第2話 彼岸花と勿忘草
久方ぶりに良く晴れた日のことだった。雲一つなく晴れたその日。いつもと同じように傘と勉強道具とゲームを持って××は学校へと向かう。教室の扉を開けると、そこには見慣れた顔が二つあった。
「ケンちゃん、ユキノ、お待たせ」
「遅いぞ」
かつて「少年」だったその子は、今はユキノと呼ばれている。××が付けた名前だった。その名前にしたのは、好きな本のタイトルだったから、という安直なもの。ケンちゃんはそれに対して、それはないんじゃないか、という反応をしていたが、つけられた本人が嬉しそうだったので良しとした。
「今日はね、お小遣いで買った新しいゲーム持ってきたんだよ!」
「三人でできるの?」
「三人でできるやつを買ったんだよ!」
出会った当初、ユキノはゲームに全く触れたことがなかった。当然ながら操作に慣れないので、ケンちゃんがいつも勝っていたのだ。もう一緒に遊び続けて一年近くになった。そうなると操作の不慣れさは払拭され、ケンちゃんかユキノか、という勝負になりつつあった。
「今日は負けないからね!」
「そういって、いつも負けてるだろ」
負けていたって、勝てなくたってこの三人でゲームをするのは楽しいのだ。××は口にはしなかったが、それは恐らく二人にも伝わっていた。だからこそ、一緒に遊んでくれているという信頼もあった。
三人で遊び始めてわかったことだが、ユキノはあまり表情が出ない。××は最初、緊張しているのかと考えていた。しかしながら、ケンちゃんと××が会話しているときや勉強しているときに不意に笑い出すことがあった。また、ゲームでケンちゃんに負けた時は少しだけ悔しそうな顔を浮かべたのだった。操作に慣れてしまってからは、ケンちゃんの方が悔しそうな表情を浮かべることが増えたのだが。
「あ、勝った」
「クッソ、負けたァ!」
「負けちゃったぁ……」
「さ、勉強しようね」
「また、勝ち逃げしやがって!」
いつかのやり取りを見ているようで、××は嬉しくなった。
「ケンちゃんにも、勝ち逃げされる悔しさがわかったかな?」
「お前は一回くらい勝てよ」
「うぐっ……」
うなだれながらも、ワークを机に広げた。ユキノはワークを持っていないので、いつもはケンちゃんのワークを覗いていた。
ユキノもまた、ケンちゃんと同じように頭が良い。運動が出来るのかわからなかったが、ケンちゃんからできるという話を聞いていたので××はいつかユキノの走るところを見てみたいと思っていた。
「あれ、今日は落書き少ないね」
「うん! 寝ないように頑張ったんだよ!」
「だから、寝るなよ」
三人で勉強を始めると、たいていは××が質問をしてケンちゃんが答える。ケンちゃんの説明で不足したところをユキノが補うように話すのだ。××にとって二人は先生のようだった。
「先生にはなれないけどね」
そう、ユキノもケンちゃんと同じように返すのだ。その時の表情がいつものように暗くなるものだから、大人になったらなれるかもしれない、という希望を話すことがはばかられてしまう。ユキノもケンちゃんと同じように自分よりも大人だから、自分よりも知らないことをたくさん知っているのだ、そう考えるとむやみに希望を話すことも良くないように××には思われて仕方なかった。
「ユキノは大人になるはどうすればいいと思う?」
「……大人になりたいの?」
「うん」
××にとって大人になるということは、ケンちゃんやユキノに追いつくということに近い。××の中には自分よりも「大人」に近い二人にいつかおいていかれそうな焦りがあった。
「大人はきっと良いことばかりじゃないよ」
「……あのね」
心の内を吐露すると、ユキノは笑った。
「大丈夫だよ。××を置いていくなんておれにはできないから」
「ケンちゃんは僕のこと置いて行っちゃうかな?」
「……どうだろうね? でもきっと彼にとって××は大事な人だから置いていくなんてしないんじゃないかな」
「そっかぁ」
「そんなに大人になりたいんだったら、××が大人だと思う人の真似をすればいいんじゃない?」
××は少し考えるふりをした。すでに真似をしたい人は決まっていたのだけれど、真似をしたらどう思われるか考えてみたかったのだ。驚くかもしれないし、喜んでくれるかもしれない。嫌味愚痴を言って、それでも嬉しそうな顔を見せてくれるんじゃないかと勝手な期待を膨らませた。
「じゃあ、これからは『僕』じゃなくて『俺』って言ってみる」
「いいんじゃない? じゃあおれはこれから『僕』って使おうかな?」
「ユキノと一人称交換したみたいだね」
ユキノなりに気を使ってくれたのだろう。やっぱり真似をしようと思っても、少しの気恥ずかしさが××にはあった。嬉しさと、そういう気配りのできるユキノに一層の憧れを抱いた。
「ケンちゃん、なんて言うかなぁ」
その時のユキノの微睡む顔。瞳には鏡合わせの××が写っていた。久方ぶりに見えた空は青く、その空の青さを吸い込むような瞳がこちらを覗くので××は照れくさくなった。気恥ずかしさをごまかすように、言葉を続ける。
「そういえば、前にもケンちゃんとこんな話したなぁ」
「大人になりたい話?」
黙ってうなづく。
「ケンちゃんがね、大人は『知りたくなかった』って思うことが増えたら大人になれるって言ってたんだよね」
「そっか」
あの時のケンちゃんの行動と同じように、ユキノは××の頭を撫で始めた。ケンちゃんが頭をなでるときは少しだけ力が入っていて、くすぐったさと痛みを感じた。其れとは対照的に、ユキノが頭をなでるときはその手の温もりと無くなりそうな弱さを××は感じるのだった。
「きっと、××は素敵な大人になれるね」
「きっとユキノも素敵な大人になれるよ」
その時のユキノの返答は、××の記憶の片隅に静かな澱みとなって残った。
かつての会話からどれほどの時が立っただろう。黒い服に身を包んで、三人は佇んでいた。空は相変わらずの曇り空で、しかしながらいつもよりも泣きそうな空だった。
その日は、××の祖母の葬式だった。
××の目は泣き腫れて、赤くこすれていた。その様子を見かねたユキノが優しく、穏やかに口を開く。
「……お祖母さんのこと、好きじゃないって言ってたよね」
「……うん」
××は、祖母が好きじゃなかった。むしろ苦手に近かった。それについて、××は以前に神様だとか仏さまだとか、非科学的なことばかり言うからなどと言っていた。本当はそれだけではなかった。
祖母は年々弱弱しく、小さくなっていった。低く折れ曲がった腰も、肉の落ちた体躯も、生きているようで死んでいるような「死に近づく」生き物が怖かったのだった。いつか祖母が死ぬと勘づいてしまって恐ろしかった。そんな祖母が家族にはその不安や感情を話さず、おそらく全てのことを神様だけに話すのも、なんだか嫌な気持ちがした。
死んでしまうまではあっという間だった。急に苦しみ出したと思えば、医療機関に運ばれて扉を一枚隔てたその緊急処置室でそのまま帰らぬ人となったようだ。××はその死に目に会えなかったし、その後も大人たちが祖母の顔を見せてはくれなかった。だから、実感がない。一方で、祖母を焼く炎の煙が立ち上がるのを見ると、悲しくて仕方なかった。何か、もっと出来たことがあったかもしれないなどと祖母の生前に微塵も思わなかった考えが浮かんでくるのだ。
「神様がいるなら、こんなの不公平だよ」
お祖母ちゃんは毎日お祈りしてたのに。淡々と口から飛び出した文句。
「やっぱり神様なんていないんだ。居るなら、お婆ちゃんはこんな死に方しなかったはずだよ」
何のためのお祈りだったのだろう。祖母は何を願っていたのだろう。それすら知らないことも、××は自身を恨んだ。
「……神様は、いるよ」
ユキノが口を開く。そのまま空を仰いだ。
「例えば、神様が奇跡を与えてくれたなら。お祖母さんはもっと長い時間生きられたかもしれない。だけど、もしかしたら神様は『与えられなかった』んじゃないかな」
「どういうこと?」
「生き物に与えられる、奇跡の回数はきっと決まってるんだよ。お祖母さんは、使い切ってたからあげられなかったんじゃないかな」
「それなら、もっと助けてくれる回数を増やせばいいのに」
神妙な面持ちのまま、ケンちゃんが呟く。
「地球上に、百数億人の命があるのに全部に手を回せないんじゃね」
同じような顔を、残りの二人もしていたことだろう。苦笑したユキノが××の頭を撫でた。
「管理しきれないなら作らなきゃよかったのにね」
「……神様も人間も、変わらないのかもな」
その日の時間の流れを、××はとても遅く感じた。泣きそうな空も、少しだけ和らいだようだ。ほんの少しだけ、辺りが明るくなった。
「……海行きてぇな」
前を見つめたまま、ケンちゃんがこぼした。
「ユキノは行ったことねぇよな? ××は行ったことあるか?」
××は頷く。
「お祖母ちゃんが元気だったころに、一回だけ。すごく広くてびっくりした」
「海が塩辛いってホントか?」
「うーん、あんまり近づかなかったからなぁ」
「××、泳げないもんね」
「えへへ」
「褒められてねぇぞ」
海に行った頃の幽かな景色が目に浮かんだ。随分と前のことだからしっかりと覚えてはいない。だけれども、海の近く独特の香りと近づいては遠のく波を思い出すことができた。
「いつか三人で行こうよ。大人になる前に」
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