第8話 水平線と光

 両手いっぱいのお菓子を持ってユキノは放課後の教室に現れた。待ち合わせたわけでもないが、彼の求める姿はそこにあった。

「××! ハッピーバースデー! ……まであと三ヶ月だよ!」

××は一瞬驚きを見せたが、その腕の中のお菓子を見て呆れた。

「まだあと三ヶ月もあるのに、張り切りすぎ……。大体そのお菓子はどうするんだ。俺、そんなに食べられないからな」

「いいの、いいの。食べきれないくらいのお菓子を、食べようとすることに意味があるんだから!」

 そう言いながら持ってきたお菓子を広げた。チョコレートやグミキャンディ、ゼリー、プリン、ミニケーキやドーナツ。色とりどりのお菓子がそこにあった。

「さぁ、好きなのから食べていいよ! 僕の気にしなくていいからね!」

「……なんでそんなに張り切ってるんだよ」

「んー、内緒! 十五歳の誕生日になったら教えてあげるよ」

「三ヶ月も勿体ぶらせるなら、それなりの理由を用意しといてくれよ?」

「……大丈夫! そこは安心しといて」

 大きく頷くユキノに××は苦笑した。机の上のお菓子を一つずつ開封し、口に含む。どのお菓子も甘味料が多く使われていて××には甘ったるく感じた。だけれども嫌な味ではなかった。

「ユキノは食べないのか」

「僕はもう食べたからねー。××が独り占めしていいよ!」

 そう言って満足げにしているユキノを、訝し気に××は見つめた。そうしてもう一つお菓子を開けてわざとユキノの口元に運ぶ。

「ほら、ユキノが食べたくて買ってきたのもあるだろ」

 その言葉を否定することも肯定することもなく、ユキノは口を開ける。しばらくその味を楽しんだ後、ゆっくりと嚥下した。そうして再び口を開く。

「……三ヶ月後に、旅行に行かない? 丁度長期休暇だし、お金は僕が出すし、絶対後悔させないから」

「また唐突すぎないか。まぁ、三ヶ月後なら、予定を開けられると思うけども」

「……とっておきの誕生日プレゼントを用意してあるから」

 意味ありげな笑い方をするユキノを、××はあえて追求しなかった。数年間一緒にいたことで、ある程度の信頼があったのだろう。その一方で、何やら拭いきれぬ違和感が腹の内で暴れているのも感じていた。

「いつかの約束を、果たそうと思ってるんだ」

 そんな××の横で、ユキノは儚げに笑う。


 いつかの雨の日のように、唐突に玄関のチャイムが鳴った。扉を開けた先に立っていたのは、やはり彼だった。

「久しぶり、ケンちゃん」

「おう」

 二人の間に、いつかのような緊迫感はなくなっていた。それも当然と言える。ケンはユキノの置かれた状況を知っているからだ。理解できない部分は少なからずあれど、ユキノの行動を受け入れようという気持ちはあったのだ。そんなケンの気持ちを見透かすようにユキノは笑って言葉を紡ぐ。

「唐突なんだけどね、三ヶ月後に××と旅行に行くの」

「へぇ」

「ケンちゃんもついてきてくれない?」

「なんでだよ、二人で行ってくればいいんじゃねぇのか?」

 正直、ケンはまだ××に会いたくなかった。かつての三人の中で、××が最も真実に遠い場所にいる。否、ユキノとケンは真実を未だ隠している。その意識がある限り、ケンは××の前では平静でいられぬだろうと確信していた。

「三人で行くって、約束したでしょ? 今となっては遠い昔の話だから、忘れちゃった?」

 煽るような言い方。困ったような表情。かつてのユキノを考えれば、本当に人間味あふれる今の姿。

「……自信ねぇ。××の前で、何も隠してない振りできねえと思う」

 その言葉には、自身の秘密とともにユキノの隠し事も含まれていた。あまりにも大きすぎる秘密は、沈めてもどこからか泡沫のように浮き上がってくるのだ。

「大丈夫」

 ユキノはケンの手を優しく包んだ。その時、ケンは自身の手が汗ばんでいることに初めて気が付いた。

「三ヶ月後、に全部伝えようと思ってるの。その上で、一年かけて結論を出してもらおうと思ってる。多分、僕にとってもケンちゃんにとっても、その時がちょうどいいタイミングだと思うんだよね。それから」

 ケンは話を聞きながら、息をのんだ。

「……それから、きっと××は真実を聞いたら、堪えられないと思う。俺じゃ、××を支えてあげられない。だから、ケンちゃんに××のそばにいてほしい」

 その笑顔が、泣きそうだとケンは感じた。


 その日の為に、ユキノは十分すぎるくらいの準備をした。

 ケンが彼の兄の関わる研究を知るように仕向けたのも、その為に施設でホタルのスペアに接触したのも。情報を得るために『お母さん』の権力を使うことも厭わなかった。それで、××の背負うであろう傷が無くなることはないと知っていたけれども。その負担を少しでも軽くするためだった。その為に、ケンが必要だった。

ユキノの頭の中には、三人一緒にいた日々が色濃く残り続けている。それがユキノの原動力だった。せめて自分がいなくなる前にもう一度だけ三人でいられたら、という我儘を叶えるための今回の旅行。どのような決断を××がしようと、受け入れるつもりだった。


「……なんで、ケントがいるんだ」

「えー? だめだった?」

 明らかに嫌そうな顔をしている××に向かって、ユキノは満面の笑みを向ける。そんな二人の様子を見ながら、気まずそうな顔をするケン。

「いつかの約束は『三人で』海に来ることだったでしょ? 僕がそうしたかったから、呼んだんだよ」

「……俺の誕生日祝いとか言ってたくせに」

「ちゃんとお祝いの気持ちはあるよ! あ、お菓子食べる? 今日もいっぱい持ってきたからね!」

「そうじゃない」

××はあからさまに口を尖らせた。ユキノは二人の様子を交互に見ながら、そっと安心したように笑う。

 海まではバスを乗り継ぐ。もっと早くいく方法もあるけれども、どうせならゆっくりとした時間の流れを楽しもうという心意気だった。それが××とケンにとっては地獄のような長さに感じたのだろうが。

 本当のことを言えばケンは勿論、××も既に相手を恨んでいるわけではなかった。ユキノの顔を殴ったことは未だに根に持っていたけれども、この気まずい空気の主な原因は長い間話をしていなかったせいでもあった。お互いに、どんな話をすればいいか、どんな話をしていたのか忘れてしまったのだ。

 バスから見える天気はお世辞にもいい天気とは言い難い。今にも雨が降り出しそうであったし、風に乗って水の匂いもした。海に着いても、広がる光景は一面の灰色であることは想像に難くなかった。そんな天気を少し残念に思う一方で、これからするべき話にはむしろ、そんな曖昧な空模様の方が合っている気さえした。甘ったるいお菓子を三人でつまみつつ、元通りの日常を再び描き出す。バスの換気口から流れてくる空気に磯の香りがのった頃には、ある程度の話ができるくらい言葉が紡がれるようになった。

「そろそろ、お茶とか飲みたくなったんじゃない? 持ってきたけど飲む?」

「「欲しい」」

「二人ともそんなに喉乾いてたなら早く言ってくれればよかったのに」

「ユキノがこんなにお菓子持ってくるからだろ」

「甘いものばっかり選びすぎ……」

「どうしても、甘いものが食べたくなっちゃうんだよねぇ」

「美味しいからいいけど。あんまり食べ過ぎると病気になる」

「ごめんて」

 ユキノから見たケンと××は、まるで兄弟や双子のように仕草や口調が似通っていた。本当に長い間会話していなかったのか疑いたくなるほどに。××のその話しぶりがケンの真似であったと思えないほどに。けれどもユキノは、思い描いていた通りの情景が今目の前にあることを幸せだと、その絶頂にあるのだと感じることができている。この光景が、今日を境に遠ざかってしまうことも。

 車窓には海が映りこんだ。ケンにとっては初めてで、××にとっては二度目のその光景が。ケンと××にはその光景が懐かしさを持って見えた。予想通りモノクロの景色ではあれど、ユキノには少し眩しく映った。

 バスを降りて砂浜を三人で歩いた。波の音が静かに迫っては遠のく。強すぎず弱くない、優しい風が身を包んだ。ケンと××の間には未だに埋めきらない微妙な間隔があったけれど、二人は隣を歩いていた。海岸には海に入らないよう注意する立て看板が至る所にあり、景観を破壊している。

「入っちゃダメなんだって」

「そりゃそうだろうな。いっぱい雨水含んでるだろうし」

ケンが水平線を見ながら答える。

「海がしょっぱいのかどうかみたいな話したよね」

「泳げるかどうかみたいな話もしたな」

 今度は××が答えた。

 二人分の背中を見つめながら、ユキノは後についていく。

「泳げるようになったか?」

「……馬鹿にするなよ? お前が学校に来なかった間に練習したからな?」

「本当かよ? 昔は犬かきで精一杯だったくせに」

 ――よかった。まだぎこちなさはあるけど、ちゃんと話ができるようになったみたい。

 前を歩く二人は、きっと自分を置いて未来へ歩いて行ってしまう。ユキノにとってそれは祝福すべきことだった。二人は大人になれる。そこに自分がいなくとも、きっと今の二人ならば大丈夫だろう。

バスでここまで来たせいもあって、既に日は傾きかけている。もう少しで自分の手元よりも向こうは完全な闇に包まれるだろう。足音も波の音がうるさくて聞こえなくなる。

自分の方を見ずに話を続ける二人を見ながら、ふと、ここで自分だけ歩みを止めたらどうなるのかユキノは気になった。二人が気付かない幸せを願う我儘と気付いてほしいと願う愚かさ。次に、二人についていくのを、生きるための頑張りを放棄してしまいたい怠惰に気づいた。そして、せめて限界までは足掻きたい傲慢さに気付いた。人としての感情が、こんなにも相反するものばかりで、複雑で、形容しがたいものだと施設では学ばなかった。その複雑さに気づいて、身体が高揚する。苦しくて息ができないのに、気持ちが良くて、足元が揺れるような感覚だった。

 ――言わなきゃいけないな。

そう思うたびに二人から遠のいたように感じた。歩みが遅くなった。声が出なくなりそうだった。気付かないで、気付いて、こっちを見て、見ないで、いなくならないで、どこかへ行って、どこへも行きたくない、どこかへ消えてしまいたい……あぁ、人間はかくも怪奇な心というものを持ち合わせて、どうして真っ当に生きていられるのか。おかしなことに、ユキノは今、自身がスペアでよかったと喜ぶ苦しみさえ感じている。

 ――あのね。

 その背中に向けて、話しかけたつもりだった。言葉は声を出した本人の耳にすら届かなかった。その事実に、ユキノは驚いた。ここにきてすっかり恐怖が身体を支配しつつあったのだ。


「――お前に話さなきゃいけないことがあるんだ」

 その言葉は、ケンから発せられた。

 三人の歩みが止まる。一人は下を向いてうつむいていて、もう一人はこちらをまっすぐ見つめていた。やがて二人ともがこちらを見据えた。目の前の二人がアイコンタクトを交わして、それから口を開こうとして、言い淀む。違う顔なのに二人とも同じ「顔」をしている。何かを決したような。自分を憐れむような。その表情に、××は縮まらない差を未だに感じてしまった。

「この世界のことと、僕たちと取り巻いている状況とこれからについて」

 一つ一つ、ゆっくりと語られる言葉は、××の身体に重く沈み込んだ。はじめこそ何かの作り話のように、奇想天外な話。語られる言葉が増えるにつれて、示される証拠が増える。証拠は今までの世界が、透明なガラスに覆われたゆりかごであったことを示した。

「僕は、××の細胞から作られたクローンで、オリジナルのための身体提供者なんだよ」

 深く深く。不気味な浮遊感と、鎖につながれた足の重み。隠されていた真実は、時として夢物語よりも美しく、奇異で、残酷だ。

 「僕は一年後、××の成人になるその日から、もう、一緒にいられないんだよ」

隣を歩いているはずのケンも、後ろに続いていたユキノも、自分よりもずっと遠い位置にいるように××は感じた。いや、遠い位置にいるのではなく、二人の向かう目的地とは逆の方向に自分一人歩いてきてしまった疎外感。

「これから先、もう三人で会えないことが運命なら、どうか僕を殺してほしい」

 それが会心の一撃を決めた。

「……は」

「『僕』がどんな未来を選んでも三人ではいられない。だから、他でもない『君』に決めてほしいんだ」

 別れを告げるその表情は、月明かりの光を背に受けて輝く。月は幸せと悲しみと喜びと儚さを映し出す。作り出された空に映し出された、その輝きは偽物。されど美しいと感じるのは、いったいなぜだろうか。

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