第6話 ジャイアント・インパクト

 傘に雨粒の当たる音がする。本来なら雨の日に外に出てはいけないけれど、友人の為なら仕方ない。きっと彼もそうするはずだから、自分もそうした。後悔は全くなかった。

 そもそも、ルールならとっくの昔に破っていた。

施設にはいくつかルールがあって、幼いころからそれを守るように教育される。教育されたとて、守らない子供というのはいるものだ。自分がかつてそうだったように。

勉強なんかしたくない。運動もできない。楽器を弾くのも、本を読むのも何もかも大嫌い。でも、遊ぶことは好きだった。狭い廊下を走り回って、大声で歌を歌って。大人たちもきっと幼い時分にはほとほと世話を焼いたことだろう。

そんな子供たちも、いつかは真実を知って大人になる時が来る。それは恐らく✕✕が六歳になるくらいの時。正確な時間は分からない。スペアの成長は大人たちの裁量次第だから。兎にも角にも、そのくらいの時期に施設の大人たちは子供たちを「実験場」に連れて行った。

実験場、と言いつつ、そこはスペアたちの「墓場」だ。まるで悪夢のように、足元がおぼつかない悪寒を未だに覚えている。凄惨な人体実験と阿鼻叫喚。生きたまま腸を引きずり出されるなどまだ優しい方だ。人間としての形を保てぬ生き物、生きているのかわからぬ代物。まさに地獄絵図と言うにふさわしい。大人たちが何をしているのかはわからない。でもそれがとてつもなく「苦しいこと」であるのはよくわかった。

「お前らが出来損ないだとあんな姿になるからな。よう覚えとき」

 少し年配の男性が言った。

「大丈夫よ。これから沢山お勉強して、オリジナルよりも優れた人間になれば痛いことは何も起こらないわ。頑張りましょうね」

 自分の手を引く女性が言った。

 どちらも穏やかに笑っていたのが一層恐ろしかった。

 全く、幼いころにあのような光景を見せるなど、倫理的にどうかしていると思う。一方で倫理も道徳も、全ての「人」が持つ権利でさえスペアには与えられていないのだと思い知った。

 当然、あのような光景を見せられてルールに従わない子供などいない。文字通り死に物狂いで勉強し、芸や技術を身に着ける。両親に愛されることは本当の目的ではない。生き残るため。死なないため。苦しまないため。時々「出来損ない」と烙印を押された子供たちが目の前でどこかに連れていかれた。数日後に彼らは帰ってくる。だけどもそれが本当に彼らかどうかはわからない。それも恐怖を煽った。時を重ねるごとに生存本能は、オリジナルに対する恨みへと変わる。

 僕も死ぬほど勉強して、時には寝る間も惜しんでペンを走らせた。「苦手だ」などとは言っていられないのだ。連れていかれたくない。苦しいことはされたくない。怖い。寝ている間に、まだ見ぬオリジナルに置いていかれることが怖い。そんなことを思いながら、日々を過ごすうちにいつの間にか施設の中では優秀な生き物になっていた僕。

 ××に出会う、ちょうど三年前に初めて体調を崩した。施設の教室で、子供たちの真ん中で、倒れた。僕の記憶では唐突に視界が真っ白になって、少しばかり気持ちの良い夢を見ていたような気がした。次に目を開けた時、かつて自分の手を引いて笑った女性が目の前にいたから自分は連れていかれたのだと思った。ベッドの上に拘束された身体と高熱で回らない頭は、焦燥と逃げ出したい本能を呼び起こす。

「俺を、殺さないで、お願い、まだ、頑張れる、から」

 必死に目の前の女性に懇願した。泣いていたと思う。汗だったかもしれない。懇願と一緒に暴れまわった。拘束具を外したい。苦しいのは嫌だった。

 女性は、注射器を手にした。

「大丈夫よ。まだ殺さないから」

 暴れる身体を、数人の人間に取り押さえられた。一発だけ殴られて、意識が揺らいだけれど気絶したら死ぬと思った。抵抗も虚しく、注射は打たれてしまったけれど。

「解熱鎮痛薬と鎮静剤を打っただけ。殺さないわ」

「ほんとう、に……?」

 まだ、取り押さえられたままだったけど、大分力が抑えられていた。もう殴られもしなかった。

「貴方は特別よ? 貴方は可愛い子供だから」

 女性は注射器を置いて、そっと僕の頭を撫でた。可笑しくもこの状況下で、安心を覚えてしまった。

「貴方を生かしてあげる。そのためにここに呼んだのよ」

 何という僥倖。僕に、俺に舞い降りた一つ目の奇跡。かつて不気味に感じたその穏やかさに、その時は安堵してもう一度眠りについた。

 次に話をしたのは、熱も下がり拘束具も外れた状態だった。薬は嘘ではなかったらしい。それだけで、幾分も女性の話を信じる気になれた。女性から聞いたのは、スペアがオリジナルと入れ替われることは滅多にないこと、どれだけスペアが優れようとも「両親」にそれが伝わることは滅多にないこと、スペアが生まれた理由、そして施設に閉じ込められてる理由。

それら全てを聞いて、簡単に言えば絶望した。あれだけの努力が何も功をなさない。倒れもしたというのに。話を聞きながら、また涙が零れていった。止まらないそれが尽きるまで、その人はそっとなだめてくれた。

「でもね、生き残る方法はこれだけじゃないのよ。本当は知られていないけれど、もう一つだけ。『施設で働く』という方法があるの」

 本当に優秀な子供は稀に職員の推薦を受けて、職員の仲間入りを果たす。そうすることで、死ぬことも実験場に送られることもなくなる。

「勿論、推薦の条件に優秀であることが求められるけれどね。貴方はそれを満たしているし、まだ頑張れるってさっき言ってたから問題ないわ」

 少しばかりの希望。甘い言葉。勿論すぐに受け入れるほどの正直さは当の昔に置いてきてしまった。

「どうして、俺に……?」

「……私もここの子供だったのよ。そうして選ばれたの。でも子供たちを教育できる自信なんてなかった。愛せる自信もなかった。言うことを聞いてくれない子たちばかりで……。だけど、だけど実験場に行ったあの日に、怖がった貴方が私の足にしがみついて手を強く握ってきた。それだけ。それだけで私は、貴方を愛せる気がしたの。貴方なら守ってあげたいと思った。貴方のために何でもしてあげる。私は貴方を本当の子どものように思っているのよ。だから貴方も、私のことを母親のように想ってくれたら……そうしてくれたら何でもしてあげる」

 かくして、不思議な秘密の偽親子関係が始まった。施設側にはバレていたと思うけど、咎められもしなかった。きっと何年もの間、そうやって人員確保をしていたのだろう。思い返してみれば、職員の対応も。個々の職員によって優遇している子供もいれば排斥されている子供もいた。お気に入りの子は、推薦対象なのだろう。それがわかってからは、勉強だけではなく人格も身に着けようと努力した。多くの職員から気に入られれば、生き残る確率も高くなる。必死に媚を売った。誰からもかわいい子供になるために。

「君はとてもいい子供だな」

「ありがとうございます。〇〇先生のおかげですね」

「まあ、すばらしい」

 そういう生き方を知ってからは、感じていた辛さも無くなった。

「流石は私の可愛い子ね。今日もいろんな人から貴方の話を聞くわ」

「ありがとう。『お母さん』のおかげだね」

「貴方は本当に愛おしい。でも、困っちゃうわ。間違えても他の人の子供にはならないで頂戴ね?」

「大丈夫だよ。俺は『お母さん』だけの子供だから」

 母と呼んだその人は力強く抱きしめてきた。そうして頭を撫でてくる。

「愛してる」

 きっとそう。愛されるためなら、生き残るためならなんだってできる。仮面を繕うことも、嘘をつくことも、身体(・・)を(・)投げ売った(・・・・・)って(・・)。なんだってしてやる。

「愛してる」

 それは願い。俺なら、愛してあげられるし愛されることもしてあげられる。施設の大人たちも、その多くが子供たちであったように愛されることを望んでいて愛することを望んでいた。だから俺が叶えてあげた。施設の大人だって「子供」だった。身体は成長しても、知能が成長しても、心は子供のまま。俺は、無条件に愛をあげた。

 それは呪いだ。生にしがみつくための、呪い。自分が汚くなっているのはわかってた。でもきっと、生きていくならその分だけ汚れるのだから、どうなっても大丈夫。感情も傷だらけ汚れだらけの身体にも、見ないふりをして生きていけば大丈夫。振り返れば自分が惨めで堪らなくなる気がするから、無視しないといけない。悟られないように悟らないように。

そうしていつも、心というものに違和感を持っていた。心はどこにあるのか。思考とは何が違うのか。見ない振りをしながら、興味はあった。心という醜い感情があることを自覚したのは、ケントとの出会いのせいだった。

今ではケンちゃんと呼ばれている、優秀な元スペア。彼と出会ったのは、楽器を弾いていた時。二人一組になって発表するように促されて、ペアになった。ケンちゃんはホタルと組みたかったようで、随分と嫌そうな顔をされた。それは兎も角として、演奏は合格点を取って早々に終わらせた。

「お疲れ様。やっぱり××。貴方の演奏が一番素敵ね」

「ありがとうございます、先生の指導の賜物です」

「本当に貴方は何をさせても素晴らしい子ね」

 その頃にはすっかり殆どの職員のお気に入りになっていたから、授業の最中に大袈裟に褒められることが多くなった。他の子供からはいろいろと思われていそうだったけど、面と向かって言われるわけでもないからどうでもよかった。

「……気持ち悪い」

 そっと後ろで聞こえた。ケンちゃんの言葉。やっぱり俺のやってることは気持ち悪いんだなとどこか納得した。だけれども、ケンちゃんの言葉は予想外の方向に飛んでいった。

「お前は気持ち悪くないのかよ、あんなに褒められて」

「……え?」

授業終わり。面と向かって言われたその言葉は、俺への悪口ではなかった。

「アイツら、気持ち悪い。××が偉いやつのお気に入りだから、周りに合わせるように褒め称えてて気持ち悪い」

 盛大な勘違い。だけれども、ぬるま湯に浸っているような感覚だった。確かにここ数年間で「お母さん」は偉くなっていて、その気を引きたくて褒めている職員もいたけれども。全員がそうというわけではない。先ほどの職員に至っては本当に見当違いだった。

「まぁ、褒められるのは悪い気がしないから……」

「あんなに顔を引き攣らせてたのに? お前、変な奴だな」

 この言葉は言い得て妙だ。変なところで人をよく見ている子だと思った。間違えれば死ぬかもしれない環境で、随分と綺麗な考えを持っていて少しだけ興味が沸いた。だけれども、それだけ。ここで生き残るのに、彼への興味は必要ないこと。これも見ない振りをすることに決めた。

「××、今日は少し物憂げな顔をしているわ。何かあったの?」

「……ううん。何もないよ。少しだけ、気になることを言われただけ」

「あら、誰に言われたの? もしその人が嫌なら、私が何とかしてあげる」

「ううん。大丈夫だよ。ありがとう『お母さん』」

 その人はいつものように抱きしめて、頭を撫でてくる。そうして髪を整えるように指先を通した。

「貴方の髪は本当に綺麗ね」

「『お母さん』が毎日、整えてくれるからね」

 事実、髪の毛一本から爪先まで余すところなくその人に整えられていた。もはやこれは偽親子関係ですらない。この人のお人形遊び。それはわかっていても、口にはしなかった。口にすれば待っているのは死のみ。どれだけ身体を勝手にされようとも、生存本能だけは捨てられないように設計されているらしい。

「私は貴方の為なら何でもしてあげる。そのためにこの施設の権力を握ることもするし、貴方に傷をつけた職員を実験場送りにすることだってするのよ。だから気になることがあったらできるだけ早く言ってね。この前みたいなことは、許さないからね」

 ここには、子供たちに傷をつけてはいけないというルールがある。いつでもオリジナルにパーツを入れ替えられるように。子供同士での喧嘩は勿論、職員が子供に手をあげることもしてはいけない。だけれども、ここにいるのは歪んだ愛情を持つスペアたち。当然ながら「そういうこと」を求めてくることもあるわけで。その職員は俺の身体を痛めつけた。それを痛いと思うことはなかったが、できた傷跡を見て痛そうだと他人事のように思った。大きく腫れあがったせいで、この人にバレてしまった。骨が折れていたらしい。

 当然ルールを破った職員は追放されるわけだが、この人が「俺の為に」権力を得ていたために無駄に厳罰な処分となってしまったわけだ。その時の傷はすっかり治ってはいるが、未だに引き摺り続けるこの人の執念も大概だと思った。

「うん『愛してるよ、お母さん』」

 その言葉を放つ、俺の顔はやはり引き攣っていたと思う。

しばらくして、俺の顔が引き攣っていると指摘したスペアがオリジナルと入れ替わった時、胸の奥に何かがつかえたような痛みを持った。どんなことをされてもどんなことをしても、痛みを感じることのなかった身体が反旗を翻したように制御できなくなった。そして唐突に施設を抜け出したくなった。

施設の外に出たのはその日が初めて。それは二つ目の奇跡。外に出られると思ってもなかった。行く場所も行きたい場所も何も知らなかった。「身体」の赴くままに、足を動かした。行きついた場所が、学校で君のいる音楽室だったのは偶々。

本当に偶然だったのかは知らない。きみから引きはがされた細胞が元に戻りたくなったのかも。今はそんな風に考えている。××に初めて見て、心の底から愛おしいと思った。それと同時に、いろんな人が僕に抱いていた感情を本当の意味で知ることになった。

僕とは違って勉強もできないようだし、なにか特技があるわけでもない。其れなのに、純粋で疑うことを知らない素直さと前向きさを持つ××は眩しかった。自分の失った何かを持っている気がした。ずっとそばで見ていたいと思った。

今まで自分の中に積もっていた感情。恨み、辛み、嫉み、僻み。それは僕の感情ではなかった。施設の大人たちが植え付けた、偽りの感情。××を恨むように仕向けられたのだ。一瞬でも恨みを抱いた僕は、そんな汚い感情を知らない君に救われてしまった。

恐らく自分の持つ感情が、オリジナルとは違うことを僕は知っている。でも生まれから君と違う僕が、普通の感情を持てるわけがない。試験管の中で生まれ育った愛情が正しい形をしているわけがなかった

今日だってほら、教室の窓から心配そうにこちらを眺める君を見つけた。馬鹿、なんでそんなことしたんだって僕の冗談に怒りながらタオルで水滴を払う。そんな時に嬉しいと感じてしまう僕はどこかおかしいんだろうな。 

もしも普通に育っていたら? スペアじゃなくて人間として生まれていたら? 一度持ってしまった汚い感情は、形を変えても消えないみたい。それを嫉妬と呼ぶのだと、××が教えてくれた。嫉妬はいつしか独占欲に代わっていく。××が好きで、大好きで。振り向いてほしいし、受け止めてほしい。でもきっとそう思っていた施設の人たちに僕が無関心を示したように、きみも同じことを僕にするかもしれない。恋愛感情のように強烈で家族愛のように残酷で自分を愛するように歪んだ形の感情が傷つきたくない卑しさと混ざって訳が分からなかった。

彼が悲しむことはしたくない。彼に喜んでいてほしい。だから彼の為なら何でもする。雨の日に出かけることも、喧嘩別れした相手を無理やり学校に来させることも。僕がいなくなった後も君に悲しんでほしくないから、そのための準備をする。

不思議だと思う。僕は××で、君は僕なのに。スペアがオリジナルを好きになるなんて。まるでそれは、ナルシストのようだとも思う。

でも君は、僕にユキノという名前をくれた。君は僕との境界線を引いた。輪郭を持った新しい僕。僕は君の細胞で、きみとは違う心臓を持っている。でも僕の体は、君のもとに戻りたがっていて、××の体温も優しさも全部が痛い。君に会うたびに、心臓が動いていることを確認してしまう。今だけ、今だけだから許してね。そんな懺悔を押し殺したままに。

僕の存在価値は、奪った君が与えてくれた。

なんて素敵な話――。


 いつの間にか、ユキノは寝てしまっていた。微睡む視界に移る見慣れた顔。ユキノを抱きしめて、すやすやと眠る××。すっかり朝日が昇っていて、教室は明るさを取り戻した。こんな幸せな時間にさえ、終わりはつきもの。

「あとちょっとで、きみに打ち明けられる」

いつもユキノはその終わりを考えている。××に悔いを残さない終わりを。

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