第4話 海の底に沈むもの
昔のこと。××と出会うより前のこと。今の両親に引き取られるよりも前。
ケンは誰にも言えない秘密を持っている。それは自身が元々「スペア」と呼ばれる生き物だったことだ。
この世界には、危険が多すぎる。日の光は強すぎて皮膚が焼ける。雨に当たりすぎれば病にかかる。空にはいつも雲がかかっていて、空気がとても汚い。免疫力のない子供では簡単に死んでしまう世界だった。
この世界の誰かが言い出した。
「子どもを守らなければ、この世界から人間がいなくなってしまう」
人間は素晴らしい知能とそれを実現できる技術を持っていた。人間たちは、一つの細胞から別の器官の細胞を生み出せるようになった。その技術を基に作られたのが「スペア」。俗にいう、クローンである。
ケンはケントのスペアだった。スペアたちは、オリジナルの体が傷ついたときに、身体の器官を提供するための保険だった。この世界では、子供たちはみなこの保険を使うことが義務付けられていたのだ。
スペアに拒否権などはない。しかしながら、生存欲求はあったのだ。だからこそスペアたちは勉強、運動、その他技術を磨いた。オリジナルを超え、オリジナル以上に「両親」に愛されるため。
それは限りなくゼロに近い可能性。本来なら彼らが彼らを育てる施設の外に出ることは許されないからだ。そしてそれは大人がスペアを利用するための口実。それを知らずにスペアたちは努力を重ねる。例えば、脳を移植する場合。筋肉を移植する場合。どんな場合でもより優れた器官を移植できるように、大人もその手伝いをする。
ケンは特例だった。限りなくゼロに近い可能性で、オリジナルよりも両親に魅力的に映ってしまった。その時、神様が本当にいるんだと、そのくらいにケンは奇跡を祝福し感謝した。それがケンにとっての苦しみの始まりだとは知らずに。
中学生に上がる頃、ケンは素行の良い子供ではなくなっていた。勿論幼いころのように大人にちょっとした悪戯をする程度ではない。学校の備品を壊したり「家」にある家財を破壊したり。わざとテストで低い点数を取ったり、同じような素行の悪い人間と交流を持ったり。人と喧嘩したこともあった。始めのうちは、多くの大人がケンを心配してくれた。
「何かあった?」
「辛いことがあったなら何でも相談して」
「私はあなたの味方よ」
その言葉が、憐れみが、ケンには少しばかり心地よかった。自身に向く感情が自身のためにあると思い込んでいたのだった。
実際には、そんなことはなかった。自分の悪事をあの「両親」が揉み消していることに気づいてから世界は反転した。甘言の裏にあったのは「両親」へ売るための媚びへつらいや権力へのゴマすり。ケンの為ではなくいつかお零れを貰う、大人自身の利益のためだった。「両親」も結局は形だけで、ケンへの叱責も心配もくれなかった。世界のすべてが泥にまみれたような、胸に何かがつかえた気持ち悪さを帯びた。かつて親友と呼んだ友人の顔さえ黒く塗りつぶされて見えるほどに。
「お前は昔からそうだったよな。俺に何か隠してばっかりで、そのくせ俺より大人な振りして」
同じころ、××は生意気口が一寸ばかり得意になった。一寸だけ。だけども、その心根が変わらなく優しいものであることはケンもわかっていたはずだった。
「何が言いたいんだよ。別に俺が何しようと××には関係ないだろ」
「……関係なくない。そうやって暴れるくらいなら相談してくれ。何がしたいんだ」
「わかるわけないだろ!」
自分だって何がしたいのかわからない。それを他人である××がわかるわけもない。頭の片隅では冷静に理論的に、客観的に状況を理解することができていた。しかしながらそこに感情がついてこられないのだ。話したい言葉に辛い感情や苦しい感情が絡みついて、火薬となる。傷つけるつもりがなくとも、銃弾のように相手を貫く。慎重に組み立てた思考も言葉も全て崩れて口を飛び出していく。何を言ったのかわからずともそれが目の前の××を傷付けているのは分かった。
「周りを傷付けてるのは、ケント(・・・)なのに。どうしてお前が被害者面するんだよ」
何気なく言われたその名前が最も深く傷を抉ったような気がした。恐らく他意はなかっただろうが、そのように感じてしまった。此奴だけはその名前を言わないだろうと思っていたのに。勝手に失望した。
ケンが感じていたものは、世間一般的に言われる「生き辛さ」というものだ。まるで水の中のように呼吸のできない環境で無駄に息を吐かぬようじっと堪えていた。息を吸うことさえ許されない苦しみの中で顔を真っ赤にしながら、呼吸のできるタイミングを逃さぬよう耐えるのだ。それを逃してしまえば次のタイミングまで生きていられるかわからない。タイミングが来たら、どんなに格好が悪くとも惨めに水かきをして、もがいて、あがいて、肺に空気を満たす。他人が浮き輪や船を使って生きているなかで、そのような器用さはケンになかった。
××の言葉は、確かに真実だ。自分は他人を傷つけている。呼吸をするために他人の足を引っ張り、浮き輪を、船を奪おうとしている。それが悪いことであることも勿論知っている。でもそうしなければ生きられないから。其の生き方しか知らないから。真実は時として砲弾よりも重い。ナイフよりも鋭い。銃弾よりも深く傷を残す。他人を傷つけずにどうやって呼吸をしろというのか。それとも息をすることさえ諦めろというのか。諦めて深く沈んでしまえと、××は言いたいのだろうか。
このような思考も「真実」の通り、自分が被害者面していると示していた。いっそのこと思考も全て投げ出して何も考えず何も感じないならどれほど幸せなことだろう。矛盾を孕んだ自分が、世界の中で何よりも汚かった。
××の言葉に何か言い返したい衝動とこれ以上傷つけたくない感情がせめぎ合う。それは言葉ではなく行動という形で放たれた。右の拳を××へ向けて振りかざしている自身にケンはふと気が付いた。それを止めようと藻掻けども、喧嘩で鍛えられてしまったその拳には体重が乗っていて止められないこともケンにはわかってしまった。
自身の手が何かにぶつかった瞬間、××だけでなくケン自身でさえ目をつぶっていた。それは無意識で。××の心だけでなく体でさえも傷つけてしまう、醜さを見たくなかった。
恐る恐る目を開いたとき、飛び込んできた景色は想像とは違っていた。ケンが殴っていたのは××ではなくユキノだった。
殴った頬の下に血が通って紅潮していくのがわかった。少しずつ腫れていくのも見て取れた。恐らく口の中を切ったようで、血が出ていることも。ユキノが感じているだろう以上の痛みを、ケンの心は負った。
「だめだよ、ケンちゃん。ぼくの好きな『顔』を傷つけないでよ」
その言葉と同時かそれより少し遅れて、ケンの左頬に衝撃が走った。殴られた。ユキノではなく、××に。
殴られた時、××の言葉は他の奴らの甘言とは違うことにようやく気付くことができた。否「目を背けていた」ことに気づかされた。だけれどももう遅い。目の前には同じ顔が二つ。一人は目も当てられないほどに恐ろしく、獣のように鋭い眼光をこちらに向けていた。もう一人の顔は恐ろしいほどに穏やかできれいな顔。
「許さないからな」
その一言で、ケンはようやく呼吸を諦めることができた。
……。
かつて施設から出るとき、心残りだった友人がいた。その友人は天真爛漫で、純粋無垢、とても素直で弟のようなやつだった。いつも勉強や運動を一緒に行うくらいには、仲が良かった。施設を出るとき、ケンには施設と関わる権利を剝奪された。だから彼がどうなったのか、知るすべもない。ケンが××と仲良くなったのは、××が友人と重なって見えたからだということもあった。友人とは違って××は少しばかり生意気口が多く素直でないところもあったが。そんな特徴さえ、もし自分と友人がスペアとして生まれていなかったらこんな関係を築けていたのかもしれないという感傷をケンに抱かせた。そう思うたびに、今はその繋がりを断ち切ってしまった後悔と自己嫌悪に苛まれるのだが。
……。
ケンがそのように過去に思いを馳せる一因は、今目の前にいる青年のせいだ。今日は雨だというのに、一通の手紙を持ってやってきたその青年は穏やかに口を開く。
「君宛に手紙だよ。ケンちゃん?」
数年前、イレギュラーにもケンと××の前に現れた少年。今は青年に成長したが、未だに××と交流している―――彼もスペアだった。
「……ユキノ」
「久しぶり。元気にしてた? ××もケンちゃんがいなくなっちゃったからすごく元気がないんだよね。早く戻ってきてよ」
「戻れるわけないだろ」
「……まぁ、そう言うと思ったんだよね。だから、無理やりでも君に戻ってきてもらおうと思って」
ユキノは軽薄な口調で語り続ける。そんな彼が差し出した手紙は雨の中歩いてきたためか少しだけ湿っていた。
「見るのはいつでもいいけど、早めに見た方が良いって忠告だけしとくね」
そういって意地の悪そうな顔で笑った。
「お前のそういうところは昔から気にくわなかった」
その笑顔に意地の悪い冗談で返してやった。ユキノは表情を崩すことがなかった。その代わり、声を落として告げる。
「ごめんね。きみとは違って、もうそろそろタイムリミットが近いんだ。あと一応言っておくけど僕、別に殴られたことは怒ってないから。」
どこまでも、意地の悪い青年だ。
手紙はかつての友人からのものだった。スペアに名前はない。だからオリジナルの名前で呼ぶのが施設内では一般的だった。友人のオリジナルはホタル。夏の夜にその命を散らして美しく光り輝く虫の名前。
「見てよ! ケント! 僕の名前、こんなに綺麗な虫の名前から来てるんだ!」
「へぇー」
「興味なさすぎじゃない? ちょっとは僕に関心持ってよ!」
「お前じゃなくてオリジナルの方だろ。その虫が綺麗だったって俺たちが見に行く機会なんて来るかわからないぞ」
そんな会話が、つい昨日のことのように思い出される。
手紙の内容は、オリジナルの臓器移植に彼の臓器が使われること。拒否権が無いからそれを拒ず、結局一度もホタルを見に行けなかった悔しさ。そして自分の代わりに「ホタル」を見に行ってほしいこと、そんな理不尽ばかりの文章だった。
「ばか、今は地球のどこも汚くて。だから蛍なんか見に行けるかよ……」
雨は地を洗い浚い滅茶苦茶にする。窓にぶつかる雨粒が、少しずつ激しさを増し始めた夜のこと。
××は一人、教室に残っていた。
たとえ子供が雨で家に帰れなくなったとしても、学校にはある程度の生活ができるよう調整されていた。××は、今晩ずっと雨が降り続くようならそれを利用しようと教室で呆然と時を過ごしている。
××は放課後、少しの間、眠ってしまったらしい。気付くと雨が降り始めていた。そして近くにいたはずのユキノはいつの間にかどこかへ行ってしまった。帰ってくるのか来ないのか、どちらでもよかったがこの雨に濡れていなければいいと考えていた。
何気なく眺めた窓の外に傘をさしているユキノを見た時、心臓が止まるかと思った。笑顔でこちらに手を振るユキノに、聞こえるはずもないのに帰って来いと××は怒鳴ってしまった。
「馬鹿、なんでよりによって雨の日に外に出てるんだ」
学校の備品からタオルを持ってきて、ユキノの頭を拭った。備品ということもあって、タオルは固く乾いていた。学校の人間じゃないユキノに使っていいものか、少しだけ悩んだが別に咎められはしないだろう。
「えへへ、頭、冷やしたくなっちゃって」
「だからってこんなことするなよ」
自分の中に怒りがこみあげてくるのを××は感じた。それは顔にも表れている。その顔を見ながら、それでも尚、ユキノが軽薄な態度を取るものだからつい水滴を拭う手に力が入る。
「ねぇ、××。心配した?」
「……した」
「そっかぁ」
いつか、三人で遊んだ晴れの日のような、空の青がこちらを見つめる。吸い込まれそうなその蒼さがいつからか怖くなった。あまりにも綺麗すぎて、いつか消えてなくなるんじゃないかとそんな不安が浮かぶようになった。
まだ追いつけないその背丈。ユキノは少しかがんで××に顔を近づけた。それから、背中に手をまわしてぎゅうっと××を抱き寄せる。
「まだ拭いてるんだが」
「うん、ちょっと寒くなっちゃった」
「外出るからだよ」
雨音が教室に響いた。
今日はやはり、学校に留まることになるだろう。備品の中から敷布団とブランケットを持ってきた。ユキノはもうずっと、××の胸元に耳を当てて丸くなっている。身動きが取れないその不自由さを、××は一晩中謳歌することとなった。
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