第7話 嵐

 手術が終わった。未だ麻酔で目の覚めないホタルから管が引き抜かれていく。その様子を傍らで見ているのは母親と、ケンであった。兄の執刀するその手術を、兄に頼んで見せてもらったのだった。

 ホタルの手術は大学病院で行われた。心臓の移植に加えて、病で使い物にならなくなったそのほかの臓器、皮膚のほとんどがスペアと差し替えられた。

「……ホタル」

 ケンがつぶやいた。それはどちらを指すのか、ケン自身にもすでに分からなかった。しかしながら、その横で歓喜に涙する母親に共感して、酷く安堵してしまう。その安堵にも罪悪感が押し寄せてくる。この感情の波は、諦念を以て平穏を待つしかなかった。

「ケン、今日は少し話そうか」

 手術後の経過観察と母親への説明を終えたヒロが話しかけてくる。その声に怒りや憎しみはなく、あくまで兄弟としての優しさのある声だった。ケンはヒロと話すのが怖かった。両親から感情といったものを向けられたことはなく、向けてくるとしたらヒロだけだったのだ。そしてヒロの優しさは、いっそうケンを不安にさせた。

 幼いころ、施設から出たケンの最初の問題が、他人との距離の図り方だった。何をやったら怒られるのか、何をやったら仕返しされるのか、他人との関係を手探りで構築していた。大人や先生に悪戯や冗談を仕掛けるのもそれが原因だったのかもしれない。大抵の大人たちは、もうやっちゃだめだよ、困った子だねと呆れながら窘められることが多かった。そうやってケンにとってわかりやすい感情を向けられるのは居心地が良かったのである。✕✕もケンにわかりやすい感情を向けてくれる一人だった。

 その一方で、ヒロは何を考えているのかわからなかった。あの両親のように全くの無感情というわけでもなく、窘めることもしない。ケン自身のすべてを見透かすように、それさえも受け入れるように返答するのだ。

「ケンはいい子だな」

 自分はヒロに恨まれるべき生き物であることは理解していた。その恨みの刃を包み隠して接してくれるヒロが、いつか自分が何かしでかしたときにそれで酷く自分の心をえぐるんじゃないかと不気味だった。今もそうだった。そんな不安を抱えながら、ヒロの前に立っている。体を傷つけられるよりも、心尾を傷つけられる方がよっぽど跡が残って辛い。

「ケン、どうした?」

「……いや、別に」

 ヒロはそっとケンの頭に手を置いた。

「話をしようか」

「あぁ」

「……単刀直入に聞くが、ホタルの手術のことはどうやって知ったんだ?」

 ケンは迷った。どうするべきか。話すか、話さないか。話すにしても、どこまでをどのように言うべきか。ユキノはスペアなのだ。施設を出た自分が、スペアとのかかわりを持っていること、そのスペアが自分のオリジナルと関わっていること、それを話せば自分もユキノもきっとただでは済まない。

 大人たちの決めたルールを破る恐ろしさは、痛いほどケンの奥深くに染みついている。施設で、出来損ないだったスペアが処分されるのを見た。逃げ出そうとした彼らが無慈悲な最期を遂げたことを知っている。代わりはいくらでもいるのだ、そう教えられる。

「聞き方を変えようか。おそらく施設の内部からバレたんだろうと目星はついてる。ケンは施設の誰かと関わってるのか?」

「……」

「ホタルのスペアと友人だったんだろう」

 ヒロの声は、いたって変わりなく穏やかだった。かといって恐怖が消えたわけではない。

「それを知って、何もしないって約束してくれるか?」

「ちゃんと話してくれれば」

迷いは変わらず、覚悟だけが欲しいとケンは思った。

「……××のスペアが、ユキノが教えてくれたんだ」

ヒロは少し黙ったまま、ケンの目を見つめた。その眼は言葉の真意を探ろうとしているのか、批難されているのかわからなかった。

「彼は『ユキノ』という名前は誰が付けたんだ?」

「……××」

「そうか」

 しばらくして、ヒロは一つの論文を取り出した。

「ケンはドッペルゲンガーは知ってるか?」

「知ってるけど……?」

 ユウの質問の意図は、ケンにはくみ取れなかった。

「どうして施設のスペアたちは隔離されているんだと思う?」

「……それは」

 ケンはその答えを知らない。幼いころはずっとそこにいたというのに。その意味を考えたこともなかったのだから、当然だった。

「ある実験結果が、そういう仕組みを作り出したんだ。後にその結果がはまるでドッペルゲンガーの二人を映したようだと言われた」

「スペアを使って、実験をしたってことか?」

「そうだな。『出来損ない』烙印を押されたスペアたちが酷いことをされるのはケンも施設にいるときに見ただろう? スペアは人間と同じであって、違う生き物だ。元の細胞一つあれば、いくらでも複製ができるからな」

 ヒロの言葉が、ケンを蝕んだ。

「じゃあ、どんな実験をしたっていうんだ」

「簡単に言うと、スペアとオリジナルが共存できるかを実験したんだ。勿論、実際のオリジナルを使うわけにはいかないから、オリジナルだと言い聞かせて育てられたスペアを使ってね」

 ヒロの顔は、言葉は、ケンの兄としてではなく、研究者としての立場を示していた。

「オリジナルの近くにスペアを置くことができれば、不測の事態に陥ってもすぐに臓器の提供ができると考えたんだろう。しかしながら、その実験は失敗だった。どの実験の結果も、片方が片方を殺そうとしたり、または自死したり。共存は不可能だということを、結論できる結果ばかりだった。スペアとオリジナルは、多少の違いはあれど基本的な顔のつくりや体格がとてもよく似ている。そして『お互いがお互いである』と認識した場合に、特に怒りや悲しみといった強い感情を引き出すことが確認された」

 ケンは渡された論文に軽く目を通す。確かにヒロの言った通りのことが書かれていた。その死に方さえも、凄惨な写真とともに詳細に記されていた。

 そのデータを見ながら、過去の記憶がよみがえる。スペアの墓場と呼ばれたあの場所。記憶から消し去りたい地獄絵図。耳鳴りがあの日の悲鳴のように聞こえて視界が歪む。自分たちには生き物としての尊厳でさえ与えられていない。どこまでも、この世界はスペアが人間として生きていくのに適していない。それを改めて確認して、ケンの表情は青ざめていく。

「スペアはそのような事態を避けるために厳重に隔離されている。たとえ、オリジナルの両親であっても本来は、スペアのことを知ることはできない。しかしながら、何かあった時にすぐに対処できるよう、学校の近くに施設があるんだ」

「待ってくれよ、じゃあユキノは……?」

 ユキノは恐らく、××に初めて会ったその時に気づいたはずだった。××が自身のオリジナルであることを。そして、この論文の通りであれば怒りや悲しみといった制御できないほどの感情がユキノを支配している。しかしながら未だ××は生きていて、そしてユキノ自身は××のためを思って行動している。そうでなければ、半年も引きこもっていたケンにわざわざ手紙を持ってくることはしないはずだった。

「××のスペアが施設から抜け出してしまったのは、本当に偶然だった。本来ならば、何万分の一という確率でしか誤作動を起こさないはずの警備システム、それも逃亡者を一人も逃がさないための何重にも組み込まれているシステムが、彼が逃げるときだけ全て誤作動を起こした。

 まるで奇跡だと誰かが言った。そして其の奇跡は今、新たな奇跡になり替わろうとしている。

『スペアとオリジナルの共存』

彼がそれを成し遂げてくれれば、子供たちを守る研究は飛躍的に前進すると考えられている。だからこそ学者の間では、彼らの行動は逐一監視されていて、そしてその生く末を、誰もが観測しようとしているんだ。

 タイムリミットはオリジナルが十六歳になる誕生日の夜。ここまでの話は既にスペアには伝わっているそうだ」

「じゃあユキノは、大人に利用されているのがわかっていて××のそばにいるのか?」

「……そういうことだな」

 訳が分からなかった。

ケンの脳裏に浮かんだのは、かつてのユキノの表情だった。多くの大人に囲まれながら、染みついた仮面の笑顔を振りまく姿。いや、笑顔と言っていいのかもわからない。その表情はケンから見れば、ただ目を細めただけ。口角を引きつらせただけだったのだ。あの口からこぼれる嘘も、その嘘に酔いしれる大人たちも心底気持ち悪いと思っていた。

「気持ち悪い」

 自身の口からこぼれてしまった言葉を、他でもないユキノが聞いていた。その仮面の唯一見えるその瞳が輝いた様に感じた。

「ねぇ、さっきの言葉どういう意味?」

それは大人に見えない場所でそっと仮面の下を晒すユキノだった。大人たちには明かりの灯らない、暗い闇のような目を向けているというのに。月のような青さがケンを見つめていた。その顔を知ってから、ユキノに対して感じていた不快感はどこかへ行ってしまった。

「お前は気持ち悪くないのかよ、あんなに褒められて」

「……え?」

「アイツら、気持ち悪い。××が偉いやつのお気に入りだから、周りに合わせるように褒め称えてて気持ち悪い」

 その表情は、笑顔だった。恐らくその時のユキノは気付いていなかっただろう。何かに救われたかのような表情。一瞬だけ照らされたその瞳。笑みを隠せない口元も。そんな風に笑っていればいいのに、と思わなくなかった。

「まぁ、褒められるのは悪い気がしないから……」

ユキノはすぐに仮面を着けなおした。なんだか狐につままれた気分だった。なんとなく、その仮面の下への興味が消えなかった。

「あんなに顔を引き攣らせてたのに? お前、変な奴だな」

 お互いにそれ以上の言葉はなかった。それからすぐに施設を出ることになったから、ケンとユキノとが話すのもそれが最後のはずだった。

 あの日。文字通り奇跡的な再会を果たしたあの日に、ケンが見たものは月蝕の如き不気味さだった。大人たちに囲まれ、放たれた全ての言葉、表情を鏡のように反射するユキノと、大人に向かって素直でまっすぐな××。ここまで対照的な「同じ」人間がいるのかと不思議に思った。と、同時にそれに惹かれてしまった自身がいた。だからこそ、三人の日々を受け入れていたのだ。それは大事な日々。今となっては思い出となりつつあるのだが。

 兎にも角にも、大人を心から好いてはいなかったであろうユキノが、進んで大人の役に立とうとしているこの状況はケンを混乱させた。しかしながらそれだけではない。

「……こんなことを、俺に教えていいのか」

 本来ならば、元スペアとはいえ、研究者の身内とはいえ、漏らしていい情報ではないはずだった。

 自身にスペアがいた、という話を一般的なオリジナルが知るのは成人を迎えてからだ。成人を迎える際に、頭蓋骨内に疑似神経電極を埋め込む手術が行われる。この電極が巨大な空と繋がっているために、人間は天候を予知することが可能になる。そうして人間とってスペアは必要なくなるわけだ。こんな話を人間たちにしても、人間たちは何の感慨も抱くことはない。自分の細胞がたった一つなくなった、自分たちを守る残基が一つなくなった。その程度の認識なのだ。知らぬ場所で見知らぬ誰かが、自分には全く関わりなく消えようとその程度なのだ。

 では、ユキノと××はどうだろう。あの二人は勿論「オリジナルとスペア」で、しかし「友人」でおそらく「かけがえのない」関係。××はユキノが死なねばならぬ状況を知った時、人間と同じように無関心でいられるはずがない。嘆くだろうか。悲しむだろうか。この世界に絶望してふさぎ込むかもしれない。かつてのケンのように。どんなことになろうと、そのような××は見たくない。ユキノが死ぬ結果を受け入れられない。だからこそ、ケンがこの実験に介入して結果を捻じ曲げてしまうことも考えられなくないはずだった。

「俺が、この実験を壊す可能性だってあるだろ」

「だからだ。俺はこの実験で、誰かが死ぬという結果を回避したいから、ケンにこの話をしたんだ」

 ヒロは毅然として、続ける。

「多くの人間は、スペアをただの保険としか思わない。スペアたちに人間と同じ意思や感情があるとは思わないし、ましてやどんな悲劇が起こっていたのかなんて知ろうともしない。スペアたちも自身が移植のために生きていて、絶対に救われることはないと知る由もない。こんな悲しい話はないと思う。そんな悲しい話をこれ以上生み出さないための実験でもあると、俺は思う。もしスペアとオリジナルが共存できたなら、スペアの苦悩を人間も理解できるはずなんだ」

 ヒロはここまで話して、一つ大きなため息を漏らした。その表情は、何か意を決したようにケンには見えた。ヒロは言葉にすることを躊躇いながら、続ける。

「……何があっても、ユキノを殺さないでくれ。どうすればいいのか、今のケンにはわからないだろうが、その方法はユキノが知っている」

 ケンは、顔を引き攣らせて笑うしかなかった。そんな彼の様子を見て、ヒロは小さな声で謝罪した。それは誰の耳にも届かなかった。

「……嘘をついて、ごめんな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る