第3話 嵐の前に
時刻は朝十一時過ぎ。学校は間違いなく遅刻。外から差し込む日の光は薄暗かった。カーテンを少しだけ開ける。窓の外では、庭で草いじりをするヒロの姿があった。
ヒロはケントの兄である。とはいっても、自分の兄ではない。ヒロは弟に注ぎ込む愛情と恐らく同じだけの愛情を自分にかけてくれる存在だった。功利主義の保護者から生まれたとは思えぬほどの、優れた人格者だった。ケンは普通の家庭よりもたいそう裕福な家で育った。部屋の壁や至る所を飾る美術品。ブランドで拵えた家財。この家に価値のあるものはない、ヒロのいじる庭を除いて。そう、ケンは考えていた。ヒロの手入れした草花は曇りばかりのこの環境でも綺麗に美しく、そして強かに咲き誇っている。
ここ数十年で、地球は急速に環境が劣悪化した。その一つの変化が、この曇り空であった。地球に届く紫外線が急速に増えたために空に大きな天井を作った祖先たち。彼らが作り出した「雲」は、過剰な光を遮り、人が生きていけるだけの環境を作り出した。と、まぁなんとも神話のような話である。しかしながら実際には矢継ぎ早に制作されたものだ。欠陥だらけの負の遺産を将来の子供たち、つまりは××たちに残してしまったのである。
それがわかったのは「雲」の開発のたった数年後のことであった。最初の数年間、それは計画通りに順調に進んだ。誰もが画期的で素晴らしくこの上ない計画だと信じていた。「雲」の開発が終わり、空を巨大な機械が覆う。曇りだけでなく、晴れも雨も雷でさえ映し出せる巨大な機械。そんな巨大な機械を、だれが制御するのだろう? 否、誰も制御できなかった。
数百回目の雨が降った時、既にそれは恵みの雨ではなくなった。原因不明の病が人々を襲う。ある者は高熱にうなされ、ある者は顔を青くして呂律が回らなくなり、そしてある者は命を落とした。雨の中に工業用排水が紛れ込むようになったらしいと、そういわれている。しかしながら、制御できない機械を下手に調べまわす手段もなかったのである。
日の光に照らされれば死んでしまう。かといって雨に当たれば、病にかかる。だからこそ子供たちは傘を持ち歩き、屋外で遊ぶことはない。
空にあるのは「雲」ではなく制御のできないゴミである。人間は数十年の間で、瓦礫を開発し、画期的な瓦礫を作るために資金を投じ、そうして空高く瓦礫の山を建設した。
この歴史を学んだ時、ケンの中には大人への不信感が芽生えた。それは後に「大人への不信感」ではなく「人間としての背徳感」へと変わっていった。人間は何も変わらない。使えもしないものを、使いこなしたと勘違いして後悔するのはどの時代も変わらぬことだ。人間となってしまった自分が、酷く汚く苦しいものに思えて仕方なかった。
そうは言いつつも、与えられた環境で生きていくしかないのはどの時代の「子供」も同じである。そしてそれが大人から与えられた環境であることもケンは早くから気付くこととなった。
今現在、ケンは学校を半年近く行っていなかった。青少年の発育にある思春期と呼ばれるものだと、両親や学校の大人たちは思っていた。しかしながら、それだけではないとケン自身では感じていたのである。
「生まれてこなければよかった」
何気なくつぶやいた言葉は、誰に放ったわけでもない。言葉は溶けるように暗闇に飲み込まれていった。
窓の外で庭いじりをしていたヒロも既に家の中に入ってきた。
雨が降ってくる。それを予測したのだ。
同時刻、外の雨を眺めていたのはケンだけではなかった。××もまた雨を眺めていたのである。××は中等部二年の生徒であった。
彼の頭の中にあるのは、かつての友人ケントのことである。彼が学校に来なくなってから半年。大人たちは「この年齢の子どもによくあること」として、大事にはしていなかった。もともと、この時期に不登校になってしまう生徒はよくいるのだそうだ。
「ケンちゃん、また学校に来てないの?」
教室の空いた席、つまりはケントの席に座ったユキノが聞く。
「……そうだな」
××は興味なさげに答えた。
「ユキノ、お前学校にいていいのか? 見つかったら怒られるぞ」
「んー、でも今は僕がいないと××は寂しいでしょ?」
ユキノは雨を見つめる××を眺めた。
「××、すっかり昔のケンちゃんみたいだねぇ」
昔のケンちゃんは口が悪くて無愛想な感じだったけど面倒見がよかったねぇ、などとユキノは思い出話を続ける。
「……別にいい」
「良くはないでしょ。どうでもよかったらそんな顔しないよ」
「……」
「ねぇ、××。今、寂しい?」
××は答えない。少しの沈黙を破ったのは、ユキノの立ち上がる音だった。ユキノはそっと××を抱き寄せて、またいつものように頭をなでる。
「僕はずっと、ずっと一緒にいるから」
「……」
××の返答は雨に埋もれた。
紙飛行機が飛んだ。飛んだのはほんの一瞬だけで、すぐに雨にあたって下に落ちてしまった。
そばにあったもう一枚の紙で飛行機を作って飛ばした。今度もやはり、雨に濡れて落ちてしまった。紙では雨に勝つことはできない。何度となく紙飛行機を飛ばして、ようやくホタルは気付いたのだった。
ホタルの腕には数多くの管がつながれていた。口や鼻は常に空いていて、そこから呼吸をさせられている。死につつある身体を無理やり延命しようと人間の持つ知識が、ホタルの体に詰め込まれたのだ。自分の意志で体を動かすことすらできない。このような状態で、生きているのだ。その現実にいつも目をそむけたくなって、目を深く閉じていた。
目を深く閉じて、何か月何年がたっただろうか。ある時、目を閉じるのにも飽きたころのことだった。
「ホタルさん、今日から担当の先生が変わりますよ」
看護師の声がした。
「はじめまして、ホタルさん。今日から君の担当医になったヒロと申します。これから一緒に頑張っていこう」
男の人の声がした。
どうせ生きるも死ぬも同じなのに、これ以上何を頑張るというのだろう。いっそ今体にある管をすべて抜いて、死なせてくれたらいいのに。殺してほしい。本当は、もっと自由に体を動かしたい。諦めるしかない現実にそんなことを考えながら、ホタルはまた意識を手放した。
体中を管でつながれた少年が眠っていた。こんな状態でも、まだ「生きている」というのだから人間の体は何とも不思議なのだとヒロは思うのだった。
「先生、息子はまた元気に動ける日が来るでしょうか。おしゃべりできる日が来るのでしょうか」
この少年の横で泣く女性は母親だ。付きっきりの看病と、高い医療費を払うための仕事で既に満身創痍といったところか、女性らしい美しさも気品もなく、あるのはただ純粋な息子への愛情だけだった。
「私に、何かできることはあるんでしょうか?」
この言葉に、ヒロは自身の両親を思い浮かべた。
そしてゆっくりと口を開く。
「大丈夫です。貴方は愛情を持ってホタル君のそばにいてあげてください」
数年前に両親がケンを連れてきた時のことを、ヒロは思い浮かべた。
ケントはいつの間にか家からいなくなっていた。その代わりにケンが来たのだ。ヒロはケントのことを大事にしていた。兄だから、そんな理由で与えられるものは与えるようにしていたのだ。
「兄ちゃん、この問題わかんないよぅ」
「どこだ? 兄ちゃんが教えてやるからな」
幸いにもヒロは勉強が得意だったので、苦手なケントによく教えていたものだった。
「もっと勉強しないと、また父さんや母さんに怒られるぞ」
「えへへ。でも困ったら兄ちゃんが教えてくれるんだ。僕は勉強できなくても、兄ちゃんがいれば大丈夫だ!」
「全く……」
そんな会話をしながら、よくケントの頭をなでていたものだった。それが日常で、当たり前だったのだ。そんな日常は、あっけなく終わりを告げた。
「父さん、母さん、ケントがどこにもいないんだ」
「何を言ってるんだ? ここにいるじゃないか」
そう言って両親が連れてきたのがケンだった。ケンが来たのは小学五年生の時。その年頃で既に高等部までの勉強を進めており、運動やその他の技術に関しても文句の付けどころのないほどに優秀だった。
「あの出来損ないならスペアにしたわ。結果を残せない子はうちの子じゃないもの。そんな出来の悪い子を私は生んだ覚えもないしね」
平然と言ってのける両親が怖かった。それはつまり、ケントとケンの取り換えっこ。両親は出来の良い方を「残す」ためにそれをしたのだ。そしてそれは、自分が結果を残せなければ、同じことになっていたかもしれない可能性を浮かび上がらせた。
「お前は優秀だからな。これからもケントを支えてやってくれ」
両親の愛情というものは、この家においては紛い物でしかなかった。だからこそ、ホタルのために泣く母親を見て、ヒロは少しばかり羨ましいと感じたのだった。
ケン、と呼び始めたのはケンといつも遊んでいる子がケンちゃんと呼んでいたからだった。ケンは本当に賢い子だった。だが、賢い子であるが故に両親やこの家の歪さに心を痛めるようになっていった。両親やヒロからケントと呼ばれるたびに、一度顔を歪ませていたのだ。
「ヒロ兄さん、勉強を教えてくれませんか」
そんな風にいつもどこか他人行儀だった。小学五年生のころからケンはケントとは違うことを主張するかのように口調や見た目などを演じるようになっていった。
「××、今日も学校で待ってるからな! 早く来いよ」
ぶっきらぼうで、無愛想な口調。それでいて面倒見が良いため周りから慕われるようになっていった。
そんなケンを見ていて、ヒロはいつも心苦しさを覚えていた。ケントを奪われた、そんな憎しみが、恨みがケンへと向いていたのだ。ヒロ自身、それは逆恨みでありケンが何も変えられないただの子供であることも十分に理解していた。理解していたが、心は追いつかなかったのだ。
結果として、それも一端となったのだろう。壊れやすい思春期の心は簡単に崩壊した。ケンは今、半年ほど学校に行っていない。勉強は自身でしているようなので、両親は何も言わない。そしてヒロ自身も関わり方を忘れたために、何もできないでいる。
ホタルの手術もまた、ケンに伝えられずにいる。
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