第5話 マドンナリリー

 それは気温が暖かくなり始めた時期のことだった。外に木に、蕾がついていた。もう花は咲かないと言われていた木に。大人たちは、もう咲かない花を咲かせていた時の写真をマリに見せては

「きっと綺麗だったろうね」

「また、咲いてくれないかしら」

などと零すのだ。写真には薄桃色の花が咲き乱れる様子が映っていた。昔の人はその木の下で「お花見」という宴会をしていたのだそうだ。おいしい料理やお酒、遊び道具と面白い話を持ち寄って、咲き乱れるその花を愛でていたのだという。お花見をすることはできないだろうけれど、せめて花だけでも見られればとマリはその花の見えるところまで近づいて行った。

 木の下についたとき、漸くその蕾を確認できるほどの高さにないことを気づいた。怒られるかもしれないという不安とともにマリは木についている蕾を登って確認したが、いつ咲くのかはわからなかった。

「いつ咲くんだろ……でも蕾がついてるから、みんなに教えてあげたいな」

 きっと喜んでくれるだろうと「みんな」の反応に思いを馳せた時のことだった。

「何やってるんだ! 危ないよ!」

 マリはしまった、と思った。大人たちに怒られることはわかっていたけれど、木に登っているところを見られるとは思っていなかった。早く降りなければ、という焦りから下を見た時、恐ろしくなってしまった。どうやってここに登ってきたのだろうか、マリの伸長以上に高すぎる。視界の端で、小さな男の子が心配そうにこちらを見ていることに気付いた。

「どうしよう……」

「降りられそう?」

「むり……」

 マリは男の子が誰か呼びに行ってくれはしないだろうかと期待した。けれど彼はそうはせず、つづけた。

「僕が言うとおりに、下りられる?」

「え」

「僕が下から、足をかけられる場所を教えるから」

 きっとこの子はそれ以外するつもりはないだろう、ということがマリには感じられた。仕方なく彼の指示に従って一歩一歩歩みを進めた。風が吹くたびに、落ちてしまうんじゃないかと恐怖心でいっぱいだった。頭の中は彼への罵詈雑言で満ちていた。けれどその指示は的確で、段々と下りてくるにつれて、彼に従っていれば安全に戻れる気がしてきた。

「そこは左足をかけられるから。あ、だめだよ。飛び下りるのはだめ。そこまで来たら一層気を付けて下りないと怪我するよ」

 彼の言った、怪我をする、という言葉にマリの手には力が入った。地面に足がついたとき、体中から力が抜け、代わりに疲労感が全身を巡った。

「安全に下りられてよかったね、ヒジリさん」

「ヒジリ……」

マリは自分をヒジリと呼んだ彼の顔を初めて見た。よく見れば、ここにいる子供と違って色のある服を着ている。なるほど、ヒジリという名前はもう一人の自分の名前であると勘づいた。それ以上のことは何も言わずに、話を合わせたほうがいいだろうと感じられた。

「ヒジリさん、どうしてあんなことしたの? ここは本当は来ちゃいけないところだよ」

「それは貴方も同じじゃないの?」

「それは……でも心配したんだよ。、それにあんな危ないこと、女の子がしちゃだめだよ」

「女の子は木に登っちゃいけない? 危ないことは男の子の特権なの?」

 マリの返答に男の子は悶絶した。別に男の子とか女の子とか関係ないんだけど、などと独り言。なんだかその様子が可愛いと思ってしまった。

「……ふふっ、心配してくれたんだよね? ありがとう。私、どうしてもあの木についた蕾が見たかったの」

「君も……?」

 目の前の彼の蒼い眼がキラキラと輝いた。

「え、えぇ。あの花がいつ咲くのかなって」

「多分、来月には咲くよ。昔はもっと早い時期に咲いてたみたいだけど、今は咲くことも難しいから」

「ねぇどうして、途中で飛び下りちゃダメって言ったの? きっと飛び下りても怪我しなかったよ」

「なんか、そういう話を昔読んだんだよ。安心したら危ない……みたいな」

 何を聞いても何かが返ってくる。目の前の男の子の知識量にマリは尊敬の念を抱いた。少しだけ、羨ましくもあった。

「頭がいいんだね」

「そんなことない。だって運動はできないし。それでみんなにも笑われちゃうし」

「そうなの? でも、頭がいいって大事なことだよ」

 男の子はマリの顔を凝視した。その表情は少し驚いているようにも見えた。少しの気まずい沈黙の後、男の子は口を開く。

「……ねぇ、明日もここに来ない?」

「来てくれるの?」

 純粋な疑問を発した後、やらかした、とマリは感じた。ここはマリにとって住処であり、学校であり、居場所だった。「施設」とはそういう場所だから。だからこそ、来てくれるのかとまるで自分がここにいることが前提のように聞いてしまった。

「あははっ、君は明日もここに来るつもりだったんだ?」

「う、うん」

 なんとなく話が淀みなく進んだことに、マリは安堵した。

「じゃあ、明日も学校終わりに。誰かに見られたらだめだよ。怒られちゃうからね」

 夕日が朱く、二人を染める。彼は、塾があるから、と帰っていった。「塾」がどんな場所かわからないマリには彼の話す言葉の一つ一つを知りたいと思うようになった。今日聞いた話も、施設の図書で探せばあるのかもしれない。それ以上に、あした、明日という響きと約束はマリの心を満たしていった。


 翌日もそのまた次の日も、彼は飽きもせず蕾の木の下にやってきた。他愛のない話をして、彼の知識に驚いて、彼が帰ったら彼の話を調べて。いつもと違う生活が、いつもの生活に変わっていく。その、喜びをマリは感じていた。

 マリはもともと「優秀な」子供ではなかった。運動はできる。けれど、勉強はだめだった。机に座っていられなかった。一方で好奇心ばかりはあって、だからこそまず自分で見たい、知りたいという気持ちが勝るのだ。

 男の子――ルカとの出会いは、マリを大きく変えた。大人たちは驚愕した。

「まさか、あのマリが本を読むようになるなんて」

「マリが勉強してたわ!」

 マリにとっては、勉強というよりも、興味の延長だった。ルカの話す全ての話を、分かりたい、彼と同等に話せるようになりたかった。

 けれど、彼との会話はいつも疲労感を感じた。マリは、外の世界で生きるヒジリ・マリに成りきらなければならない。話に齟齬があったら、怪しまれてしまう。いつか自分の境遇を彼に話すことができたなら、と思わなくもなかった。けれどそれは、許されてはいなかった。

 彼の話を聞くたびに、ヒジリ・マリを羨ましく感じた。優しい両親、可愛い弟がいて、多くの友達に慕われて、彼女は人気者らしい。対してマリに家族はいない。だからファミリーネームもない。友達は、いない。皆勉強ばかりで、頭の悪いマリの話し相手にはなってくれない。施設の大人たちも、子供らしく純粋なマリを可愛がってくれるものの、愛してくれているわけでもない。何よりも、ヒジリ・マリはマリよりもずっとずっと長い時間、ルカと一緒にいられるのだ。

 頭が良くなれば、オリジナルと交代できる、なんて希望も頭の悪いマリには希望ですらなかった。でも、もし本当にそうならば、ルカとずっと一緒にいられるのかもしれない。そんな儚い夢を彼女は心に抱いた。苦手な勉強も少しだけ頑張ってみようと思えた。


 彼と出会って三十五日目の日に、ルカは一輪の白い花とともに約束の木の下で待っていた。

「え、いいの? ありがとう!」

 綺麗な花だった。香りが強く、眩しくなるほどの白い花。

「ちょっと、手に入れるのに苦労したんだ。君に渡せてよかった」

「きれいな花ね。素敵」

「……僕、本当は花を育てる仕事に就きたいんだ。きれいな花も大昔に絶滅してしまった花も、ここに植えてある木も」

「きっとできるよ!」

 ルカは照れ臭そうに、複雑な顔をした。

「ねぇ、なんていう花なの?」

「……内緒。調べてよ。この花の名前」

 ルカの口元は笑っていた。

「ヒントくらい頂戴」

「そうだなぁ、君によく似合う花言葉だと思うよ」

 その言葉がうれしいとマリは感じた。清らかで凛としていて、可愛らしいこの花が自分に似合うと言ってくれたこと。そういう風に見られているのだと、マリは感じた。

「うん、調べるよ。知りたいから。ねぇ、また明日もここに来てくれる? わからなかったら、またヒントを頂戴」

「……ごめんね。ちょっと用事があって、明日も、ううん多分一週間くらいここには来られないんだ」

 ルカは笑うのをやめた。マリにとってその顔は、少し怖いとさえ、感じた。

「そっか……一週間後には、また来てくれる?」

「うん、きっとくるよ」

 次の約束をして、ルカは帰っていった。

「どっちの君が本当なの……?」

 彼の言葉は、マリには届かなかった。届かぬようにルカは呟いた。その目には、かつてのような光はなかった。夕日が、蒼と赤の混ざった色で怪しく光る。


彼の背中を見送ってすぐに、マリはその花を本で調べることにした。あまりにも持ち歩くものだから、大人たちはマリが不思議なものを持ち歩いていると気付いてしまった。

「マリ、施設内は変なものを所持するのはだめだ。見せなさい」

「……お願いします。取り上げないで」

「この花は施設には咲いていない花だ。それに、この時期にも本来は咲かないんだよ。どこで、これを見つけたの?」

 そこにはマリを可愛がってくれる大人たちの姿はなかった。上から恐ろしい顔が覗き込んでくる。真っ黒で、目だけが痛く輝いている。

「えっと……」

「どんな経緯でこれを見つけたのか、言えないなら少しばかり謹慎していてもらおうかね」

「少しって、どのくらい……?」

「二週間くらいかな」

「にしゅうかん……」

 二週間ではルカとの約束の日に間に合わない。約束は破りたくなかった。かといって、ルカとのことを大人たちに話せば、ルカがどうなってしまうか、容易に想像がついた。

「……外の、花の蕾がついた木に登って外に出ました」

 嘘を吐いた。あの木はこの施設では最も高い。だから高いところまで登れば外に出ることができる。理論上は可能だった。そんなことをする人はいないけれど。

 本当は、その木ではなく、三つ隣の木の根元のフェンスに穴が開いていた。けれどそこは、ルカが入ってきてくれる入口だから。ばれたくなかった。

「花はどうしたの?」

「花は……」

「まさか、盗んだの?」

「……」

 涙がこぼれてきた。ルカだったら、彼くらい頭が良ければこの場を凌げる嘘がつけたかもしれない。自分の頭の悪さを呪った。

「……君がそんなことをするような子ではないと、私たちは思っていたんだよ。二週間、ちゃんと自分の部屋で謹慎して心を入れ替えておいで。謹慎中、勉強できるように、本は読めるようにしてあげるから」

 花は、取り上げられた。いらない優しさだけを置いて行かれた。

「……花の名前、調べなきゃ」

 ルカとの約束を、守れない。もうこれ以上、約束を破れない。ただ一つ、花の名前を調べるという約束だけは破りたくなかった。花の名前を調べながら、マリの頭はルカのことでいっぱいだった。ルカは約束を破った自分に会いに来てくれるだろうかと。会ったらまずは何を言うべきだろうか。謝ることは数知れず。けれど「友達との約束」を破ったことは、マリには初めてのことだった。


 二週間後、マリはいつもの木の下でルカを待っていた。何時間か過ぎてから、ルカはマリのもとを訪れた。目も当てられぬほどに、ボロボロの姿で。学校に持って行っているのであろう鞄には、見たこともない傷がついていた。いつも綺麗だったルカの服には泥が。靴は片方なくなっていて、靴下は赤くなっていた。

「ルカ……?」

「どうして、こんなことするの?」

 ルカの眼は、殺意と怨恨を帯びていた。

「どうして、そんなにボロボロなの……?」

「君が一番知ってるはずじゃないか」

「え……?」

 ルカは鞄を落とした。鞄の中から、折られた鉛筆や破られた教科書、ひどい落書きをされた本と虫の死骸が飛び出した。

「……まさか知らないの? 君の『お友達』にこんなにされたのに?」

「わたし、には、ともだちは……」

「嘘つき。じゃあ、どうしてこんなことするの? どうして僕が虐められてるのに、アイツらと同じようにわらってるの?」

 何も言えなかった。言葉の代わりに、涙が流れてきた。悔しかった。ヒジリ・マリは。

「……ねぇ、教えてよ。僕を虐めて嗤う君と、僕の話を聞いて笑う君はどっちが本物なの?」

 ルカはどれだけ苦しかったことだろう。ヒジリ・マリとマリの違いにどれだけ悩まされたことだろう。けれどそれを弁明する手段を、マリは持っていなかった。どこまで説明していいか、わからなかった。

「……わたし、ヒジリ・マリじゃないの」

「どうしてそうなるの、君はヒジリ・マリじゃないか」

 彼は、泣くこともせずマリの顔を見つめた。マリの顔を見つめているのに、その目にはマリが映っていなかった。

「わたしには、ファミリーネームなんかないの。家族だっていない。友達は、あなたしか、いない。わたしは、ただのマリなの……ううん、本当は『マリ』ですらないの」

 外の世界では、まだ子どもたちにスペアの「子供」の話は教育されていないだろう。だから、説明しても、うまく伝わらない。どう説明したって、彼はマリをヒジリ・マリだと誤解し続ける。絶望だった。

 夕日は沈んで、檳榔子黒に染まっていく。

「もう、ここには来ないよ」

 暗闇から、ただ一言。ルカの声だった。


 マリは訳が分からなかった。持っているものを簡単に捨てられるヒジリ・マリが。羨ましさは憎さに変った。素敵な家族、幸せな生活、ルカ。その全てを、奪ってやりたい。奪って、そうして、謝りにいきたい。施設から抜け出せたのなら、きっとルカに説明できる。説明して、謝って、仲直りしたい。

 もうルカに会えない、という状況はマリを一層勉強に向かせた。ルカに会いたい、という願いはマリのわずかな希望になった。

「謹慎してから、マリは変わったわね。すごくいい子になったわ」

「はい、心を入れ替えましたので」

 大人たちにだって媚び諂うようになった。成績も上がった。運動も続けた。施設のクラスメートたちは彼女を慕うようになった。けれど、彼女は相手にしなかった。勉強しなければ、頭が良くならなければ、ルカに会えないという焦燥感が彼女を縛った。

 あくる日、講義前にクラスの全員が集められた。こういうことは度々あった。大抵は、落第者や新しく入ってくるスペアの子供たちの名前が呼びあげられるのだった。神妙な空気の大人たちが、厳かに説明を始めた。

「……以上のスペアは処分されました」

 マリには信じられなかった。そこに彼の名前があったのだ。彼の名前を聞いたとたんに、聞こえてくる言葉が途切れ途切れになった。動画の速度を変えた時のように早くなったり遅くなったりもした。段々と気分が悪くなって、倒れた。


 倒れたマリが運び込まれたのは治療室だった。目を開けた時、白い天井が見えた。そうして傍らで心配そうにこちらを見つめる大人の姿があった。

「……マリ、大丈夫?」

 声が、出なかった。代わりにまた涙がこぼれた。

「……どうしたの? 自分も処分されるかもしれないって、怖くなっちゃったの?」

 大人は飲み薬と水をマリに差し出した。

 「処分」「ルカ」そうだ、ルカのスペアは処分されたのだとマリは改めて認識した。スペアが処分されるとき、大体はオリジナルに何かしらあった時だ。病気や怪我、そして死。

 嫌な予感がマリの頭に浮かぶ。

「どうして、ルカのスペアは、処分されたんですか」

「……ルカと仲が良かったの?」

 仲が良かったわけではない。むしろルカのスペアを見ていると胸が痛くなっていった。スペアの背中に向かって、スペアに聞こえないように何度も小声で謝るほどには、見ているのが辛かった。けれど、今は、そういうことにしておいた方が、都合がいいだろう。

「そう……本当はだめなんだけどね。特別よ?」

 その大人は、一枚の印刷した紙を持ってきた。新聞というものらしい。その、紙の左端に小さくルカの名前が載っていた。

 彼は自殺した、らしい。経緯も簡略的に載っていた。

「オリジナルの死亡が確認されたから、スペアを保持している必要がなくなったのよ。一応、死んだオリジナルの代わりにスペアを外に出すことも検討されたらしいけれど、親がそれを拒否したせいで彼も処分するしかなくなったの」

 涙が次から次へと溢れる。

 彼が死んだ、ことで彼に弁明することはできなくなった。年齢的にも「スペアの子供」について全く知らない時期に、彼は死んだ。

 外の世界は恐ろしい、と絶望するしかなかった。マリにはもう微塵も、ヒジリ・マリと入れ替わりたい気持ちも起きなかった。

「わたし、もう、外の世界にもいきたくない。本当の家族とか、友達とかもいらない……」

 その世界には、ルカがいない。ルカのいない世界に行っても、意味がない。悲しさがこみあげてきた。もし、もしも私がヒジリ・マリだったら、彼を虐めるなんてしなかった。彼と友達になっていた。それも、もう叶わぬ夢となった。

「……マリ、顔を洗っておいで。それからゆっくり話をしよう? お腹も空いたでしょう。温かいシチューをもらってきてあげる。ね?」

 マリの落胆ぶりに驚いたのだろう、その大人はマリのために手を尽くしてくれた。彼女の促しを聞き入れ、顔を洗いに行ったマリは鏡に映る自分の顔が憎らしかった。そして、醜いその顔は、かつてマリをにらんだルカと同じ目をしていた。


 マリはもう、オリジナルと入れ替わろうとはしなかった。数年後、彼女はこの施設内で働いていた。


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