スルタンに捧ぐ物語

りりぱ

***

 おお、偉大なる皇帝陛下スルタンよ。比類なき大帝国の主にして篤き信仰の守護者たる教王カリフであらせられる陛下、御身自らわたくしめのところにまで足を運ばれるとは恐悦至極に存じます。陛下は教王として民を導かれる中で、ただひとりのイスラム教徒をも殺したことがないと自負され、また人々が口々に褒めそやされる慈悲深き方であらせられますから、この度もわたくしのような頑迷なキリスト教徒がなぜ突如として真の信仰を芽生えさせ、イスラームに改宗したのかの仔細を自らお聞きになろうとお越しあそばされたのでしょう。大変名誉なことでございます。

 僭越ではございますが、わたくしはここで一介の吟遊詩人に扮し、ぜひご寛恕を賜りましてわたくしの人生と決意にかかるささやかな物語をお耳に入れたいと存じます。神よ我に語る力を与えたまえ、アラーに栄光あれ。


 イスラームの教えは唯一無二であり、その正しき信仰を地に遍く広めることがすべてのムスリムの務めファルドでございます。その神聖なる使命とアラーの庇護のもと、ある皇帝スルタンがその治世に大きく国土を広げられ、やがて一大帝国を育てられました。陛下、あなた様とあなたの統治されるこの国のことでございます。

 その一方で、この帝国の周囲には項の固き基督キリスト教徒どもの国があまたございます。それぞれの国は取るに足らぬ小国であるものの、狡猾な諸侯は徒党を組んで陛下に歯向かって参りました。中でもこの帝国と西側に接するネレトヴァ公国は、やはり身の程を知らぬ小国でありながらも近隣のキリスト教諸国と緊密な紐帯を結び、諸国第一の盾として羽虫のように帝国に逆らっておりました。両国は四十年の長きにわたり争いを繰り広げ、民は戦乱に倦んでおりました。

 陛下はついにネレトヴァの王であったミルティン一世を討ち取られ、ネレトヴァの敗北は決定的となりました。両国の間で和議が結ばれる運びとなり、ネレトヴァの次の王となった若きステファン四世と、陛下の十七番目の姫であるアイーシャ内親王殿下との婚礼が決まったのでございます。

 ネレトヴァは婚儀の使者として、義弟にあたるコンスタンティン公を帝国に送られました。ネレトヴァの中でも未だ和議に対する反発が強く、迂闊な者を立てれば和議そのものが潰れてしまいかねません。王は最も信頼できる使者として、王の妹のアレクサンドラの夫君であり王が幼き頃よりの親友であるコンスタンティン公を選んだのでございます。

 コンスタンティン公が帝国に到着され、この国から通訳として立てられたのが書記官のダニエル、この物語の忠実なる証人あかしびとであります。ダニエルは二十年前に陛下がネレトヴァに侵攻され、その剣が王宮まで迫られました際に捕虜として縛しました大臣の一人でございます。陛下はその際に、その美しさがセルビアの至宝とまで讃えられたネレトヴァの王妃を弑し、数多の官僚や侍女を奴隷として帝国に連れ帰られました。その戦乱の中、ネレトヴァの王たるミルティン一世は未だ幼き王太子と内親王をお守りするので精いっぱい。妻の切り刻まれた四肢を目の前に投げられても、ただ陛下の猛き武勲の前になすすべもなく震えていたのでございます。

 ダニエルは帝国に連れられてからは敵国の情報の整理収集の任についておりました。生来の気弱で臆病な性質が幸いし、多くの同輩が陛下のお怒りに触れ殺されていく中でも陛下にまめまめしく仕え、異教徒の奴隷でありながら恐れ多くも陛下の覚えめでたく、書記官という地位にまで上ったのでございます。


 謁見の間に入ったコンスタンティン公は堂々たる美丈夫でありました。瑞々しい若武者の身体を儀礼用の板金鎧で包み、気品ある顔はふさふさとした見事な赤髭で覆われておりました。戦乱の中で育った労苦の故か、年齢にしてはしわがれた声で、使者は王の前に額づき丁重な謁見の挨拶を行いました。

「長旅ご苦労であった、面を上げよ」

 広い謁見の間に居並ぶ側近たちが見守る中、壮麗なる玉座の上から陛下は慈悲深くも使者を労われました。

「我が息女むすめ、アイーシャを紹介する」

 そして陛下の隣に垂れ下がっていた天幕が上げられ、中から姫がお姿を現されました。そのお姿に、謁見の間には低いざわめきが広がりました。

 その時十八歳におなりあそばしたばかりの姫は、まるで月光が女人の形をとったかと思うほどの美しさでありました。しらじらと透き通った肌、熟練の彫金師がアラーの手を借りて彫ったような整ったかんばせ、長い睫毛に縁どられ、やや伏せられた漆黒の瞳は黒真珠のごとく潤み、艶やかに輝いておりました。この国の倣いで姫は慎ましくもそのお顔を薄衣で覆っておりましたが、それでも愁いを帯びた姫の美しさは薄衣を透かすがごとし。遥か東方には衣通姫そとおりひめと申しまして、その美しさが衣を通して輝くばかりだった姫がいたと伝えられておりますが、アイーシャ姫こそ現代の衣通姫でしょう。そのような姫が己が身に待ち受ける運命をただ耐え忍ぶがごときご様子で、痛々しくも悲劇的な美しさは物凄いほどでございました。

 アイーシャ姫はかつて王が女奴隷に産ませた姫とのことで、今まで後宮ハレムの奥に隠すようにして育てられ、この御歳になるまでご結婚の話もないような方でありましたので、並み居る側近の中でもそのお姿を今まで拝謁した者はいなかったのでございます。我らが書記官ダニエルを含め、臨席の大臣たちが思わず驚嘆の声を上げましたのも無理はありますまい。

 中でも使者殿の驚きようは並大抵ではございませんでした。若武者は一瞬儀礼も敵国のただ中であることも忘れたように、まるで雷に打たれたがごとくにその薄青の瞳を見開いて動きを止めました。こうした謁見の間の様子に、陛下はいたくご満足そうに微笑まれておりました。

「……アイーシャ姫の、御母妃はどちらにおられるか」

 使者殿はしばし呼吸を忘れ、半ば呆けたように視線を姫に据えたまま立ちすくんでおりましたが、ようやく掠れ声を絞り出されました。陛下はさも可笑しそうにただ一言、

「これを産んで死んだ」

 と答えられました。だから挨拶の必要はない、そう仰られる陛下を前に、使者殿は半ばよろめく様に再度の跪礼を行いました。


 それから一月の間、使者殿は帝国に滞在されました。その間婚礼のための着物や装飾品、調度等を発注すべく、何度も姫とご相談を重ねられ、こまごまとした検討事項や報告などを母国に忙しく書き送っておられました。

 その間、姫と使者殿の仲が次第に親密になっていくのに、多くの侍従が気づくこととなりました。最初は書記官や侍女たちを伴い王宮内の応接間で話していたのが、やがて書記官一人のみを供として中庭を歩きながらお話あそばされるようになり、ついには東屋にて二人きりでの長話をなさるようになるのを大勢の召使たちが目撃し、噂するようになりました。そのけがらわしい噂はやがて陛下のお耳を汚すこととなりましたが、寛大なる陛下は「それもよい」とただ面白そうに笑われるだけでした。元々アイーシャ姫は姫君たちの中でも身分が低く、息女として陛下の寵愛を受けられるほどの身の上ではございません。陛下にしてみれば後宮ハレムの片隅に芽吹いた雑草も同然、どうせ豚食らいの国にやる姫であり、婿の素性にさしたる関心もおありではなかったのでしょう。それよりかは浅ましき基督教徒どもが身内で道ならぬ恋の鞘当てをする方が、陛下の無聊をお慰めする火種になったのかもしれません。

 そんなある時、月のない深夜に使者殿が突然書記官を尋ねて参られました。内密のお話でしょう、書記官は驚きましたが、かつての同国人のよしみで使者殿を自室に招き入れました。使者殿は人目をはばかりながら部屋に入ると勧められた椅子に腰かけ、しばしがっくりと項垂れておりました。

「……この国では、他人の妻を奪うことは罪に当たるのか?」

 やがて発された使者殿からの問いかけに、書記官は再び驚きました。もちろん他の啓典宗教国がそうであるように、教王カリフの統べるこの帝国においてもそのような行為は近親婚や同性愛などと同様、明確に禁忌ハラームでございます。書記官が口早にそう説明いたしますと、使者殿は再度黙って俯かれました。

「神、か」

 またしばしの沈黙を経て、使者殿はどこか自嘲するようにそう呟かれました。

「信仰は本当にひとを救うだろうか?」

 その声音に底知れぬ孤独を感じ取り、書記官は思わず身を震わせました。彼が異国でただ一人信じ続けてきたキリストは、もちろんこの孤独に思い悩んでいる高潔な若武者をもお救いあそばすはずです。使者殿を励まさねばならぬ、書記官はその一心で柔らかな若武者の手を握りました。

「もちろんでございます、どうかお気を確かに」

「しかしキリストは我らを救わなかった。この国は我々の家族を殺し友を奪い、そして今は残酷な結婚の運命を強いている。主は我らをお見捨てあそばされたのではないか」

 わたしは自分が正しいのか分からない。使者殿はそう呻くと俯いて肩を震わせました。書記官はその様子に慄きました。使者殿の深い憂いの眼差しは、先日に謁見の間で初めて拝謁したアイーシャ姫の愁眉を、そしてかつて彼が仕えた祖国の国王夫妻を思い起こさせました。二十年前、帝国の侵攻に思い悩んだネレトヴァの国王夫妻も、今のこの使者殿のように美しい眉を顰められひたすらに祖国の未来を憂いておられました。あの時国王夫妻をお救いできなかった後悔が、二十年の時を超えて書記官の胸に大岩が転がるごとく迫りました。

 この方は恐ろしい考えに取りつかれておられる、なんとしても思いとどまって頂かなくては。これこそ神の思し召しでなくてなんでありましょう。書記官は恐怖をなんとか押さえ込むと、我が身を奮い立たせました。

「そのようなことを仰ってはいけません。主の御業はひとには分からないものでございます。たとえご自分に確信が持てなくても、聖霊はあなた様に神の目から見て正しいことをなす勇気を賜れるはずです」

 その言葉に使者殿は顔を上げました。

「そなたはわたしの気持が分かるのか」

「はい。わたくしは神かけて、あなたさまのような高潔な魂をお持ちの方の味方でございます」

 書記官の一心不乱の説得が通じたのか、使者殿はようやく気を緩められたようでした。

「そなたのようなキリストの使徒がわたしの証人あかしびととなってくれるのであれば心強いことだ、どうか今夜のことを忘れないで欲しい」

 使者殿は微笑むと、そっと部屋を後にされました。書記官は満点の星が散りばめられた天穹の下を使者殿がひっそりとお帰りになるのを、窓からいつまでも見送っておりました。


 件の事件が起きたのはそれから五日後の朝でございます。後宮ハレムの奥深くにて姫が亡くなっていると、アイーシャ姫の侍女が血相を変えて衛兵に訴えました。駆け付けた衛兵が見たものは、自室の寝台にて首を掻き切られ両眼を潰された、変わり果てた姫の亡骸でした。

 おそらく頸動脈を一刀のもとにかき切られたのでしょう、寝所の中はむごたらしくも血の海になっておりました。黒真珠のごとき両眼は無惨にも抉られ、虚ろな眼窩からは涙のごとく血が流されておりました。こうなってしまってはかつての花の顔も見るかげもございません。寝所の窓は開け放たれており、賊はそこから逃げたものと思われます。おりしも使者殿が宮殿から忽然と姿を消しており、行方を知るものは誰もおりませんでした。

 誇り高き陛下はこの知らせをお聞きになると、あまりの侮辱に激怒されました。恥知らずにも使者殿は陛下と内親王を欺き、内心でこの和議を無効にするおつもりだったのでしょう。豚殺しどもと話し合いなどどだい無理なことであった、陛下はそう宣われますと、ただちに御自ら大軍を率いてネレトヴァに攻め入りました。哀れなるネレトヴァにとっては青天の霹靂、婚礼準備のために国庫はとうに空になっており、敗戦したばかりの国にはろくな軍備もございません。陛下にとっては赤子の手をひねるような戦でございました。

 こうしてかつて栄華を誇ったネレトヴァの都は一週間も経たず灰燼と帰し、愚かな王は陛下の虜囚となったのでございます。しかし陛下が追い求めた使者殿の行方は杳として知れず、陛下は今もなおここセルビアの地でかの不届き者を探しておいでです。また陛下の神聖なる後宮ハレムに他の男子が立ち入るなどあってはならぬこと。厳重な警備をかいくぐり、どのようにしてコンスタンティン公が内親王の寝所に立ち入ったのか、未だにその謎も解き明かされてはおりません。

 陛下は致し方なくネレトヴァ王を、かつての彼の住処であった王宮地下の獄につなぎ、熟練の拷問吏に王の尋問をさせておりました。しかし今に至るまで頑迷なるネレトヴァ王は一切黙して語らず、ついに陛下の尊きお手を煩わせる羽目にまでなりました。


 最上の智者であらせられる皇帝陛下スルタン、あなた様はご自身の統べる国のことであればご自身のたなごころのごとくすべてをご存知です。しかしながら陛下もまたひとの身でありますれば、全知全能のアラーが知りそなわすことのいくつかをご存じなくとも致し方ありますまい。わたくしはいま少し、陛下がご存知ではない幾ばくかの些末事をお知らせ申し上げたく思います。なにとぞお許しください。

 まずコンスタンティン公ですが、公は陛下が既に切り殺しておられます。陛下がミルティン王を討ち取られた時、最期までミルティン王を守っておられた甲冑の騎士がコンスタンティン公そのひとでございます。陛下はあの混戦の中に歴戦の勇者たちを送り、幾人もの騎士を斃しておいででした。板金兜に包まれた騎士の顔などいちいちご覧になっておられずとも不思議ではございません。

 それでは婚礼の使者として謁見の間に現れたコンスタンティン公は何者であったか?それこそコンスタンティン公亡き後に爵位を継いだ彼の妻、アレクサンドラ公爵夫人でございます。女公爵はやむにやまれぬ状況の中、国家のため兄王のために死んだ夫に扮し、女の声を偽るべく刃物を飲み喉を傷つけてまで和議の交渉に臨んだのでありました。

 そうまでして女公爵が謁見の間に入り、そこで見たものは何でありましたでしょうや?彼女が見たものはまさに己の顔をした姫でありました。その時、聡明なる女公爵はすべてを悟ったのであります。かつて自らの母であった王妃が陛下に殺されたとは偽りで、実はその美しさ故にひそかに女奴隷として帝国へ連れ去られたこと、そこで辱められ胤違いの妹を産んだこと、陛下はすべてを知りそなわし、ただ不信心の豚食らいどもを嘲るために兄と妹との忌まわしき結婚を仕組まれたことを。

 女公爵は信仰篤く、高潔で聡明な婦人でありました。彼女は苦しみながら妹にすべてを打ち明け、ついに我が身を犠牲に妹をネレトヴァの友国に逃がすことにしたのでございます。女人であれば後宮ハレムへの出入りは容易うございます。美貌の女公爵は瞳の色を除けばアイーシャ姫にうり二つであり、父である陛下からも顧みられなかった彼女の死体を見分けることはおよそ余人に不可能でありました。女公爵は涙に咽ぶ妹を説き伏せ、そのか弱き手に姉殺しの刃と基督教国の未来を握らせました。この憐れな姉妹に主がお与えになった相似形の類稀なる美貌こそ、生き別れの二人に姉妹の名乗りを上げさせ救国の命綱を繋がしめるのでありますから、これぞまことに主の御業の玄妙なる神秘であると言えましょう、感嘆の念に堪えません。

 今頃アイーシャ姫は、婚礼調度品の支払いという名目で友国に逃がされた多額の財産と共に保護されているでしょう。女公爵が滞在中にひそかに調べ上げた帝国の情報を足掛かりに、友国は近隣諸国を束ねて我らの仇を討つ手はずを整えている頃かと思い申し上げます。

 ネレトヴァ王は比類なき妹の手によってこれらすべての支度が整ったことを知ると、陛下の軍がこの王宮に攻め入る前の晩にひそかに導師イマームを招き入れ、長きにわたるキリストへの信仰を捨てイスラームに帰依したのであります。陛下が御自ら王宮の広間に剣を携え踊りこんだ時、ただひとり聖地の方向に額づきアラーに礼拝を捧げるわたくしの姿を発見した時のお顔は、失礼ながら一生の見ものでございました。


 いと賢き皇帝陛下スルタンよ、ゆめわたくしの名をお忘れめさるるな。わたくしこそネレトヴァ最後の国王ステファン四世、気高き女公爵であったアレクサンドラとあなた様の珠の如きご息女、アイーシャ姫の兄でございます。わたくしが今まで陛下にお聞き参らせた物語は、陛下がこの国に軍を率いてお越しになる直前にすべて、妹とダニエルが死の覚悟と共にわたくしに書き知らせてくれました。

 どうか考え違いをなさらないでいただきたい。わたくしの改宗は陛下に命乞いをするためではございません。ただ陛下が御手ずから殺すことになる初めてのイスラム教徒となることで、この長き戦乱の意義についてご再考頂きたいからでございます。あなた様にとってはたかが卑しき女奴隷に産ませた子でありましょうが、陛下が辱めた我が母ヘレナは神の祝福のもと結婚した父王ミルティンの正妻であり、我が妹アイーシャはアラーの目に隠れなきムスリムの女でありました。彼女を家畜のごとく兄弟に番わせることに、我らが神に対する何の申し開きがございましょうや?

 わたくしどもは長く争い過ぎました。父母を、妹を、親友を、そして陛下は自らの神性を犠牲にし、その結果が今でございます。わたくしはもう疲れ果てました。かくなるうえは陛下の剣をお借りしてこの魂を神にお委ねし、家族の元へ参る所存でございます。慈悲遍く慈悲深き我らが主よ、どうか憐れみたまえ。神が我らを赦しますように。

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