第5話 暗所恐怖症だからといって、まぶたを焼く人間はいません。
ラブントゥール・ルール5
暗所恐怖症だからといって、まぶたを焼く人間はいません。
○サバック・オアシス&ジャスミン
職業:ファッションデザイナーor仕立屋
ラブントゥールは、よく見るととても凝った作りをしている。街の大まかなデザインは、伝説的なデザイナーである第三期生のケレ氏によってなされたという。ケレ氏のデザインの巧みなところは、本当にここの最初期から、時間をかけて段階的に、ここを街として成立をさせることを念頭に置いたシティデザインをしていたことである。それは、ほとんどテント暮らしをしていた当時の在校生の仮の住居を整えるところから始まり、全員が雨風を凌げる住居を確保したところで、数百年持続可能な本格的な住居を建設、それまで住んでいた仮住居についても、簡単な工事で病院や役所として転用して活用できるようにしたりと言った具合に、段階的に、計画的に、街の機能を整えるプランを最初から立てていたことだ。その計画は五十年という期間で作成されており、当時十数年しか生きていなかった高校生だった彼が、そこまで考えたのは驚異的だ。僕なんかが見ても、この街の現在を見て、これがゼロから建てられた物だと考えると、その先人の努力や叡智に感動を覚えてしまう。
ともあれ、そういった一例をとっても、それぞれが懸命に役割を果たし、今ここがあると言うことは感謝しないといけない。ここの生徒は総じて優秀で、そして仕事熱心でもあるということ。この小さな街では、一人一人の負担は小さくなく、やるべきことはたくさんある。そういった勤勉さや真面目さが、ここの生徒を選ぶ際に重要視されているのでは、そんな話も図書館で読んだけれど、かなり真実味のある話だと思う。
「さて、司、今日は何をするのかしら?」
他の生徒が仕事へ続々と足早に向かっていく中、ゆったりと朝食を取った後、昨日借りてきた『ラブントゥール歴史アラカルト』の本を閉じる僕。今日からここの新聞も読み始めた。
もう日課と呼んで差し支えないほどに馴染んだこのまったりとした景色、僕は洋子さんのカフェにいて、そして向かいに座るのは乙女屋、僕の友達だった。
「今日は、司には何かをする予定はあるのかしら?」
そして、相変わらずだった。
乙女屋も図書館で借りてきた本を読み、僕も本を読み、彼女と全く同じ生活様式を取ることになっていた。朝は一緒にストレッチをし、音楽を聞きながら本を読む。違うのは飲んでいるものくらい。僕は紅茶をいただいている。昨日から友達となった彼女。もう彼女の遊びの誘いを断る理由もなくなってしまったので、今日はけん玉を元気にやる予定の平日の朝だった――仕事が無いからだった。行くべき学校もなかった。
高校生から学校を取り上げたら、無職になる。これは、当たり前ではあるが、一般的な学生にとっては盲点になりやすい事実だではないだろうか。僕もここに来る前は、こんなことになるなんて思ってもみなかった。まさか自分がこの歳で無職になるとは。午前からけん玉をやることになるとは。乙女屋とも話があうようになってきていた。これはあれだった。例の状態に足を踏み入れていていた。
「あのさ、乙女屋」
「何かしら?」
「……昨日働かないかもって言ったけど、一応聞かせて欲しいんだけど。仕事って、どうやって見つければいいの?」
僕は訊いてみた。
「そうね、いくつか方法はあるわ。例えば、新聞にも求人は載っているし。でも、働くにしても、それ程急がなくてもいいと思うけど」
しかし、昨日までと同じような日常だったが、一つ変化があった。今までは正面に座り僕のことを監視するように見ていた彼女だったが、今日から乙女屋が僕の隣に座るようになっていた。朝から、当たり前のように僕の隣りにいる。
「……」
乙女屋は何も思っていないのだろうが、何か緊張をしてしまう。
元々の寂しがり屋、そして初日から僕を自分の部屋に泊めるような人間なのだから、これは当たり前なのかもしれないが、しかし近い。
「司、職業なんて持つものじゃないわ。そんなことしたって、大体、仕事に食われるのがオチよ」
そして、いくつかの仕事を探す方法を教えてくれた後、これまでも何度か聞いたことのあるようなことを言う。
「その、仕事に食われるって、どういうことなの?」
「私は教師じゃないのだから、と言いたいところだけど、お友達になったのだから教えてあげるわ」
というかボディタッチをせんばかりの距離。
「語り尽くされた言葉で簡単に言うと、人間というのは環境動物で、その環境に従って全てが変容してしまうのよ。銀行員を長くやっていたら、銀行員の顔になっていくなんて話知らないかしら? 銀行という環境に長く染まっていると、もちろん人格も影響を強く受けてしまうし、見た目まで決まってしまうような動物なのよ。職業とはつまり自分の環境を決めるということでしょう。だから、人は教師になったら、教師らしく振る舞い出すし、その職業に自分を当てはめだす。だから、危険なの」
「危険」
「ええ、職業に食われて、人間は腐っていくのよ。今いる政治家は、政治家を志した時には恐らく清く正しくその国を導こうと思っていたはずよ。しかし見てご覧なさい、政治家でまともな人間を見たことがある? これは最初から腐った人間ではなく、政治家という職業を持ったから腐ったのよ。あくまで後天的なものなの。そういうふうに職業は人に致命的な影響を与える。大抵の場合悪い方によ」
「なんか、分からないではないけど」
「あの小窓も、あの子がなぜセーラー服を着ているか知っている? それはね、あの子が探偵という職業に食べられないように、私が着させたのよ」
「あの制服を乙女屋が?」
「ええ、小窓の職業は探偵で、それは彼女に向いている仕事だから仕方ないと思うの。でも、あの子が早くから探偵に染まりすぎて、必要以上に探偵らしく振る舞ってしまうのを、私は恐れたの。だから、あの子に制服を普段から着るようさせて、女子高生だというのを意識するようにしたの。でも、昨日のを見ると、やはり小窓でも難しいのよ、順調に職業に染まっていっているわ。そして、あんなに卑猥な体になっていったのも、セーラー服を着ているからね。女子高生探偵という環境が、そうさせているのよ」
真剣に言う乙女屋。
後半のそれは明らかに違うけど、確かに、彼女の職業と制服は、異常に彼女に似合っていた。
「なんとなく、言いたいことは、わかったよ」
言い分はわかるけれど、その仕事をしている人たちの助けで僕らは暮らしていけてるというのもあるし、難しい話ではあると思う。
「それで、何度も訊くけど、乙女屋は『天才』なんだよね? それって、職業というか性質に近いし、それを自称してしまうことで、もろにその乙女屋の言うところの食われそうっていうか、影響を受けそうだけど、それは大丈夫なの?」
「いいえ、それは違うわよ、司。私は生来の天才だからそれでいいのよ。元々の天才が、天才という職業を名乗りだした、それだけなのよ。天職みたいなものなの。だから食われるもなにもないわ。最初から食われているわ、自分の才能にね」
得意気に言った乙女屋の手には、引き続きけん玉が握られている。
だから、その前に天才って職業なのか、と再び何度もした質問に戻ろうとした時、洋子さんが僕らに焼きたてのクッキーをお裾分けしにきてくれたので、
「洋子さん、乙女屋って天才なんですか?」
とお礼のついでに訊いてみる。
「うん、どうだろう。天才なんじゃないかなー」
曖昧な答えを返してくる。
「天才って、例えばどこらへんがですか?」
「うーん、そうだねー、確かにゲーム好きなのにゲーム弱いしー、まあ普段別に何もやってないしー」
「ねえ、洋子さん」
「んー、何?」
「乙女屋から、お金とかもらってるんですか? 毎日ここで三食食べてますし、お金を払っている様子が無いですけど」
「ううん。だって乙女屋、お金持ってないからねー」
「そうよ、当たり前じゃない」
悪びれる様子もない。
「私と洋子は友達なんだから。ちなみに、私は洋子からお小遣いをもらって生活をしているわ」
「……」
「あと小窓からも。それで服とかを買うの。友達だから」
自信満々に言った。ちなみに、僕は自分の分は毎日自分で外のお金で払っている。外のお金も毎日レートは変わるけれど、どこかに換金所もあると言うことで、この店でも一応使えることになっている。
「じゃあ、乙女屋って、ご飯を食べさせてもらって、生活に必要なお金ももらってるってことだよね?」
「そういうことね。生活力がないのよね、天才って」
ふう、と溜息をつきながら、避け得難いことのように残念そうに言った。
「まあ、天才とは一%のひらめきと99%の余白とはよく言ったものだわ。一瞬のひらめきのために、余白を作り出しているのよ」
とけん玉が下手な彼女は優雅に言い切り、僕は沈黙するしか無かった。
「さて、無職の司は今日もやることがないということだから、けん玉をしばらくやったら、私の友達を紹介してあげるわ」
しかし、今日の乙女屋はそんな提案をした。
「私と司はお友達になったのだから、友達の友達は友達ということで、先日言った通り、私がお友達を紹介していってあげるわ。司は挨拶が趣味なのだから、そろそろウズウズしているでしょう? それに、私以外にもお友達ができるかもしれないわよ?」
「挨拶できなくてウズウズする人間はいないだろうけど……友達? それって、二年生だよね?」
「ええ、私は二年以外にお友達はいないわ。それに二年生、司のクラスメートでもあるのだから、別に不都合はないでしょう?」
「……ないけど」
けど。一昨日のことを思い出す。今のところ会う二年生全員に、必ず銃を向けられているのだ。
「というより、転校初日から貴方ずっとゲームをやっているわよね? 何考えてるの? 学校に転向してきたとして、まずすべきことは何かしら? クラスに馴染みなさい。それが転校生のまずすることでしょう?」
「いや、ゲームは乙女屋が」
と、恒例になってきた無駄な反論をし、僕らはクッキーを食べた後、再び外出することになった。
「というか、僕が行っても大丈夫なの?」
僕らは昨日のように、二人で並んで外を歩く。
「ええ、大丈夫よ。大丈夫じゃない人間には会わせないわ」
「……ちなみに、真黒郡上とかって人は友達?」
「あら、真黒郡上のことを知っているの? あんなヤブ医者は友達ではないわ。安心しなさい。私が紹介するのは、私のお友達だけよ」
「それなら、良いんだけど」
と、どんな人なのだろうと少しだけワクワクする部分もあるが、今のところ怖さが勝っている。
そうして、二人で二年生地区を歩いている途中。
今のところ、誰ともすれ違ったことのないここで、道の向こうから二人組が歩いてくるのが視界に入る。
二人の同じ背丈をした褐色の肌。二人は共に真っ白な服に身を包んでいる。それは、この廃墟には全く似合わない、コスプレの撮影会を廃墟で行うために来ているような、とにかくおしゃれな双子だった。
「ああ、あれらは気にしなくていいわ。友達ではないわ。ただの仕立屋だから」
「仕立屋?」
「服屋よ」
「あー、乙女屋だー」
「あー、乙女屋だー」
と二人は揃って乙女屋を指差して言った。
「それから男だー」
「乙女屋の男だー」
「こんにちわー」
「こんにちわー」
と僕に向かって挨拶をするので、僕も「こんにちは」と挨拶を返した。
「無視していいといったでしょ。だから貴方、本当に挨拶が趣味なの?」
彼女たちは更に近づいてきて、僕を好奇の目で見ながら、
「サバック・オアシスだよ」
「サバック・ジャスミンだよ」
と同時に言った。
乙女屋はため息を付きながら、仕様がないという感じで彼女たちを手のひらで指した。
「というわけで、砂漠姉妹よ。別に私のお友達ではないけど、一応紹介しておくわ。仕事はデザイナーと仕立屋よ。どっちがどっちだかわからないけど。というか、区別の必要もないわ。一緒だから」
嫌々紹介をしてくれた。
「なんだよー、乙女屋ー」
「なんだよー乙女屋ー、いつも服作ってやってんのにー」
「のにー」
乙女屋のお洒落な服は彼女たちが作っているようだった。
「ねえ、姉様」
「ねえ、姉様」
お互いのことを姉と呼ぶ彼女たち。
「ねえ、ジャスミン」
「ねえ、ジャスミン」
そして、お互いを同じ名前で呼ぶ。
先程自己紹介していたが、同時に言っていたので、どっちがどっちだか、既にわからない。
「それより、先日頼んだ私の服の直しはまだ? 遅いわよ?」
「もうできてるよー、乙女屋が金払わないだけだろー」
「金よこせー」
「……心配しなくても、お金は後で払うわよ。小窓も戻ってきたことだしね」
「……」
「自分で働けー、ニート姫」
「自分で働けー、ニート姫」
「働いてるわよ、お金が発生しないだけで」
「働いてないー。そして、また男と住みだすなんて、いんばいだだなー、乙女屋はー」
「だなー、乙女屋はー」
「淫売ではないわ。私は処女よ」
「しょーじょ、しょーじょ」
「しょーじょ、しょーじょ」
「貴方たちには常識というものがないのね。処女というのはそこまで嘲笑の的になるものではないわ。むしろ」
「しょーじょ、しょーじょ」
「いんばい、いんばい」
「統一しなさい」
そのやりとりを黙ってみている僕。
しかし、今一つ、気になる言葉が聞こえた。
また、男と住む。
……。
いや、なんか言っていた気もするが。僕が初めてだとは思っていて、ショックを受けたわけではないのだけど。乙女屋の性格を考えれば、そういうのは気にしないのだろうけど。
「じゃあねー、ニート姫」
「じゃあねー、ニート姫」
去り際に言う彼女たち。僕は乙女屋を見る。
乙女屋は全く気にしていない。眉一つ動かさない。
「男も、ふくつくりにきてねー」
「きてねー」
彼女たちは僕にも言って、去っていった。
「言っておくわ。ちなみに私の着ている服は彼女たちが作ったのものよ。お友達ではないけど、彼女たちを認めているわ。腕は確かよ。そこは混同する私じゃないわ。まあ、値は張るけどね」
「だから、誰に出してもらってるの?」
「……」
乙女屋は答えない。
「このままだと、司もニート王子になるということだけは言っておくわ」
「言われなくともわかるよ」
真実味を帯びてきていた。
○クララ・アニュエラ 職業:人形職人
少し歩いて、その家についた。
絵本出てくるような、お菓子の家みたいな家だった。乙女屋はその家の前で止まる。
「今日紹介するお友達は、クララよ」
「……あの、僕は、英語とか正直あんまりなんだけど」
「ええ、確かスイス出身だったかしら。でも、語学の心配なら大丈夫よ。彼女は、」
と言って、彼女は一旦、言葉を切った。
「トリクシーという会うたびに日本語が下手になっている子もいるけど、彼女も、とりあえず今日は大丈夫」
そう言って、乙女屋は二度、家のドアをノックし。
反応を待つこと無く、ドアを開ける。
「クララ、入るわ」
友達の家にしても、入り方が大丈夫なのか、と思った僕は乙女屋に言おうとしたが、言葉が止まる。僕は人形と目が合う。入った瞬間、無数の人形が視界に入る。宙に吊るされているもの、壁に座っている人形、椅子に掛かっている人形、所狭しと人形が置いてある。ここで何かをしようとして人形と目を合わさずに生活するのは不可能なくらいに。
その中心、壁に立てかけられるように、彼女はいた。
「モルが来ていたのね」
その丁寧に掃除されている様子を歩き回りながら見て、乙女屋は言った。
「……モルさん? あの、魔女の?」
僕は自然と立ち止まり、彼女を凝視してしまう。
「そうよ。クララの親友だったの」
「……」
そこにいたのは、人形だった。
両手足をダランと人形のように垂らして、人形のように、一切動かない。生きているかどうかも、わからない。しかし、よく見ると薄っすらと呼吸をしており、太陽を浴びていないからか透き通るような白い顔にも、かろうじて生気が宿っている。彼女は生きている人間だ。
「クララ、久しぶりね。しばらく来られなくてごめんなさいね。元気だったかしら?」
と、乙女屋はそっと彼女の手を取る。彼女は何の反応もしない。それは、本当に人形に話しかけているようで、その彼女は人形にしか見えなくて、先日テディベアの人形と一緒にいた乙女屋を思い出す。
しかし、乙女屋が僕を向き、
「司、挨拶をしてちょうだい」
そう言われ、それが彼女の友達だとわかった。
「はじめまして、羽井戸司といいます。貴方のクラスメートになりました。どうぞ、よろしくお願いします」
僕はここへ来て、初めてきちんと挨拶をした。
僕は挨拶の後、乙女屋に何から訊こうか、あるいは何も訊かないでおくべきか悩んだが、
「司、別に訊いても構わないのよ?」
乙女屋はそう言った。
「これは、後遺症?」
僕は乙女屋に訊いた。
「そうね」
と乙女屋は頷いた。
「春の珍事で、クララはこんな風になってしまったわ。真黒群青は過度の、過度のストレスによるもの、と二度言っていたわ。今の彼女は本当に人形のようでしょう? 私たち二年生は、程度の差はあれど、少なからずこういうことになっているわ。過度のストレスがもたらす——なんて、言葉を使うのは簡単だけど、こうなった子もいるわ。トラウマというやつよ。あんなことがあって、平気でいられる人間なんかいないわ。私たちは、まだ子供だもの」
子供。
それは、初めて乙女屋の口から出た言葉だった。
全員が、職業を持ち、大人のように振る舞うここで、しかも、乙女屋からそんな言葉が出るとは、考えてもみなかった。
「あの東ウェストウッドも昔は普通にミュージシャンをやっていたし、コンビニ経営者の林林だって24時間営業ではなかった、洋子の店も九時七時で閉まっていたし、私たちは、普通のクラスメートだった。本当に仲良しのね」
「洋子さんのは、乙女屋のせいじゃ……」
でも、と言って乙女屋は、続ける。
「生きているだけましよ。それはもちろんクララもよ。死ぬよりは、何倍もまし。だってこうして会えるし。それでもお友達で居続ける、変かしら?」
「おかしくないよ、もちろん」
僕は言う。
「そう。だから、私のお友達には、優しくしてあげて頂戴」
「わかった、約束する」
首を少しだけ傾けて、満足そうに乙女屋は微笑む。
「また来るわ、クララ。それまでいい子にしているのよ?」
○
「さて」
とクララさんの家を出て乙女屋は言った。
「司、お友達になったから、一つだけ言っておくわ。言っておく、と言うか覚えておいてほしいことがあるの」
「何?」
「別に大したことじゃないの。というか誰でもわかっていることなのだけど、ここにいると忘れがちだから、私は一応お友達にはたまに口に出して言っておくようにしているの」
「うん、なに?」
「お友達は、役割ではないわ。仕事でもない。友達は友達だもの。だから、司は、私に何でも言ってちょうだい。私も司に何でも言うわ。でも、そこにやらなければいけないことは、一つも無しよ。義務や強制なんていらないの。お願いでも断りたければ断っていいし、したかったらしてもいい。私が司にすることも、私がしたいからしているだけよ」
「……」
結局、僕は多分、将来乙女屋の食費や生活費を出すことになるのだろうな、とその言葉を聞いて確信をした。しかし、職業を持って何らかの役割を担うことが前提となるこのラブントゥールで、そのルールの外に信じるものがあるということ、それを忘れないでいるということ、それは非常に大切なアイデアではないかと感じた。僕は初めて彼女が、本当に天才なのではないのか、と思ったほどだった。
「あ、ハネくん帰ってきたよー」
カフェに戻ると、陽気に出迎えてくれる洋子さん。
この時間、あまりこの店に人はいないはずだが、今日は一人、見慣れない人がいた。小窓さんだった。
「おはようございます。昨日の無礼をもう一度詫びようと思いますわ。司様」
「いえ、僕は気にはしてませんが」
言って、少しだけ店内の異変に気づく。店の内装が何か風船やテープで飾り付けてあり、洋子さんもご陽気さに輪をかけたようなとんがった黄色い帽子をかぶっている。中心にはウェルカムの文字も見える。
「まあ、悪くないわね。そうだ、これを機会に、ふたりともお友達になりなさい」
どうやら、乙女屋が仕込んでくれたものらしい。
「それは結構ですわ」
とプイと外を向きながら、言う小窓さん。しかし、飾り付けはやってくれたらしい。
「というわけで、歓迎パーティーをしてあげるわ。歓迎と言っても三人だけで、他の人間を誘ったら断られたけど」
「うん、やっぱりね」
「ともかく、ようこそ」
そうして、僕の歓迎会がとり行われた。
それは、僕にとって、初めての高校生活と呼べるものだったかもしれない。しかし、次の瞬間、豪快にシャンパンを開ける彼ら。平日、午前中だった。
○
「司、踊りましょう」
乙女屋はシャンパンを飲み。まるで貴族のように、高笑いをするようになり、ご機嫌極まりない状態で僕を誘った。
「音楽がいるわ。あの子を呼びましょう、我がクラスの音楽家、東ウェストウッド」
「いや、だめだよ。死ぬよ」
とりあえず僕の歓迎会であるので、僕も人生で初めてのお酒をほんの少しだけいただく。やはり僕もお酒に弱いタイプらしく、少しして気づくと乙女屋と、型のわからないダンスを踊っていた。
「本当に、私は、ダメな人間で、制服を脱ぐと、無趣味で、プライベートが全く充実してなくてー、私の人生、これで良いのかなって、」
小窓さんはといえば、彼女は泣き上戸で、何かをメソメソと語っている。
陽子さんはというと、お酒を一滴も飲まず、今回はおごりといって、ご馳走を振る舞ってくれた。
「洋子さんは飲まないんですか?」
そんな洋子さんに僕は訊ねる。
「うん。私、お酒の半径一メートル以内には近づかないことにしてるんだー」
いつもの笑顔で言う。
「ええ、春の珍事も、洋子がお酒を飲まなかったら、被害は三分の二程度で済んだという試算が『学級会議』でもあったわね。ほら、司も飲みなさい」
まだ時刻は正午を過ぎた頃で。まだまだ一日は長く、その日の僕は例のことをすっかり忘れていた。
昨日と大体同じ時間。煤ヶ谷後輩が店に入ってくる。昨日見なかった彼女は、一日置いて、その見た目のコンディションはそのまま悪化しており、昨日も無理していたことが容易にわかる憔悴具合だった。しかし、前回までの訪問とは、一つ大きく異なっていることがあった。入ってくるなり、ハッと、彼女は気づく。
「小窓先輩!」
彼女は見つけるなり、そう言った。
「ふえーん。どこ行っていたんですかー」
そして、号泣しながら小窓さんに抱きつく。それは彼女たちの関係を一瞬でわからせるものだった。
「せんぱい、さつじんじけんがー」
それまで、何かキリッとした彼女しか見ていなかったので、その姿は、刑事とかではなく、単純に十代の女の子に見えた。小窓さんもさっきから泣いているし、とても微笑ましい。
しかし、泣きつく彼女とは対照的に、一瞬で、小窓さんは涙を止める。
「ええ、殺人事件のことは、もちろん知っています」
そして、毅然と答えた。彼女を振り払うように立ち上がり、ヒック、と言いながら水を飲み、一息ついて、もう一度、煤ヶ谷後輩に向く。
「殺人事件が起こったこと。犯人探しに貴方が出ていること、そして何の手がかりも得られていないことも知っています。この数日、貴方は何をやっていたのですか?」
その言葉は強く、空気を察してか、煤ヶ谷後輩も泣くのを止める。
「文字通り、私に泣きついているということですよ。警察失格だと思いませんか?」
「それは……」
と煤ヶ谷後輩は口ごもる。
「あの、小窓さん。煤ヶ谷後輩はずっと頑張って、聞き込みとかをしていまして」
と、少し酔っているからか、僕が口を挟んでしまう。すると、小窓さんは、煤ヶ谷後輩に向けていた、その強い視線を、僕にも送る。
「頑張る? 司様、そんな言葉は無意味ですわ。私は、役割を果たせと言っているのです。彼女は警察でありながら、何も手がかりすら見いだせず、探偵を頼ることしかできなかった。こんな警察に、私たちは安全を託せますか?」
「……それは、そうですけど。でも、殺人事件ですよ? そんな簡単に解けるものでもないでしょう。そして、小窓さんも、探偵なんでしょう。だったら、探偵らしく、っていったらあれですけど、殺人事件を解決するのに協力するというのは間違っていない気がしますけど」
僕の言葉に、小窓さんは冷たく首を振る。
「いいえ、司様、違いますわ。とことん違いますわ」
やはり、僕はまた間違ったことを言ってしまったようだった。
「司様、ではお訊かせください。探偵がいないと成立しない『警察』なんて、もはや警察とは呼べないとは思いませんか? そんなものが成立するのは探偵小説の中だけです。探偵がいなくても『警察』は、密室殺人事件を解かなければいけない。探偵がいなくても、連続殺人犯を最短で捕まえなければいけない、というか連続殺人など起こさせてはいけない。そうではありませんか? それは探偵が必要ないほどに。そして、探偵の仕事、ともおっしゃいましたが、今回のこれは別に『探偵』がやるような仕事じゃありませんわ。今回のこの事件、簡単すぎて、探偵が出るまでもないものなのですから」
「確かに、警察だけで全部が上手く回るのであればいいですけど……え? 探偵が出るまでもない、って言いましたか? それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。すでに殺人犯が誰なのか、気づいている人間は少なからずいますわ」
小窓さんはトーンを変えずに言う。
「ですが、こうして未だに解決できていないのは、単に『警察』が仕事をしないからです。探偵の仕事ではないくらいに明白なものを、わざわざ私は仕事として行いません。他の職業の職域を侵さない、それもここの大切なルールですから。その観点からすると、今回の件は、探偵が入ってはいけないものと考えています」
「……何か、さっきから、犯人は知っているような言い草ですけど」
「犯人を知っているかですって?」
と彼女はひどく意外そうに答えた。
「ええ、もちろん知っていますわ」
「え?」
当然驚く。しかし、この言葉に強く反応したのは、僕だけ。乙女屋や洋子さんはもちろん、煤ヶ谷後輩も、それは当然だと言った具合いに、表情すら変えてない。
「えっと、それは、事件を調べていたということですか?」
なので、僕は少し焦って、小窓さんに訊く。彼女は飲み酔いを覚ますようにもう一度水を飲み、首を振る。
「いいえ、特に。司様のリサーチで留守にしていてその事件については知りませんでした。その他は別の要件で外にいましたわ。それでも、簡単にわかるのですわ、こんな自明なことであれば」
「でも、だったら」
と煤ヶ谷後輩を見るが、彼女は罰が悪そうに黙るだけ。それは、当然、小窓さんが知っているのを知っていたような。
「だから、言っているでしょう。これは難解極まる殺人事件ではありません。あっというまに外の警察でも解けるもので、探偵の出番はありません。名前が書いてある落とし物を本人に届けるのは、警察の仕事であって探偵の仕事ではない、そうでしょう?」
「でも、仰るとおり犯人がわかってるなら、別に警察じゃなくてもーー」
「司」
と更につっかかる僕に声を掛けたのは、乙女屋だった。
「そうじゃないの。それは」
と僕をなだめるようにいった。
「司、それはやっぱり、ここに来たばかりの司には理解し難いかもしれないけど、そうじゃなければいけない理由があるの。聞いているかもしれないけど、ここでは他人のゴミだって善意で集めてはいけないの。ここは、そういうことなの」
「乙女屋、ごめん。意味がわからない」
「ええ、そうでしょうね。でも、他人の役割を取って代わろうとする、区別をつけない、このコミュニティではそういうのが致命傷になるの。『春の珍事』も、そうして起こったんだから」
「乙女屋ー」
僕が反応する前に、洋子さんが、割って入った。
それは何かを静止するように、すこしだけいつもの彼女の声からは違う、怒気のようなものがこもっている気がした。
乙女屋も洋子さんを向いて頷く。
「わかってるわよ、洋子。言うべきでないことは言わないわ。でも、ともかく、そういうことなの。いままで私も多少の暇はあったのに、事件解決には乗り出さなかった。そして何かをわかっても、私は黙っていたでしょう」
「黙っていた? どういう、意味?」
乙女屋も頷きもしない。
「実は司、私もその事件の犯人が誰なのかは、わかっているわ」
「……?」
とその言葉に、僕の混乱は極まる。眠くなるくらいに。
乙女屋は、たぶん、言った。
例の事件の犯人が分かっていると。
「……小窓さんから、教えてもらったの?」
「いいえ、そんな真似はしないわ、自分で気づいたのよ」
「……でも、乙女屋は僕とずっと一緒にいたし」
「ええ、そうね。ずっと一緒にいたわね。片時も離れていないいわね。でも、それでもわかるのよ。今回の殺人事件の犯人くらいはね」
言っている意味がわからない。
意味が。
不明だ。
乙女屋と僕とは、本当にずっと一緒にいた。
毎日。ずっと。殺人事件を知ったときから。知ったタイミングも同時だった。
僕らは、ただ一緒にゲームをして過ごしていた。
ほとんどの時間を一緒に過ごし、同じ時間に食事をし、同じところへ行き、同じ時間に眠り、起き、同じものを見聞きしてきた。
それでも、僕は犯人を知らない。
乙女屋は、犯人を知っているという。
――天才。
彼女がいつも自分で言っている言葉が、頭をよぎる。しかし、
「別に私が天才だからってわけじゃないわ」
乙女屋は自ら言う。
「そういうわけじゃないの。ただ、司は、まだ、ここに慣れていないだけ。司は自分を攻める必要はないわ」
それは優しい言葉だった。しかし、今までの辛辣な言葉より、厳しい言葉に僕には聞こえた。明確な、慰めの言葉だった。
プライドの高い人間のつもりはなかったけれど、酷く劣等感を覚えてしまう。
「でも司、一つだけ教えるわ」
と呆然とする僕に乙女屋は続けて言った。
「司。実はね、私は殺されるようなの」
それは、確定事項のように僕に告げられた。
「……どういう、こと?」
僕の頭は全く情報の処理が追いついていない。
あまりに非現実的な響きに、普通に訊いてしまう。
「これも、そのままの意味よ。私もどうやらこのままでは殺されるようなの」
「……」
「まあ、意味は定かではないわ。でも、そうやって人は死ぬのよ。司もよく知っているでしょう? 人って、本当に意味も時期も曖昧に、それは突然に、死んでいくの」
「……」
「信じられないかもしれないけれど、でも、人の死ってそういうものなの」
「……」
「でも、司は何もしてはいけないわ。だって、司は探偵でもなければ警察でもないし、なんの役割も持っていないのだもの」
言って、乙女屋は少しだけ表情を崩す。
「そして、私は司に犯人を教えることはしないわ。私は、教師ではないのだから」
教師ではない。
何度も聞いた言葉。
じゃあ、僕はどうすればいいのか、そんな質問が頭によぎる。しかし、それを口に出すこと自体が、僕が何も学んでいない証拠でしかないし、彼女はやはり教師ではないのだ。
ふむ、と乙女屋は顎に手を当てて考える仕草をする。
「そうね。そういえば、司は私の友達だったわね」
と彼女は僕に、イタズラっぽく言う。
「だから、司にそれをする義務はないけれど。でも、お願いしてみようかしら。私を、助けてくれるかしら」
なるほど。
全てが腑に落ちた。
先ほど、僕に友達が役割ではない、そう言った理由は、そういうことだったのだ。
「うん。わかった」
なので、僕は答える。彼女の友人として。
「司は友達思いなのね。ついでに、煤ヶ谷、貴方も警察らしく、犯人を見つけなさい。さて、というわけで、二人で私を助けてちょうだい」
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