考える七葉さん。

「その殺人事件の件について、あの日の後も考えてみたんですが、やはり思い当たるところはなくて。本当に、あの夜は羽井戸様をご案内するようにセツナ様に言われて、それだけで。まさか、前日にそんなことがあったなんて言うのも、全く知らなくて……」

 と申し訳なさそうに回答をする。

「もちろん、七葉さんを攻めているわけではないんですけど。でも、もう一度七葉さんにも確認だけさせてもらいたかったんです。僕が到着した日、あの日の夜、図書館に僕を案内してこいと言われたんですよね?」

「はい、そうです。あの処刑台までセツナ様にお連れするように言われました」

 その初日の経緯を確認する。

「その意図なんですけど、どうしてそんなことをしたんですかね?

多分、あそこで前日、殺人事件があったって図書館はわかっていうということですよね? じゃあ、僕をあそこに連れてきたってことは、僕に何かして欲しかったってことなんですかね?」

 これにも、七葉さんは困り顔で返す。

「それについても、正直、私にはわかりかねます。私は、図書館から与えられる業務を遂行するのが仕事で、それに従う必要はあるんですが——意図までは、確認できません。確認できないというか、私も一応、ここの生徒ですので、彼女と会話すること自体ができない。というか、質問ができないので」

「……なるほど。それはそうですね」

 と、煤ヶ谷後輩が入ってきて言う。

「えっと、七葉さんと言いましたね。あの図書館の司書をやっているんですよね?」

「本来的には、図書館の司書ですね」

 と両手を広げて、七葉さんはこの本だらけの空間を指す。

「ですが、ご存知の通り、ここでは図書館というのはダブルミーニングになっており、職業規定には、図書館に区別は書いていませんので、両方の図書館を担当することになっています。歴代の司書さんも、そのように働いていたそうです」

「そうなんですか。知りませんでした。そうすると、どちらの図書館の業務もしないといけず、そして、片方からは言い渡されるだけということですか」

 と言ってから、煤ヶ谷後輩は僕を見る。

「ということで、先輩、さっきの話ですよ。図書館は、基本的に生徒の質問に答える義務がある。でも、基本は生徒は訊いてはいけないことになっているので、質問を返せない。つまり、七葉さんは、聞き返すことができずに、命令をされるように、業務を言い渡されるんですよ」

「その通りです」

 七葉さんは同意する。

「命令か。じゃあ、やっぱり、図書館が僕をあそこに行かせた意図も確認はできない」

「そうなります。やはり、私からもセツナ様には聞き返すこともできませんので」

「……」

 ということで、僕らも訊けないので、図書館の真意は確認できない。そして、ここに来てから、新たな情報は何一つ得られていない。

しかし、と僕はあの時のことで、もう一つ訊いておこうと思っていたことを思い出す。 

「そう言えば、七葉さんは、あの時、僕にルールと称して、いくつかの変なマントラを教えていきましたよね?」

「ええ、あれもセツナ様からの指示ですね。あれは、ラブントゥール設立当初からあるラブントゥール・ルールと呼ばれています。出処も不明で、特に意味があるわけではないですが、今に至るまで語り継がれているものです。もう一度、お知らせしましょうか?」

「一応聞いておきます」

 そして、七葉さんは、やはり、その結構長い文章を暗記しているらしく、すらすらと詠唱する。

「煤ヶ谷後輩は、このルール、聞いたことあった?」

「……ないですね。何か重要な意味が含まれているんでしょうか? 含蓄があるような、ないようなで、少なくとも私には理解できませんでした」

「うん。僕もなんだけど」

 そこから、図書館の意図を汲み取ろうと僕たちはしばらく三人で話したが、やはり何も結論が出ないことを悟る。

 最後に、煤ヶ谷後輩が七葉さんに訊く。

「本当に、天才の真意など簡単にわかるものではないですね。それから、これは興味本位で訊くんですけど、ヒトトセセツナって、食事とかしたり、トイレに行ったりするんでしょうか? なんか、見たことないし、想像もつかないんですけど」

「ふふ、もちろんします。トイレも行きますし、食事もします。普通の人間ですよ」


             ◯

 

 そうして、僕らは図書館を離れることにする。

「以上」

 と僕は言う。

「復習終了」

 僕と煤ヶ谷後輩は図書館を出て、一旦止まる。

「どうですか? それで、何かつかめましたか?」

「……いや」

 と僕は言う。率直な感想だった。

「振り返ってみても、やっぱり犯人を特定できるようなものを見聞きした記憶もないし、それ以前に被害者のことを知っている人すらいないし、容疑者も、どこからどこまでが該当するのかもわからないし、正直、進捗があったとは言い難い。けど」

 けど、と僕は言って、

「でも、何かがわかりつつある気もする」

 そんなことを口走る。

「何かが?」

 それは、違和感としか表現のしようもないもの。

 全く具体的ではなく、言葉にもならないので、いうべきでもないこともわかっていた。それでも、何か自分の中で、近づいているという実感もある。

少し考えるのに時間がかかりそうだからと、その日は煤ヶ谷後輩とはそこで別れた。彼女は何か思い出したら言ってください、私も操作を続けます、と言ってまたどこかに向かって行った。

 家に帰ると、乙女屋は当然のようにそこにいて、牛乳を飲んでいた。乙女屋はコーヒーを飲まない。飲むと三日三晩眠れなくなるということらしい。嘘だと思う。

「おかえりなさい、司」

 視線を上げて機嫌良さそうに言った。

「……ただいま」

 と僕は彼女の正面に座る。

 乙女屋は立ち上がり、僕の隣に座り直す。

「それで、どうだったかしら? 私を殺す予定の犯人は見つかったかしら?」

「いいや、全くだよ」

「それは残念ね。いつも私をゲームで陰湿にまかしているつけが司に回ってきたのね」

 笑いながらトランプを切る乙女屋。

「そのつけを更に払わされるのは乙女屋だけどね。この後、殺されるんだから」

「上手いこと言うのね」

 フフと笑う。

 僕は乙女屋の前に座る。

「全く笑い事じゃないよ。ねえ、乙女屋。僕がもし犯人がわからなかったら、本当に乙女屋は殺されるの?」

「わからないわ。まだ死んでいないから。いつ死ぬかなんて根本的にわからないもの。そうでしょう?」

「でも、犯人はわかっているんだよね? だったら、そいつだけでも捕まえておけないの?」

「まあ、できなくはないわ。でも、司が助けてくれるって言ったから、教えないわ。比喩でもなく、死んでも教えない。だって、私は教師じゃないもの」

「その教師も、教えてくれなかったよ」

「それはそうでしょう。自明なことすらもわかっていない、それが教師だもの」

「じゃあ、誰が教えてくれるの?」

「学校は学ぶところよ。自分で学ぶのよ」

「……図書館にも行ったんだけど、なにもわからなかったよ」

「それは残念ね。もっと勉強が必要ね」

 ふふ、と彼女は笑う。

「乙女屋は、図書館とは、話したことはあるの?」

「当たり前でしょ。同級生なんだから。あの子が図書館になる前の話だけど」

「どんな人だったの?」

「そうね、まあおとなしい子だったわ。そこに座って、私とトランプをしたりしていたわ。そんなに強くなくて、いつも私が負かしていたわ」

「全く想像がつかない」

「失礼ね。私も勝つことはあるのよ?」

「いや、そっちじゃなくて」

 そっちもだった。

「確かに彼女は優秀だったけど、今のような感じではなかったわ」

「それがどうしてああなったの?」

「正義感の強い子だったのね。弱さを失ってしまったわ」

「……それは、後遺症でってこと?」

「そうね。間違いなく後遺症ね。前のあの子なら、図書館になりたいなんて、絶対に言わなかっただろうから。トラウマで図書館になったなんて、彼女くらいね」

 乙女屋は、少しだけ何か悔しそうに言った。

「まあ、別に死ぬのは怖くないの。人が死ぬのには、曖昧な理由と正確なタイミングがあるのみだから。気にして生きていても仕様がないわ」

 そうして、九時になると、眠そうに彼女はカップを持って席を立つ。彼女の就寝時間だった。

「私が死んだら、泣いてちょうだいね、司」

 と彼女はあくびをしながら僕に言った。

 そして、また無為に一日が過ぎた。

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