スルタンに捧ぐ物語
りりぱ
***
おお、偉大なる
僭越ではございますが、わたくしはここで一介の吟遊詩人に扮し、ぜひご寛恕を賜りましてわたくしの人生と決意にかかるささやかな物語をお耳に入れたいと存じます。神よ我に語る力を与えたまえ、アラーに栄光あれ。
イスラームの教えは唯一無二であり、その正しき信仰を地に遍く広めることがすべてのムスリムの
その一方で、この帝国の周囲には項の固き
陛下はついにネレトヴァの王であったミルティン一世を討ち取られ、ネレトヴァの敗北は決定的となりました。両国の間で和議が結ばれる運びとなり、ネレトヴァの次の王となった若きステファン四世と、陛下の十七番目の姫であるアイーシャ内親王殿下との婚礼が決まったのでございます。
ネレトヴァは婚儀の使者として、義弟にあたるコンスタンティン公を帝国に送られました。ネレトヴァの中でも未だ和議に対する反発が強く、迂闊な者を立てれば和議そのものが潰れてしまいかねません。王は最も信頼できる使者として、王の妹のアレクサンドラの夫君であり王が幼き頃よりの親友であるコンスタンティン公を選んだのでございます。
コンスタンティン公が帝国に到着され、この国から通訳として立てられたのが書記官のダニエル、この物語の忠実なる
ダニエルは帝国に連れられてからは敵国の情報の整理収集の任についておりました。生来の気弱で臆病な性質が幸いし、多くの同輩が陛下のお怒りに触れ殺されていく中でも陛下にまめまめしく仕え、異教徒の奴隷でありながら恐れ多くも陛下の覚えめでたく、書記官という地位にまで上ったのでございます。
謁見の間に入ったコンスタンティン公は堂々たる美丈夫でありました。瑞々しい若武者の身体を儀礼用の板金鎧で包み、気品ある顔はふさふさとした見事な赤髭で覆われておりました。戦乱の中で育った労苦の故か、年齢にしてはしわがれた声で、使者は王の前に額づき丁重な謁見の挨拶を行いました。
「長旅ご苦労であった、面を上げよ」
広い謁見の間に居並ぶ側近たちが見守る中、壮麗なる玉座の上から陛下は慈悲深くも使者を労われました。
「我が
そして陛下の隣に垂れ下がっていた天幕が上げられ、中から姫がお姿を現されました。そのお姿に、謁見の間には低いざわめきが広がりました。
その時十八歳におなりあそばしたばかりの姫は、まるで月光が女人の形をとったかと思うほどの美しさでありました。しらじらと透き通った肌、熟練の彫金師がアラーの手を借りて彫ったような整った
アイーシャ姫はかつて王が女奴隷に産ませた姫とのことで、今まで
中でも使者殿の驚きようは並大抵ではございませんでした。若武者は一瞬儀礼も敵国のただ中であることも忘れたように、まるで雷に打たれたがごとくにその薄青の瞳を見開いて動きを止めました。こうした謁見の間の様子に、陛下はいたくご満足そうに微笑まれておりました。
「……アイーシャ姫の、御母妃はどちらにおられるか」
使者殿はしばし呼吸を忘れ、半ば呆けたように視線を姫に据えたまま立ちすくんでおりましたが、ようやく掠れ声を絞り出されました。陛下はさも可笑しそうにただ一言、
「これを産んで死んだ」
と答えられました。だから挨拶の必要はない、そう仰られる陛下を前に、使者殿は半ばよろめく様に再度の跪礼を行いました。
それから一月の間、使者殿は帝国に滞在されました。その間婚礼のための着物や装飾品、調度等を発注すべく、何度も姫とご相談を重ねられ、こまごまとした検討事項や報告などを母国に忙しく書き送っておられました。
その間、姫と使者殿の仲が次第に親密になっていくのに、多くの侍従が気づくこととなりました。最初は書記官や侍女たちを伴い王宮内の応接間で話していたのが、やがて書記官一人のみを供として中庭を歩きながらお話あそばされるようになり、ついには東屋にて二人きりでの長話をなさるようになるのを大勢の召使たちが目撃し、噂するようになりました。そのけがらわしい噂はやがて陛下のお耳を汚すこととなりましたが、寛大なる陛下は「それもよい」とただ面白そうに笑われるだけでした。元々アイーシャ姫は姫君たちの中でも身分が低く、息女として陛下の寵愛を受けられるほどの身の上ではございません。陛下にしてみれば
そんなある時、月のない深夜に使者殿が突然書記官を尋ねて参られました。内密のお話でしょう、書記官は驚きましたが、かつての同国人のよしみで使者殿を自室に招き入れました。使者殿は人目をはばかりながら部屋に入ると勧められた椅子に腰かけ、しばしがっくりと項垂れておりました。
「……この国では、他人の妻を奪うことは罪に当たるのか?」
やがて発された使者殿からの問いかけに、書記官は再び驚きました。もちろん他の啓典宗教国がそうであるように、
「神、か」
またしばしの沈黙を経て、使者殿はどこか自嘲するようにそう呟かれました。
「信仰は本当にひとを救うだろうか?」
その声音に底知れぬ孤独を感じ取り、書記官は思わず身を震わせました。彼が異国でただ一人信じ続けてきたキリストは、もちろんこの孤独に思い悩んでいる高潔な若武者をもお救いあそばすはずです。使者殿を励まさねばならぬ、書記官はその一心で柔らかな若武者の手を握りました。
「もちろんでございます、どうかお気を確かに」
「しかしキリストは我らを救わなかった。この国は我々の家族を殺し友を奪い、そして今は残酷な結婚の運命を強いている。主は我らをお見捨てあそばされたのではないか」
わたしは自分が正しいのか分からない。使者殿はそう呻くと俯いて肩を震わせました。書記官はその様子に慄きました。使者殿の深い憂いの眼差しは、先日に謁見の間で初めて拝謁したアイーシャ姫の愁眉を、そしてかつて彼が仕えた祖国の国王夫妻を思い起こさせました。二十年前、帝国の侵攻に思い悩んだネレトヴァの国王夫妻も、今のこの使者殿のように美しい眉を顰められひたすらに祖国の未来を憂いておられました。あの時国王夫妻をお救いできなかった後悔が、二十年の時を超えて書記官の胸に大岩が転がるごとく迫りました。
この方は恐ろしい考えに取りつかれておられる、なんとしても思いとどまって頂かなくては。これこそ神の思し召しでなくてなんでありましょう。書記官は恐怖をなんとか押さえ込むと、我が身を奮い立たせました。
「そのようなことを仰ってはいけません。主の御業はひとには分からないものでございます。たとえご自分に確信が持てなくても、聖霊はあなた様に神の目から見て正しいことをなす勇気を賜れるはずです」
その言葉に使者殿は顔を上げました。
「そなたはわたしの気持が分かるのか」
「はい。わたくしは神かけて、あなたさまのような高潔な魂をお持ちの方の味方でございます」
書記官の一心不乱の説得が通じたのか、使者殿はようやく気を緩められたようでした。
「そなたのようなキリストの使徒がわたしの
使者殿は微笑むと、そっと部屋を後にされました。書記官は満点の星が散りばめられた天穹の下を使者殿がひっそりとお帰りになるのを、窓からいつまでも見送っておりました。
件の事件が起きたのはそれから五日後の朝でございます。
おそらく頸動脈を一刀のもとにかき切られたのでしょう、寝所の中はむごたらしくも血の海になっておりました。黒真珠のごとき両眼は無惨にも抉られ、虚ろな眼窩からは涙のごとく血が流されておりました。こうなってしまってはかつての花の顔も見るかげもございません。寝所の窓は開け放たれており、賊はそこから逃げたものと思われます。おりしも使者殿が宮殿から忽然と姿を消しており、行方を知るものは誰もおりませんでした。
誇り高き陛下はこの知らせをお聞きになると、あまりの侮辱に激怒されました。恥知らずにも使者殿は陛下と内親王を欺き、内心でこの和議を無効にするおつもりだったのでしょう。豚殺しどもと話し合いなどどだい無理なことであった、陛下はそう宣われますと、ただちに御自ら大軍を率いてネレトヴァに攻め入りました。哀れなるネレトヴァにとっては青天の霹靂、婚礼準備のために国庫はとうに空になっており、敗戦したばかりの国にはろくな軍備もございません。陛下にとっては赤子の手をひねるような戦でございました。
こうしてかつて栄華を誇ったネレトヴァの都は一週間も経たず灰燼と帰し、愚かな王は陛下の虜囚となったのでございます。しかし陛下が追い求めた使者殿の行方は杳として知れず、陛下は今もなおここセルビアの地でかの不届き者を探しておいでです。また陛下の神聖なる
陛下は致し方なくネレトヴァ王を、かつての彼の住処であった王宮地下の獄につなぎ、熟練の拷問吏に王の尋問をさせておりました。しかし今に至るまで頑迷なるネレトヴァ王は一切黙して語らず、ついに陛下の尊きお手を煩わせる羽目にまでなりました。
最上の智者であらせられる
まずコンスタンティン公ですが、公は陛下が既に切り殺しておられます。陛下がミルティン王を討ち取られた時、最期までミルティン王を守っておられた甲冑の騎士がコンスタンティン公そのひとでございます。陛下はあの混戦の中に歴戦の勇者たちを送り、幾人もの騎士を斃しておいででした。板金兜に包まれた騎士の顔などいちいちご覧になっておられずとも不思議ではございません。
それでは婚礼の使者として謁見の間に現れたコンスタンティン公は何者であったか?それこそコンスタンティン公亡き後に爵位を継いだ彼の妻、アレクサンドラ公爵夫人でございます。女公爵はやむにやまれぬ状況の中、国家のため兄王のために死んだ夫に扮し、女の声を偽るべく刃物を飲み喉を傷つけてまで和議の交渉に臨んだのでありました。
そうまでして女公爵が謁見の間に入り、そこで見たものは何でありましたでしょうや?彼女が見たものはまさに己の顔をした姫でありました。その時、聡明なる女公爵はすべてを悟ったのであります。かつて自らの母であった王妃が陛下に殺されたとは偽りで、実はその美しさ故にひそかに女奴隷として帝国へ連れ去られたこと、そこで辱められ胤違いの妹を産んだこと、陛下はすべてを知りそなわし、ただ不信心の豚食らいどもを嘲るために兄と妹との忌まわしき結婚を仕組まれたことを。
女公爵は信仰篤く、高潔で聡明な婦人でありました。彼女は苦しみながら妹にすべてを打ち明け、ついに我が身を犠牲に妹をネレトヴァの友国に逃がすことにしたのでございます。女人であれば
今頃アイーシャ姫は、婚礼調度品の支払いという名目で友国に逃がされた多額の財産と共に保護されているでしょう。女公爵が滞在中にひそかに調べ上げた帝国の情報を足掛かりに、友国は近隣諸国を束ねて我らの仇を討つ手はずを整えている頃かと思い申し上げます。
ネレトヴァ王は比類なき妹の手によってこれらすべての支度が整ったことを知ると、陛下の軍がこの王宮に攻め入る前の晩にひそかに
いと賢き
どうか考え違いをなさらないでいただきたい。わたくしの改宗は陛下に命乞いをするためではございません。ただ陛下が御手ずから殺すことになる初めてのイスラム教徒となることで、この長き戦乱の意義についてご再考頂きたいからでございます。あなた様にとってはたかが卑しき女奴隷に産ませた子でありましょうが、陛下が辱めた我が母ヘレナは神の祝福のもと結婚した父王ミルティンの正妻であり、我が妹アイーシャはアラーの目に隠れなきムスリムの女でありました。彼女を家畜のごとく兄弟に番わせることに、我らが神に対する何の申し開きがございましょうや?
わたくしどもは長く争い過ぎました。父母を、妹を、親友を、そして陛下は自らの神性を犠牲にし、その結果が今でございます。わたくしはもう疲れ果てました。かくなるうえは陛下の剣をお借りしてこの魂を神にお委ねし、家族の元へ参る所存でございます。慈悲遍く慈悲深き我らが主よ、どうか憐れみたまえ。神が我らを赦しますように。
スルタンに捧ぐ物語 りりぱ @liliput
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます