第2話 夜に飛ぶ蝶は蛾と呼ばれます。
ラブントゥール ルール2
夜に飛ぶ蝶は蛾と呼ばれます。
○
次の日、朝目覚めた僕は、いつもとは違う景色に驚く。
見慣れない色の壁、天井、そして聞き慣れない寝息。隣に少女が寝ている。上品なベッドの上で寝ている彼女は、起きている時に僕を不審そうに見つめる彼女と違い、どこかの国のお姫様だと言われても疑わない。
僕は起きていく頭を実感する。昨日、ここへ越してきて、今日からここでの新生活が始まるのだった。そして僕は今、この眼の前の彼女に、幸いにも必要だとみなされ、送り返されなかった目覚まし時計で目覚めたのだった。
時刻は六時。
僕は一瞬、目の前の彼女を起こすべきかどうか迷う。
スヤスヤと寝息を立てて、彼女の枕元には目覚まし時計も確認できない。学校へ行くのであれば、そろそろ起きても良い時間だろうと思うのだけど。
というより、あれだけ僕への印象の悪さを語っておいて、この無防備さは何なのだろう。高い塀で厳重に囲まれているのに門が開け放たれている、まるでこの場所のようだ。昨日も深夜遅くまでなぞなぞに付き合わされたし。
「……あの、起きなくてもいいの?」
僕は小声で彼女に語りかける。
女性を起こすという行為が初めてなので非常にぎこちない。
「……あと五分だけ」
むにゃむにゃと、ベタな事を言う彼女。
「じゃあ、僕は先に洋子さんの店に行って、朝ご飯食べとくからね」
一応アリバイ作りのように言って、僕が先に寝室を出ようとすると、
「待ちなさい」
背中に明瞭な声をかけられる。明らかに怒気のこもった声だった。
「何処かへ行くときは、私の了承を取ってから、と言わなかったかしら」
振り向くと、さっきまで可愛い寝顔で寝ていた少女ではなく、昨日の夜なぞなぞを得意げに出し、答えられると非常に不機嫌になっていた彼女がそこにいた。
「……おはよう」
スッキリ目を覚ましたようだった。
「貴方、私が起きた時に貴方がいなくて、オドオドする私を想像してにやけたのでしょう? 貴方ってアレよね。暗所恐怖症の人間に、真っ暗じゃないと眠れない派なんだ、って言って自分勝手に部屋の電気を消すような人間よね。そして暗闇の中でほくそ笑むような男よね」
僕らはそんな会話をしながら二人で洋子さんの店に行き、朝食を食べる。昨日の夜とは違い、カフェはそこそこの人で賑わっていた。
「これ、全部生徒?」
僕は乙女屋に訊く。
「そういうことになるわね。でも私たちの学年ではないわ。洋子の店は朝早くから開いていて、メチャクチャに美味しいけれど二年生地区、絶対行きたくない二年生地区だけど美味しい、ということで度胸試しも込めて、他学年の地区からここへモーニングを食べに来るの。まあ立地的にはそう遠くないし、夜は来れないしね。好意的に言って、隠れ家的なお店ということね。私たちは二年生だからという理由で遠くもなく美味しいモーニングを並ばずに食べられることを感謝するべきね」
牛乳を優雅に飲む彼女。大変なのは洋子さんで、どうやら彼女はここを一人で切り盛りしているようで、せわしなくトレイに料理を載せて走り回っている。
僕らは昨日座っていた席に座っている。何か、不自然なほどに馴染みのある彼女との向かいあわせ。ほとんど視線を外そうとしない彼女と見つめ合うのにも慣れてきた。
「ところで、今日は何をするのかしら?」
彼女は僕に訊く。
「何をするって?」
「貴方、転校初日から無計画なのかしら?」
「……無計画というより、えっと学校があるんじゃ? それとも、今日は、学校は休み?」
僕の言葉に、露骨に眉をしかめる彼女。
「また貴方の印象が悪くなりかけたけど——そうね、いままで普通の学校に行っていたんだったわね。外だったら毎日学校へ行くのは普通だものね。仕方ないと納得するわ。でも、ここはそうじゃないのよ。別に授業への出席は義務付けられていないから、行く必要はないわ」
「……ん? 行かなくていい? どういう意味?」
「そのままの意味よ。学校に行く必要はないわ」
「学校にいく必要がないって。だって、ここは、学校じゃ」
「そうね。少し驚くかもしれないわね。でもここで毎日学校へ行くのは行くのは『教師』位なものよ。殆どの生徒は高校の勉強なんてとうに終わっているし、行った所で別に教わることはないもの」
「……ということは、乙女屋は行かないってこと?」
「もちろん、私は行かないわ。というか、大抵の人間は行かないわよ」
ちょうど僕のホットサンドと乙女屋のシーザーサラダを洋子さんが持ってくる。
「あの、洋子さん、今日学校は?」
「ん、行かないよー。私、店あるしー」
と皿を置いて、忙がしーと言いながら去っていく。
「ということよ」
「えっと、じゃあ、ここにいる人達は、毎日学校へ行かないで——何をするの?」
「もちろん仕事よ」
「仕事?」
「ええ、仕事。というか、いい加減察しが悪いわ。昨日ここの全容が見えたでしょう? その時点で気づいて欲しかったわ。それに今いる場所でもすぐにわかるわ。ここは洋子の店なのよ? 彼女しかいないのに、彼女はアルバイトだとでも思ったのかしら? ここにいる客も、全員これから仕事なのよ」
「……」
改めて周りを見渡す。
そういえば、私服の中に、なにかスーツを着ていたり作業着を着ている人間も混じっている。まるで、これから出勤と言わんばかりに。
「ここ、学校だよね?」
と、僕はもう一度訊いてしまう。
「そうよ」
「彼らは、みんな同い年ぐらいだよね?」
「ええ、貴方の一年先輩か一年後輩ね。飛び級がないからほとんど同じ年と言えるわね」
「でも、みんな、学校へ行かず、仕事をしてるってこと?」
「そうよ。当たり前じゃない」
「……当たり前じゃないって」
「何か、腑に落ちないようね」
「……そりゃ、普通、そうだと思うけど」
「貴方、本当にアレなのね。とても凝り固まった価値観——というより、偏見で貴方という人間は構成されているのね」
彼女はなぞなぞの本を取り出しながら、僕に言った。
「ちなみに、ここには『学生』なんて職業はないわ。それは、ただの状態だもの」
知的に、なぞなぞの本を開きながら彼女は言った。
「状態?」
「ええ、貴方、何かの書類の職業欄に『学生』って書いたことないかしら? そして、それに違和感を覚えたことは? 学生って職業なのか、って一瞬でも思った事ないかしら?」
何か思ったことのあるような、ないような話だった。彼女は続ける。
「そうよ、別に『学生』は職業ではないわ。学ぶことは特別なことじゃないし、学ぶのは生き物の宿命だもの。では、学校へ行く意味って、何だと思うかしら」
と彼女は訊く。
「そりゃ、勉強を……」
そこまで聞いて、彼女は大きくため息をつく。それは彼女が完全に予期していた最悪の回答だったらしい。
そして、これ以上の無駄なやり取りは無駄だと思ったのか、その後、一息に彼女は言った。
「勉強ったって、別に学校へ行っても教師がいるだけで、教科書にあることを話すだけじゃない。それは貴方にとって勉強になるのかしら? そんな授業を受けに行くのが学校に行く理由なのかしら? 例えばこの国の受験システムを考えてご覧なさい。試験一発勝負、試験でいい点数を取ればいいだけ。別に学校に行く必要なんて無いじゃない。それに、勉強なんて家やカフェや図書館ででもやればいいじゃない。そこに、教師なんて教科書に書いてあることをリピートする存在が必要なのかしら? 否よ。必要が無いわ。それに、そんなに勉強がしたいなら『学者』にでもなったほうが早いわ。それはもちろん職業としてよ。今すぐにでもなれるわ。それで自分で研究でもすればいいでしょう。いずれにせよ学校に出席するという行為は意味が無いわ。学校へ行く必要なんて、どこにもない」
僕と言う人間が、世の中の一般常識と呼ばれるような偏見で構成されているのを認めたうえでも、暴論、というべき話だったと思う。
「それでも、学校っていうのは……」
「仕事をしたほうが、効率がいいわ」
○
ラブントゥールは、世界一の高校である。それは世界中で当たり前のように、時に常識として語られることも多い。しかし、何が世界一なのか、あるいは自分がどうしてそう思っているかすら、ほとんどの人間は何も答えることはできない。だって、それがなんなのかすら知らないから。
ラブントゥールは、世界一の高校である。それは、三ツ星が最高とされているのに、一つだけ星が五つ付いているレストランを見て、おお、一番なんだろうな、という感覚に似る。では、その感覚がどこから来るかというと、これはシンプルに、ラブントゥール高校を卒業すれば、フガーケス大学に入学することができて、そして更にそこを卒業すれば、エヘウ機関に入ることができるから、ということに他ならない。
エヘウ機関について。この三つの中で最も有名な組織。機関と言っても、世界的に最も閉ざされた国の域内にある、更に閉ざされた小国のような形を取っている研究機関——と言われている。それが本当に研究機関のような体を成しているのかも、その秘匿性の高さから定かではない。人差し指が欠けた手をシンボルとし、国の外からでも見える巨大な岩のオブジェがあるが、表向きわかっていることはそれだけで、二百年間、その小国も見えているはずのそのオブジェを無視し存在を認めていない、そんな正真正銘の秘密組織である。
秘密と言っても、その存在は明らかで、昔から幾つもの潜入映像のようなものも出回っており、その実態は周知となっている。僕が子供の時も、そんな映像の一つを見たことを覚えている。その中で、一番印象に残っているのは、何かチューブの中にカプセルのような車が高速で走っており、妙に座薬を思い出したこと、そして、とにかく建物も乗り物も全てが流線形で、道路も溶かした飴をのばしているようだったこと。僕らの世界では、細長いカプセルのような車輪のない車を走らせることが無理なので、完全に別世界の進んだ国だな、と具体性を欠いた感想を持った記憶があること。
今回、ここに来るにあたって、もう少し詳細に調べてみると、そこは、外部のエネルギーを使用していないことから、ZECを実現しており、常温核融合も実用化し、太陽発電は効率が悪いから僕らが使っている性能の五倍の太陽パネルを廃棄して、その廃棄品を僕らはありがたがって使っていること、量子コンピューターなども当たり前で、量子センシングや量子通信なども五十年前には当たり前に使われているなど、圧倒的な技術力をもった国ということだった。他にも例を挙げればキリがないが、科学技術だけみても、ざっと、外とは百年位の差、という人もいる。
しかし、僕が子供の頃見た映像も含めて、おそらくそれらの情報は意図的にばら撒かれたり、秘匿されたり、明らかに漏洩でないものがあったりと、少し成長した今の僕が見ても、やっぱりわからないという結論だ。
話を順に戻していくけれど、そんな、エヘウと外の世界と百年の技術的な隔絶があったとして、その百年の差がどこから生み出されているかといえば、エヘウにいる人間は、元はフガーケス大学出身であるということになる。
フガーケス大学というのは、嘘くさいくらいに世界最高の研究実績を持つ大学であり、その研究の質は他の世界中の大学を足してもまだ足りないくらいであり、しかも研究は外部公表していないものがほとんどで、自己完結しているような教育機関ということだ。で、例によってそこはやはり閉ざされており、もう、一つの国のようになっている。エヘウも国なら、フガーケスも国で、両方が研究機関でもあり、外からは上手く区別ができてもいない。謎に包まれすぎていて、以下同文みたいな話が繰り返される。
そして、そんなすごいフガーケス大学の人間は、あれ、戻って来た、そういうことである、ラブントゥール出身であるということなのだ。エヘウ機関の人間は、すべてフガーケス大学を出ており、そしてフガーケス出身者は、すべてラブントゥールを出ており、そのためラブントゥールは帰納法的に高校と呼ばれている。そして、ラブントゥールは世界一の高校と呼ばれるに至る。
もちろん高校と自称しているわけではないが、高校と類似している点としては、15歳の人間が集められると言うこと。そして、フガーケスが一応外向きは大学を名乗っていることから、他に呼びようもないので、完全に抽象的な意味を孕んだその場所は、ラブントゥール高校という名前で外部では知られている。
ただ、神童と呼ばれた人間を吸収して、その後彼らは家にも帰ってこないことで有名で、ここから既にエヘウの秘密主義も始まっていると言っても良い。たまに神童現る、みたいな話を聞くと、あら、ラブントゥールに呼ばれるかもしれないね、のような言葉は世界中にことわざのような形で存在する。もちろん、それを言われて、縁起が悪いからやめて、というような親も当然いる。子供を殺して隠すことをラブントゥール、という地域もあったりもするとかだ。
「天国へ行った人間は帰ってこない」
神童と呼ばれた子が、神隠しにあったように、手元から消える。
それが、昨日通った、あの門の入り口だったということになる。
先程聞いたら、やはりいつでもあそこから出られる、という拍子抜け具合で、若干印象は異なるけど、そういうことらしい。僕の荷物がここに届いたのが、今一番驚いていることだ。
「でも出席しなくていいって、じゃあテストとかはどうするの?」
他の生徒が各自仕事に赴いて行った後、僕はまだラブントゥールの生徒と会話を続けていた。
「テスト?」
「ほら、中間テストとか、期末テストとか」
「そんなものないわ。なんのための試験なのかしら? 試験なんて、ここに入るときにも受けていないもの。貴方は受けたのかしら?」
「……受けてないけど」
「そうでしょう。それに、試験なんて、次へのステップに受けるものでしょう? ここは内部進学制度があるから、それは気にしなくていいわ。それに、仕事を持てば、その先に試験なんて必要ないわ」
「それは、そうかもしれないけど……と言うことは、もう一度確認するけど、ここにいる生徒たちは、学校には行かず、基本的にはずっと仕事をしているってこと?」
「そうよ」
彼女は頷きもしないで即答する。もう飽きて、昨日より難しいなぞなぞを出す準備をしている。
「まあ、学校は存在しているし、仕事の休みを利用して通ってる奇特な子もいるけど、勉強だけしている人間なんて聞いたことがないわ」
「……じゃあ、このラブントゥールには、試験もなく、出席もしなくてもよく、だから、みんな仕事をするということ?」
「ええ、馬鹿みたいにまとめるとそういうことね」
「……なるほど」
「間違えたわ。馬鹿がまとめるとそういうことね」
「……」
何か、理解の範囲を超えているが、変に納得もできる。ここが街になっているのも、そういう理由らしかった。
「ちなみに、乙女屋も仕事をやっているの?」
僕は未だに優雅に牛乳を飲む彼女に訊く。
「ええ、もちろんじゃない。私はここの住人なのだから。私の職業は『天才』よ」
「……天才?」
「ええ、天才といってもアレよ、別名砂糖大根とも呼ばれているあの野菜のテンサイではないわよ?」
「そっちは考えもしてないけど。天才? えっと、それって——職業なの?」
「ええ、もちろん」
自信を持って言う彼女。
「じゃあ、例えば、今日は何するの?」
「私は、これをやるつもりよ」
と、やはりなぞなぞの本を持って言う。
「それって、仕事じゃないんじゃ」
「何?」
「いや、なんでも……でも、なぞなぞをひとりでやるの?」
「馬鹿言わないで。こんなもの一人でやるものではないわ。だから、さっきから聞いているのよ。貴方は何をするつもりなのかって」
そして、話は最初に戻った。
「僕は——」
僕は、首をひねる。
「なぞなぞが嫌だったら、こんな薬があったら欲しいね、みたいな話でも良いわよ? 私は透明人間になれる薬がいいわ」
「……」
学校へ行こう。
このままだと僕は転校早々、目の前の彼女と一日中なぞなぞ等をやって過ごすことになる。
「まあ、一度くらい見に行ってもいいと思うわ。私は学校なんかに行って時間を無駄にしたくないから行かないけど。だから貴方一人で行ってちょうだい」
好都合だった。
学校はここの真ん中にある、ギロチンの近く、突き当たって川沿いに行けば着く、というざっくりとした説明を受け、僕は学校へ行くことにした。乙女屋は、僕に苦言を呈し続けたが、見送る際に言った。
「教師には気をつけなさい。私は『教師』という職業の人間が大嫌いなの。人にものを教えたいという志を持った人間に、何一つ教わりたくわないわ。偉そうだものね、教師は」
◯
ラブントゥールの中にある学校、とは学校の中の学校、と言うすでに矛盾した響きがしなくもないが、そんな瑣末な問題は、すでに僕の中では全く大した問題ではなくなってきている。
すり鉢状になっているここの傾斜を、言われた通り、川に着き当たるまで真っ直ぐに下り、そこから左に川沿いに歩いていけば、行って帰って来れるでしょう、という言いつけ通りに歩く。通学路はとても静かで、川にも空き缶などが捨ててあることもない。車も走っていない。やはり日が昇っているうちに見ても、洋風の田舎町、と言った風情で、昨日とは違い明るい場所で見れば、牧歌的とも呼べるような作りだった。向こうには畑も見えるし、牛や豚の姿も見えたりしている。空は開けていて、そしてまた空を飛ぶ車も走ってもいない。未来都市とは程遠い。車もないのかもしれない——いや、今横を軽トラが走って行った。同じ年頃の農家のような格好をした人間が運転している。
中心部に近づくにつれ、人の気配が多くなっていく。僕がいる二年生地区側には相変わらず人はいないが、川の向こうの一年生地区と呼ばれるところには、登校しているであろう人間の姿が見えはじめる。
一人で二年性地区側を歩いていると、何人かに指をさされている気もしたので、僕は点々とある、いくつかある小さな橋を使って川をわたって彼らに合流し、一年生地区から歩くことにした。
その学校は、彼女の言う通り、街の中心付近にあった。
その建物は、そこそこ大きく、そこそこきちんとしている。本当に、そこそこの地方の公立高校のような佇まいだ。そこそこ。文字通り、若干日本の学校風の三階建てのコンクリの建物であったからで、学校だけが別世界にワープしたあのマンガを思い出す。なにかこの国の高校ってこんな感じでしょ、みたいな投げやり感も感じる。これが世界一の高校のキャンパス、と言われて驚かない人間がいるだろうか。この街の他の箇所と比べても完成度が圧倒的に低いように思える。
その建物に、吸い込まれるように、僕と同じくらいの年齢の人間が入っていく。談笑しながら入っていく人間は人種も服装もバラバラで、実に国際色豊かだ。若干、アジア人が多めに見えるのは地理的な関係なのかもしれない、と僕は思う。もしかしたら、世界の他の場所にも同じようにラブントゥールが存在している可能性も示唆している。そういえば、乙女屋を始め、僕はこの国の人間とばかり会っているし日本語しか話していない。そして、僕が彼らに一番驚いたのは、全員信じられないほど流暢な発音で、この国の言葉で会話をしていることだった。もしかしたら、共有語として日本語の使用という規則があるのかもしれないし、ここの国の言葉だから、そういうことだけで彼らはこの国の言語を習得したのかもしれない。
学校に通うのはとびきり愚鈍な奴らよ、乙女屋は吐き捨てるようにそういったが、この時点で、彼らは間違いなく優秀な人間なのだろう。僕は完全に場違いだなと思いながらも、その一人を装い校舎へと入る。
階段の踊り場から、昨日のギロチンを窓の外に見つける。昨日は暗くて気づかなかったが、僕は、ここまで歩いてきていたらしい。
改めて、処刑台。
それはさっき乙女屋も言っていたように、学校の直ぐ隣にあった。隣というか、学校の校庭のグラウンドとしても使われているであろう場所、その中央付近にあった。周りを体育会系の部活なのだろうか、普通にジャージ姿でランニングをしている集団もいる。部活の朝練か何かだろうか。
「……」
そんな異世界を視界から外し、僕は転校の準備に移る。
転校生が、処刑台のことを気にしている暇はない。いや、おかしいことはもちろんだけど、今、全ての疑問を解決している暇はない。完全に感覚がおかしくなっているのも承知だけど、僕はとりあえず転校生としての挨拶の準備などをしないといけない。何度か天候はしたことがあるけど、この瞬間は、何度やってもドキドキなのだ。
校舎は、一階には一年1組から11組とかいた室名札が並び、一応三階も確認したが同様の作りで三年11組まで札はあったが、9組以降は使われていないようだった。そして二階には「二年1組」とかいた札が一つだけ。自分のクラスがどこなのか迷わなくていいが『春の珍事』その言葉が思い出される。
最初に、教室をドアについている小さな窓から覗くと、机や椅子は設置されているものの、生徒がいるべき椅子には誰も座っておらず、一人の女の子が、黒板の前に立っているだけだった。彼女は、僕をドア越しに見つけ、目を合わせ
「おはようございます」
ドア越しでも聞こえるまっすぐな声で言った。僕は、咄嗟にドアを開ける。
「お、おはよう。あの、僕、今日からこのクラスに転向してきた羽井戸というんだけど」
「ええ、知っています」
僕の転校生らしい緊張した言葉に彼女は冷静に返した。彼女はスーツを着ている。年は恐らく同い年くらいで背は小さい——教室にいるということはクラスメートなのだろう。しかし、そのスーツを除いても、何か高圧的なものを感じるような視線を僕に投げかける。
「……えっと、あの、他のクラスメートは?」
「来ていません」
彼女はそっけなく応える。
「じゃあ、まだ僕らだけなんだ」
と、僕は教室に足を踏み入れる。教室も取ってつけたような教室。あるものは無機質な机と椅子、それから黒板くらいのものだった。ここに来て初めて馴染みのあるものでもあり、多少安心して僕がどこに座るべきか思案していると、
「そうですね、貴方だけのようですね」
彼女は言う。
「……ん? 僕だけ。えっと、君は」
「私は、このクラスの担任教師です」
「……?」
眼前に立つのは、どう見ても同い年くらいの女の子。見ようによっては年下にも見える。
「君が、先生?」
「ええ、私はこのクラスの教師、一年の翳合といいます」
「……一年」
やはり、同い年くらい、と言うか後輩。そして飛び級のないと聞いているここでは、年下。
年下の、教師。
「そうです。もう誰かから聞いていると思いますが、この学園では皆が仕事を持っているのです。そして私の職業が『教師』ということです。さて、それでは出席を取ります。イノアさん、乙女屋さん、サバックさん——」
誰もいない教室で鳴り響く出席の点呼。
僕は教室の後ろで呆然と立ち尽くす。
「さて」
と恐らく出席をとり終わったのだろう。言った後に、
「こちらへ来てください」
と、僕は呼ばれるままに、教壇の横に立たされる。
「こちらが今日から皆さんと一緒に学ぶことになった、羽井戸君です。皆さん、仲良くしてくださいね。さて、羽井戸君、羽井戸君から皆さんに何かここで言っておくことはありますか?」
「……」
僕の眼前に広がるのは無人の教室。皆さん、がいない。
「……特に、今話すべきことはないですね」
なので、用意してきた挨拶は使わないことにした。
「そうですか、では席に座ってください」
「……あの、僕はどこに座れば?」
「羽井戸君の席は、辰巳さんの隣になりますから、窓側の後ろから二番目の席になります」
良い席だ。洋子さんの隣だ。しかし、どこに座っても良い。誰もいない。
「さあ、朝のホームルームが始まるので、早く座ってください」
僕はやはり言われるがままに自分の席に座る。
「さて、では、来月に迫った文化祭の出し物を募ったのですが、その時誰もいませんでしたので、案が出ませんでした。何か、案のある方いらっしゃるでしょうか」
「……」
彼女は必然僕を見る。
「例えば羽井戸君、転校してきたばかりで萎縮するかもしれませんが、文化祭で、何をやりたいとかあるでしょうか?」
「……お化け屋敷とか、ですかね?」
「なるほど、いい案ですね。他に、どなたかありますか?」
「……」
「他に案が出なかったので、私たちのクラスはお化け屋敷をやることになりました」
彼女の拍手。
チャイムが鳴る。
彼女は国語の教科書を取り出す。
「では、教科書を開いてください。昨日までの復習ですが——」
うん、うん、と僕は確認するように二度ほど頷いてから、
「ちょっと待ってください」
と、ここで右手を上げて言った。
結構長いノリツッコミだった。ボケとツッコミしかいない空間なので、もっと早くするべきだった。
「何ですか?」
「何って、おかしいでしょう」
「なにがでしょうか?」
「まず、君は一年で、僕の、このクラスの人たちの後輩に当たるわけだよね?」
「私はあなた達の教師ですよ。先生と呼んでください」
強い口調で制される。昨日は乙女屋に同級生だからと敬語を使うなと言われ、今は年下に敬語を使えと言われる。
「……先生は、さっき自分のことを一年生だ、と言いましたよね?」
敬語で話してしまう。何か教師、と言われてしまっているので反射的にそうなってしまう。
「はい、私は学年で言えば一年生、ここの生徒です。羽井戸君の後輩に当たります」
「……後輩に当たりますって、なぜ後輩が僕のクラスの授業をしてるんですか?」
「それは私はこのクラスの『教師』ですから、当然です」
この二人きりの空間で当然ですと言い切られると、切り返しに困る。
「じゃあ、先生は、一年の自分のクラスで授業を受けたりとかはしないんですか?」
「もちろん私のクラスもありますが、幸い、この学校では授業への出席は義務付けられていませんから、生徒をしながらでも、こうして教師ができるというわけです」
「できるわけですって。と言うか、生徒が先生をやっていることが問題というか……なんというか」
どう言って良いのかわからない。
「私は大学で既に学位を取って教員免許も持っています。何も問題はないと思われますが?」
「……」
大学で学位を。
それは流石に、この学校の生徒、いや『先生』というべきなのだろうか。
「それに、教師は他のクラスでも同様に生徒がやっています。このクラスだけではないです。というか、この学校には生徒しかいませんからそうならざるを得ません」
「……この学校、いえ、ラブントゥールには、生徒しかいない?」
「ええ、そうです。このラブントゥールにいるのは、生徒だけです。基本は、一学年四百五十人人×三学年の生徒がいるだけです」
「ということは、その人数で、この街は、全て生徒で運営されているということですか?」
「もちろんそういうことです。ですから、皆が仕事をして、私は今もこうして教師をしているというわけです」
「……でも、例えば誰も生徒が来ていない時とか、今日なんか、僕がいなかったら誰もクラスに居ないわけですよね? そういう時は、先生は何をしているんですか?」
「通常通り授業をします。私は教師ですから」
教師ですから。
何度もこのセリフを言う彼女。
ということは、僕がいなくても、さっきやっていたように生徒がいる体でやる、ということか。それは、普通では無いとしか言いようもない。
「以前に、何故僕以外、誰もクラスメートが誰もいないんでしょうか? 他の学年では結構いた気がするんですけど」
「ええ、先程も言いましたように、ここでは授業の出席は義務付けられていませんから、こういう時もあります。しかし、一年生と三年生はもともと人数も二年生とは比較できないほどいますし、出席率は二年生ほど低くはありません」
「その二年生が少ない理由は、例の『春の珍事』とかいうのでいなくなったからですか?」
「羽井戸君、先程から授業から著しく逸脱した質問が続いていますが、それは今授業中に訊くことでしょうか?」
「それはそうですけど、僕にはわからないことが多くて。えっと、先生なんでしょう? 先生は、生徒の質問に答えるのも、仕事なのではないですか?」
「……先生。仕事」
彼女は、僕の言葉に、恍惚とした表情をうかべた。
「そうですね! 私は、教師。生徒の質問に応えるのが仕事ですね!」
そして一転、とてもはつらつと言った。
「では、答えておきましょう。二年生は、いわゆる『春の珍事』のせいで、極端に数を減らしてしまいました。『春の珍事』で現二年生の大部分は亡くなり、そして残った生徒もそれのせいで心にトラウマを抱え、登校拒否気味になってしまいました。だからクラスにはあまり人がいないのです!」
「……」
「もう質問はないですか? であれば、私は教師として、授業を開始したいのですけれど」
「待ってください」
「なんでしょう?」
「……亡くなった? その、春の珍事で、ですか?」
僕の精一杯のシリアスな質問とは裏腹に、彼女の顔は生徒からの質問に嬉しそうに輝く。
「その通りです。当時の記録はほとんど図書館でも機密情報扱いされていますので、私も公開情報しか知りませんが、確か現二年生の九割は亡くなったと図書館に記録されています」
「…………冗談、ですよね?」
「いいえ、私は教師ですよ。生徒の質問に嘘は教えません」
それは、今回に限り説得力がある回答だった。
「死んだ。事故か何かで、ですか?」
僕は訊く。
「いえ、生徒同士の紛争だと聞いています」
「紛争?」
「ええ、いわゆる、生徒同士の殺し合いです。私は一年ですからその春の珍事が起こった時にはここにいませんでしたので、詳しいことは知りません。ですが、現存する二年性の数からも、それは周知の事実として語られています」
「……」
冗談ですよね、と聞くまでもなく彼女は教師だった。
僕は、席を立つ。
「どこへ行くのですか? 授業中ですよ?」
そうして、嬉し恥ずかしの転校初日のアレコレなどはなく、僕は初日から早退という、本来の趣旨からは逸脱した形で、転校初日を終えることとなった。
○
「ということは、私たちの文化祭の出し物は、お化け屋敷になったのね。私は何にしようかしら。天才山姥にしようかしら」
「私はヤバいモノ出し出しシェフにしよー。楽しみー。ハネ君は何にするー?」
僕らは洋子さんの店で、テーブルを囲み、お茶を飲んでいた。
昼下がり。他の客もおらず、落ち着いた雰囲気で、空気は和み切っていた。
「そうじゃない。そんなことはどうだっていいんですよ、洋子さん!」
しかし、僕だけは違った。
さっきからギャーギャー言っていた。
「どうでもよくないわ。文化祭は一大イベントじゃない。貴方、前の学校でどんな教育を受けたのかしら? そういう行事を楽しめない様な、そんな境遇でいたのかしら?」
「そうだよー、ハネ君、文化祭は大切だよ、青春だよー」
「違う、そうじゃなくて、僕が言っているのは『春の珍事』のことだよ」
学校へ行くよりも多くのクラスメートに会えるカフェで、僕は先程から質問を繰り返していた。
「だから、何度も同じ事を言わせないで。転校初日からうるさいわね。もしかして二日目からもうるさいのかしら。だから、それはその通りよ。『春の珍事』で大多数の二年生は死んだわ。私たちの担任教師からも聞いたのでしょう? その通りよ、みんな死んだわ。私たちの家の隣人も隣人もその隣人もね。その隣は洋子で、ここにいるわ」
「だから、なんで学校で人が死ぬんだよ!」
「人はいつか死ぬのよ」
「二年の九割って、四百人とかでしょ? なんで学校でそんな多くの人間が死んだんだよ。そんな事件聞いたこともないし」
「貴方が知らないなんて、そんなことは私も知らないわ。それに、知らないことを偉そうに言わないで。無知であることを誇るなんて、貴方自称学生じゃないの? でも、ここでは大きなニュースになったわよ。新聞には毎日それしか載っていなかったし、ラジオでも流れっぱなしだったわ」
「だから、それはここで生徒がやってる新聞とラジオでしょ。そうじゃなくて、僕が言ってるのは、なんでそんなに大勢の人が死んでるのに、外にそんな情報が一切出ていないのかってことだよ」
「だから知らないわよ。私たちは中にいたのだから」
「……中にって」
「ここは一つの街で、ここで世界は完結してるのよ。あの塀を見ていないのかしら? ここは外とは隔絶されているの。生徒だけで運営している街だって聞かなかったかしら? 電話やらインターネットもないし、情報も入ってこないし出て行かないの。本当に、ここだけで終わってるのよ」
「でも、漏れないようにはしてたんじゃないかな? 外からもなんにも言われてないしー」
と洋子さんが口を挟む。
「そうね。情報操作は大人の最も得意とするところだからその可能性は大いにあるわ。確か裁判でも、全ては秘守にすると言っていたし。まあ、ラブントゥールの神隠し、とかって貴方聞いたことがない? ここに入った子供で、出てこない子もいるって。それも色々な理由で出てこないということよ。端的に言うと、秘密主義なのよ。貴方もこのラブントゥールの場所を知らなかったのでしょう? それと同じよ。情報が外に漏れないようにしていたんでしょうね。普通になんのひねりもなく考えてね。そうでしょう?」
「……」
ホットミルクをすする乙女屋。
コーヒーなどを飲むと、カフェインの効果か三日三晩眠れなくなるそうだ。昨日聞いた話だ。
さっきから、僕が一人で熱くなっている。
「……じゃあ、生徒同士が殺しあって、二年生が大部分死にました。それでも学校は変わらず続いています。そういうことなんだね?」
「ええ。この二年生地区でソレはあったの。市街戦ね。あちらこちらに死体が積み重なっていたわ。正確に言えば、九割の当時一年生は死んで、生き残った一割のうちの半分はここを出て行って、残っているのが私達二十人程度ということよ。ついでに言うと、当時の三年生も五割死んだわ。二年は幸運にも9割は修学旅行に行っていて、エッセンシャルワーカーとして抜けられない仕事がある人間以外は外出していて難を逃れたけどね。まあ、いた人間はほとんど死んだけど。ということで、当時の三年は卒業したし、私達の学年だけが少ないということで、アメフトが弱い。それだけよ」
「うん、すごかったんだよー。私の洋服とかもほとんど血でよごれちゃってー」
「それは洋子が一騒動あるたびに着替えたからでしょ? 排血症のメリー」
「ちょっと、その名前で呼ばないでって言ったでしょー」
ぽかぽかと乙女屋を殴る仕草をする昼下がりの女子高生。
二人の和やかさは崩れない。
「……なんで、そんなに落ち着いていられるんだよ」
僕は頭を抱える。
「だから、さっきから言ってるでしょう——終わったからよ。もう一年も前のことよ。終わっているのだから、今更焦っても仕方ないわ」
「……本当に、ここは一体なんなんだ」
僕は嘆息して、呟く。
「そうね、それは、私が『貴方は一体誰かしら』という疑問と同じくらい、クリティカルな疑問ね」
と乙女屋は淡白に僕に言った。
「……え?」
「貴方は、何かしら?」
「何って……」
「貴方はイレギュラーな転校生、いつの間にかクラス名簿に一人名前が増えたクラスメート。それって、貴方が思っている以上に不思議なのよ? 前にも言ったけれど、ここは転校生なんて聞いたことがないし。怪しいわ。何故なのかしら?」
「……それは、昨日も言ったけど、僕は、知らない」
「そうね、知らない。貴方も知らない。誰も知らない。怖いわね」
彼女は、少し嘲るような口調で言った。
「警戒に値するわよね。人員を補充するにも私達二年生は減りすぎているし、貴方一人いたところでなにかが変わるとは思えない——というより絶対に変わらないわ。それ以前に、もう二年生は諦められている節があるから、大人達が何かを私たちにこれからしてくるとも思えない。だから、怖いわよね。貴方は。よって、私が貴方にこれを訊くのは当然だと思うの。貴方は、誰かしら?」
攻守交代するように、乙女屋は僕に質問をする。
「……僕は、誰か」
それに対して、僕はすぐには返答が浮かばなかった。
「別に、何を隠しているとか、貴方はどういう人間だとか、そういうことを言って欲しいわけじゃないわ。私達も私達がどういう人間かなんて、ペラペラと話すつもりはないもの。私はただ、今のこの状況、どこの馬の骨かわからないアナタが、あんなことがあったのにこうして優しく接してあげている私達を、不親切だと思っている感じがしたから言っただけよ。本来なら、無視されても当然なくらいだとは思わないかしら?」
「……」
それは、本当に、その通りだった。キャリーケースを引き、突然現れた転校生。昨日から少しずつここのことをわかってきたが、明らかに僕の存在は、おかしい。彼女たちにすれば、僕のほうがよっぽど不審で、親切にしてもらっているという事実に、僕は感謝をしなければいけなかった。
「……ごめん、何かわからないことが重なって。ちょっとパニックになってしまって」
なので、僕は謝罪する。
「いいのよ、貴方がそういうふうな人間だって、私は知っているから」
と乙女屋はやはり無表情に言った。出会った時や、昨日と同じように。昨日から、それ以外にもたくさん暴言を浴びているけれど、しかし、乙女屋のその言葉は、今までで一番僕の心に響いた。
一息置いて、乙女屋は続ける。
「もちろん私達も『春の珍事』が普通だったとは思っていないわよ。普通では無いわ。異常よ。大異常。ただ、起こってしまったのだから仕方がないわ。それに終わっているのだからそんなに動揺することはないでしょう?」
洋子さんに牛乳のおかわりを頼む。ティーカップを持って洋子さんは席を立つ。
「別にアレが起こった理由だってほんとに些細な事なの。でも、人はいろいろな形で死んでいくの。それは悪意もなくね。どこにでも起こりうるようなことが最悪の重なり方をしたということなのよ。わかるかしら?」
「……」
「わからないでしょうね。でも、貴方にとっては私たちの得体が知れないのは一緒なのは理解するわ。だから無理に信じる必要もない。私たちがまだ貴方を信じていないようにね。それに、貴方には選択肢があるわ。嫌なら、出て行けばいいわ」
「出て行く」
「ええ、入ってきた時もわかったでしょうけど、別に、ここは出たら入れない刑務所のようなものではないわ。門はいつだって開け放たれている。実際に、さっきも言ったように『春の珍事』で生き残った人間も結構出て行ったわ。私たちは残っただけでね」
行ったら帰って来ない天国。
そんな話はやはり眉唾でしかなかった。当たり前だ。天国なんて、どこにもない。
「あの、ラブントゥールのことで、一つ、訊いてもいい?」
それでも、僕には一つここについて、訊いておきたいことがあった。
「ええ、良いわ。でも、最後にしてちょうだい。この後私は貴方となぞなぞや、こんな薬あったら良いね、の話をしないといけないし、なにより、私は『教師』じゃないのだから、貴方の質問に答える義務はないの」
「わかった」
僕は頷く。
「ここを出たら、フガーケスに行けて、そして、エヘウに行けるって本当?」
「……」
彼女は、不思議そうな目で僕を見る。
「行けるわ」
しかし、その透明な目で僕を見据えながらいつものように即答した。
「当然ね。そうでないと、ここに来る人はいないでしょう」
言って、乙女屋は新しく運ばれてきた牛乳に口をつける。
「……わかった」
「あら、少し表情が明るくなったわね」
彼女は言う。彼女は本当に人をよく見ている。
「貴方、変よね」
「うん、まあそうだと思う」
「ええ、貴方って、あれでしょう? 勉強が出来るからって、それがアイデンティティになっている、でもそれに自分で気づいていない、実は優秀な人間だと思っている、でも勉強を取ったら何もない、そんな人間でしょう?」
心が抉られるような辛辣な言葉を乙女屋から浴びるが、不思議な事に、そんな言葉を浴びても、そして、学年ほとんどが殺し合いをして亡くなっていると聞いても、僕の心は、出て行かない、はっきりとそう言っていた。
○
そうして、昼食をとり、にわかに乙女屋のなぞなぞ攻めが始まろうとした午後、洋子さんの店のドアが開く。それはまだまだ平日の午後が始まり、ランチタイムが終わったくらいの時間だった。
店に入ってきたその子はスーツ姿のポニーテールの女の子で、就活中の学生かと思うくらいきりっとしているが、しかし、リクルートスーツと呼ぶには彼女の体は小さく、そして彼女の目は血走っていた。
「あら、煤ヶ谷」
「こんにちは、乙女屋先輩」
知り合いのようだった。
彼女はそんなそっけない挨拶を乙女屋にしたが、彼女の意識は乙女屋など気にしていない様子で、その血走った凛々しい目つきで、あたりをキョロキョロと見回し、何か落ち着かない様子だった。
「こちらが例の転校生、ハネイドと言うわ」
乙女屋は洗っていない洗濯物を指すように僕を紹介する。
「貴方が、あの——こんにちは。一年の煤ヶ谷焔と言います」
僕も挨拶を返す。しかし、彼女は一瞬僕に注意を払ったが、すぐに僕からも注意を外し、まだ、そわそわと落ち着かない様子だ。
「煤ヶ谷、どうしたのかしら?」
乙女屋が訊くと、彼女は乙女屋に向き直し、
「小窓さんは、こちらにいらっしゃってないでしょうか?」
すぐにそう訊いた。
「小窓? そうね、ここに三日は見てないかしら」
「そう、ですか」
彼女は残念そうに言う。よく見れば、彼女の血走った目の下には、相当濃い隈ができており、相当疲れている様子だった。
「あれー、ガヤちゃん、久しぶりー」
そこで、キッチンから手を拭きながら出てきた洋子さん。
「すみません、辰巳先輩、ちょっと、捜査が難航していまして、昨日から何も食べていないんです。何か食べるものをいただけるでしょうか」
軽く悲壮感を漂わせながら言う彼女。どうやら、彼女は人探しをしており、そのついでにご飯も食べに来たということのようだ。
「捜査?」
しかし、僕はその言葉に反応する。
「うん、もちろんー、営業中だし」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、オムライスとミックスジュースをお願いします」
「……」
僕のつぶやきは黙殺される。結構可愛い物を頼むんだな、と思ったが、乙女屋を先輩と呼ぶということは彼女は僕の一つ下の学年。高校一年生だった。
「煤ヶ谷、何をそんなに慌てているのかしら?」
しかし、再び僕の思いを代弁するように、乙女屋が訊く。
「ええ、ちょっとした、えっと、トラブルがありまして」
「トラブル? 何か事件かしら?」
「それは、機密情報でして」
「いいじゃない、教えなさいよ。アレを言うわよ?」
「……殺人事件です」
「そう。それは物騒ね。頑張ってちょうだい」
「はい」
「……」
「さて、貴方、それではそろそろ家に帰りましょうか。私達にはすべきなぞなぞと、こんな薬あったらいいな、の話があるのよ。洋子もランチタイムが終わったら、私の晩御飯の仕込みもあるし、家に戻るわよ」
「ちょっと待って」
僕は言う。
「なにかしら?」
「……いま、なんて?」
「なんてって、こんな薬があったらいいね、の話よ。私達が帰ってからすることよ。それがいやならUNOもあるわよ」
「そこじゃなくて」
「洋子はランチタイムが終わったら、私の夕食の仕込みを始めるのよ。洋子は忙しいわね」
「いや、それでもなくて。なんか——殺人事件があったとか」
「らしいわね。物騒な世の中ね。だから早く帰りましょう。UNOは襲ってこないわ」
「そうじゃない。だから、そういうことを言ってるんじゃないよ」
「まさか、貴方が殺したのかしら?」
「僕は、ここに着いてから乙女屋とずっと一緒にいたよ」
「でも、貴方が一番怪しい気がするけど」
「殺人事件があったって?」
僕は乙女屋を無視して彼女に訊いた。
「あ、はい。一昨日の夜にです」
彼女は凛々しい表情で答える。
「警察は?」
「だから、目の前にいるでしょう」
乙女屋が彼女を指す。
「何か?」
彼女も素知らぬ顔だ。
「ちなみに煤ヶ谷さん」
「呼び捨てで構いませんよ、先輩」
「……君は刑事で、それは職業だってことだよね?」
「ええ、そうです」
「でも、警察ったって、本当に、その殺人事件が起こったなら、生徒がどうにかするっていうのは、えっと、どうなの?」
「先輩、お言葉ですが、私達のほうが外の警察よりも捜査能力は上だと自負しています。地理やこの場所の状況も把握していますし」
「だめよ、煤ヶ谷。この男は偏見で出来ているの。小学生が思い描くような大人の社会、そんな世界観で人生をお送りしているの」
再び乙女屋が呆れたようにいう。
「でも……」
と再び平凡に反対しようとする僕に、
「貴方はそんなに警察を信用しているのかしら? それは危険よ。あれらはただの公僕よ。採用試験だって私が半笑いでやっても一夜漬けでどうにかなるわ。そんな試験を通っただけの存在を信じるほど貴方は素直なのかしら? そういえば貴方、教師もなにか聖職者のように扱ってる節があったけれど、まさか真面目そうに見える組織の人間だから信用に足る、とか思っているのかしら。教師の児童虐待の話とか聞いたことない? それとも、人を肩書きで評価するとかそういう人間かしら?」
「そんなことは、ないけど……」
と僕はまた煤ヶ谷と呼ばれている刑事に向き直す。
「ということはあれなのかな? ここでは殺人事件が起きても、警察とかを呼ばず、ここだけで解決するようなことになるってこと?」
「だから、警察はいるわよ」
「先輩、何かお困りでしたら私にご相談ください」
「……」
ダメだ。
何か、頭が痛くなってきた。
「帰って、UNOをやるよ……」
「賢明ね」
そういうことで、僕の転校初日の午後は、嬉し恥ずかしのクラスメートとの初交流などはなく、ルームメートと二人でUNOをやることで決着が着いた。
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