第9話 我執

 優しい言葉。甘い言葉。耳障りのいい言葉。

「愛してる」

 真実さえ知らなければ、きっと喜ばしく受け止められるだろう。けれど、素直になれるほどユキノは子供ではなくなっていた。

「今日は遠くまで行ってきたのね。楽しかった?」

 優しそうな女の声。だけれどもそこには、目には見えないほどの小さな棘を伴っている。いつだったか、この声色が怖くて自分を取り繕うようになったのは。

「どうして何も応えないの? なにかあったのかしら。もしも何かあったのなら、なんでも言って頂戴。『お母さん』が何でもしてあげますから」

「何もなかったから、何もしないでいいよ」

 自分でもびっくりするほど冷淡な声が出た。女性のほうも呆気にとられたようだ。

「……どうしたの? あなたがそんなに反抗的な態度を取るなんて」

「どうしたんだろうね。……ううん、もうこんなお人形ごっこはやめようと思ったんだ」

「……お人形ごっこ?」

 目の前の彼女は、黙った。沈黙が針となって皮膚を刺してくる。彼女の視線が、ユキノの身体を嘗め回すように捉えた。鋭い視線。恐怖が背筋に走る。全身に電気が走ったような歯がゆさ。怯めば足がすくんで、声が出なくなりそうだった。今は、恐怖を見ないふりをしなければならない。

「……本当に大事で、大好きな人ができた。だからもう、貴女には付き合えない」

 これは覚悟だ。もう生に執着しない。どんな最期を迎えたとしても、できるだけ長い時間を××と過ごすための、覚悟。そのためにはどうやってもこの女性は邪魔だった。

 彼女の『愛情』は依存に近い。この実験に彼女の力が働きすぎていることは知っていた。そんな彼女だから、たとえ××を殺してでもユキノを生かそうとするだろう。そんなことはさせない。

「そう」

 目の前の女性はにっこりと笑ったまま。その笑顔が逆に不気味だった。こちらの考えが全て伝わっているようで、恐ろしかった。

「それは私よりも、大切、ということなのね? 何を怖がっているのかわからないけれど、大丈夫よ。私はそんな貴方も許してあげるわ」

 手が延ばされる。確実に首を絞めるように。逃げ出す一歩は、遅れた。力の入る指先と首筋に刺さる静かな痛み、何かが体中を巡る感覚がしてゆっくりと意識が遠のいていく。

 

 ……。


「さわらないでくれ」

 伸ばした手を、初めて拒否された。

 伝えられた真実を受け止めきれない××。いつもはまっすぐ見つめてくれるはずの瞳が、激しく揺らぐ。怒りと嘆きと、涙が目に浮かぶ。

「……今はまだ」

「ごめん。とんだ誕生日プレゼントだったよね」

 嗚呼、これが最後に送る誕生日プレゼントなんて。強くはじかれ、拒否された手は宙に浮いたままだった。拒否したのは彼なのに、彼のほうが傷ついた顔をしている。彼は昔から、自分よりも周囲の人間が傷つくことを恐れていた。だから今もユキノの驚いた顔を見て、悲しいと。そんな顔をする彼がやっぱり愛しくて、仕方がない。

「一方的にこっちのお願いばっかり伝えて、卑怯なことしてごめんね」

「……ずるい」

 そんな風に謝られたら許してしまいそうになる、音の出ない口がそう告げた。


 ……。


ゆっくりと意識が持ち上がる。

彼女と出会った、始まりの日と同じように拘束された身体が映った。けれどもう暴れたりしないし、錯乱することもなかった。

「目が覚めたのね、私の可愛い子」

 眠りに落ちるまで怖いと思っていた感情は、随分と軽減されたらしい。打たれた薬の中に鎮静剤も入っていたのだろう。

 目の前には、彼女の手入れが行き届いた道具が並ぶ。その中から鋏を取り出して、ユキノの髪を切っていく。

「髪が伸びていると思ったのよね。丁度良かったわ」

 彼女の人形遊びが始まった。

 ここできっとどれだけ彼女に言葉を投げかけても、彼女は反応しないだろう。台本通りの台詞以外は彼女の耳に届くことはない。一方で「人形が大好きな」彼女だから、人形を傷つけることもない。

「大丈夫よ、これからはなんでも『お母さん』がしてあげますからね。着替えも入浴も排泄も。何もかもしてあげる。だから……」

「おなかが減ったな。何か食べたい」

 嘘をつく。台詞なら彼女の耳に届くのだ。何度もついた嘘でも、騙される奴は騙される。騙すことに罪悪感を抱く優しい心さえ、当の昔に置き去りにしてきた。

 彼女の顔は明るくなる。

「そうね。帰ってきてから、何も食べてないものね。今日は貴方の好きなシチューの日だったのよ。本当はだめだけど、少しだけあなたの分を残しておいたの。今取ってくるわね」

 いつまでも優しい母親という夢に浸り続ける彼女は悲しき生き物だった。浮足立ったまま、食事をとりに行く彼女。その後ろで、拘束を解いているとも知らずに。

 かつて意味も分からずに囚われた拘束台は、恐怖の対象だった。けれども恐れの多くは「知らない」ことが原因で。身体が成長していくにつれて、拘束の解き方も覚えた。ここはいろんな大人がいたから、またこの拘束台に縛り付けられることもあると予想していた。何かあったとき逃げられるように。しかしながら、そもそもこの研究所は未成年の間のスペアしかいない。ある程度の自我が出てくれば皆聞き分けがよくなるため、この拘束台自体は聞き分けのない幼い子を縛り付けるためのものなのだ。

 拘束された跡が腕や首に赤く紅潮して残った。けれど、ユキノにとってそんなことはどうでもよかった。並べられた彼女の手入れ道具を持つ。そうして少しずつ、作り上げられた人形を壊した。壊しながら思い浮かべるのは、夢の続き。


 ……。


「間違えたんじゃないのか」

 ケンちゃんがユキノに話しかけた。

「間違えてないよ。大丈夫だよ。こうなることはわかってたから」

 帰りのバスの中。××と離れた席にケンちゃんとユキノは座っていた。××は落ち込んだ様子で座っていた。行きのバスとは違って、空気が重くのしかかる。

「そんなに心配なら、××のそばにいてあげなよ」

 ケンちゃんに優しく語りかけたつもりだった。

「お前が呼んだくせに、俺のことを邪険にするなよ」

 言葉というのはどこまでも難しい。受け取り手がどう取るか、言ってみないとわからないこともある。その事実を改めて確認して、少しやりすぎたかもしれないという罪悪感が今になって出てきてしまった。

「……俺は、お前も含めて三人でいたいと思ったよ」

 行きのバスの中で、気まずそうにしていたくせに。素直に自分の望みを話すケンちゃんを、うらやましいと感じた。

「それは、お兄さんのことを無しにしても?」

「……」

 ケントのことを知ってるから、おそらく彼の兄にあたる人がどのような無茶ぶりをしたのかもなんとなくわかっていた。それがわかっていて、敢えて聞いた。邪魔されたくないのもあったけれど、本当は誰かの傀儡になってほしくなかった。ケンちゃんも大事な友人だったから。意地悪な聞き方だと自身でも感じたけれど。

「……どうしたらいいかわからない。兄さんのことも大事だけど、お前らのほうが大事だと感じてる。家族ならきっと何よりも優先しないといけないのはわかってるのに。お前らと三人でいたいっていうのも、自分の気持ちなのか、わからなくなってる」

「うん」

「本当は、ユキノの意志を尊重したい。でも××にそんな決断をさせたくない」

 小声で、××に聞こえないように話していたはずなのに、ケンちゃんはいつの間にか大きな声を出していた。きっと離れた彼にも聞こえてしまっていて、それに彼自身も気づいて顔を赤く染める。

「別に恥ずかしいことじゃないのに」

 彼がいてよかったと感じた。普段なら素直になり切れないところがあって不器用だけど、優しくて繊細な人であることは知っていた。まっすぐで、だからこそ××を支えてくれる。彼のやさしさに甘えて、利用してしまっている後ろめたさはぬぐい切れないけれど。


 ……。


 きっとユキノに何かあれば、死ぬほどに心配してくれる彼らだろう。自分のオリジナルが、そしてその友人が暖かい人で良かったと今更ながら安堵している。

 着ていた服に傷をつけて、整えられた指先を深爪になるほどに切った。腕に刃を当てて、流れた血で白いシャツを汚した。そうしていたら、食事を持ってきた彼女が扉を開ける。

「なにしてるの⁉」

 温かなシチューが床に、白く飛び散った。いまだ見せたことがないほどに驚いた彼女の顔が滑稽で、やっぱり哀れだと思った。

「なにって。言ったじゃない。人形ごっこをやめるって」

「……どうして? 貴方のために今まで、何でもしてきたじゃない」

「どうして? だって、貴女が教えてくれたんでしょう。自分の好きなもののためなら何でもできるってこと」

「なら! どうして私じゃないの⁉ これからだって貴方のためになんでもしてあげられる! 貴方だって今までよろこんでいたでしょう? うれしいって言っていたでしょう?」

 言葉のすべてを鵜吞みにされても困る。成長すればするほど、真実を知れば知るほどに、本音と建前の使い方はうまくなっていくものだ。それは大人の彼女ならばわかっていて当然のはず。

「私から逃げるの。どうして貴方は思い通りにならないの。わたしは、なんでも、あなたのために」

 人間は素直じゃない。与えた愛情の分だけ、相手を思い通りにできるわけじゃない。愛情は通貨じゃない。

「……母親が嫌なら、恋人になってあげる。兄弟でも、友人でも、貴方の望む私になってあげるわ。ねぇ、それなら文句ないでしょう?」

 何を言われても、響かなくなった。上辺だけの言葉に支配されていた昔なら、振り向いたかもしれない。

「本当に僕の望む貴女になってくれる?」

「そうね、貴女がそれで私を……」

 嘘だらけの言葉はもういらない。

「赤の他人になって?」

「……え?」

 彼女が手を伸ばす。拘束台に縛り付けた時と同じように。それで靡かないと分かったから錯乱したふりももうやめたみたい。同じ手はもう喰らわない。手に持っていた鋏を彼女に向ける。

「……貴方にはできないでしょう? 私を傷つけるなんて、貴方の大好きなあの子に顔向けできなくなってしまうものね?」

「よくわかってるね。一応は『母親』を演じてたからかな」

「貴方のことなら何でも知っているもの」

 不敵に笑う彼女。そんな彼女を見てもユキノの中に恐怖はなくなっていた。勝ちを確信していたわけでも、全てがどうでもよくなったわけでもない。ただ、ただ、彼女が哀れだった。

「僕も貴女のことは少しだけ知ってるよ」

 ユキノは持っていた鋏を自身の顔に近づけた。鋭く研がれた刃が頬に触れる。冷たさが伝わった。少しでも手を、間違った方向に動かせば切れるように。

 彼女はユキノに完璧を求めている。その性格に、成績に、容姿に。だからこそ人形のように、爪の先から頭の天辺まで管理しようとする。彼女が怒りをあらわにするのはいつだって、ご自慢の人形に手を出された時だった。

 彼女の顔が曇る。焦りを以て、青白く変わっていく。

「そんなことをしたら、あの子の体に傷をつけるようなものよ? はやく鋏を下ろしなさい」

「別にいいよ。どうせ死ぬ身体だもの。傷の一つや二つ増えたところで、なにも狂いはないし」

 彼女は再び手を伸ばそうと体を捩らせる。意地でも鋏を奪い取るつもりらしい。

 ならばと、鋏を思いっきり下に滑らせる。頬に冷たさと、それに並ぶように熱が伝う。それからしびれるように痛みが走って、なにか温かいものが流れていく。

 お気に入りの顔が傷ついたことで、彼女の眼から憤りが消えた。何か守っていたものを失くしたように、意気消沈していく。既にその目はユキノをとらえてはいなかった。けれどもとどめを刺すように、血液のついた鋏で、髪を落としていく。切りそろえられた髪を敢えてぐちゃぐちゃにした。

「もう、ここには戻らない。寂しさを抱えて、貴方の言いなりになったまま生きていくつもりもない」

そのまま夜の闇の中にかけていく。頭上で輝く星の明かりを頼りに、来た道を引き返す。頭の中で、あの二人を思い浮かべながら。


 やることがあるから、と言うユキノを送り届けた後も××はまだ、混乱したままだった。むしろユキノの帰る建物、ケンには懐かしき施設を見て余計に狼狽したようだ。それは当然で、どの壁も真白く塗り固められたその建物は、学校では近づいてはいけないと教わる場所だったからだ。

「……今日、うちに泊まってけよ」

 ケンがそう言いだしたのは、余りの狼狽ぶりに××が消えていなくなってしまいそうだと不安になったからだった。

 ××は頷きもせず、ただゆっくりと後ろについてきた。その歩みがじれったくなって、手を引いて歩く。周りの建物で月は隠れてしまって、街灯の明かりが嫌に目に刺さる。

 ××の体は、まるで泥が乾いてこびりついたように固く、何かに動きを阻まれていた。思考の渦が絡まってほつれた糸となってしまった。どれだけ引っ張ろうとも、余計に強く結ばれていく。その糸が××の体を緊縛して動かなくなっていく。

 絡繰りのように手を引かれ、気づけば寒いベッドの上にただ一人佇んでいた。おそらくケンがここまで連れてきたのだろうということは理解できた。それ以上は、脳が考えることを拒絶した。窓から差し込む、街灯の一定な光は激しさと熱を伴って××を責め立てるように輝いている。目を背けたくなるほどに眩い。しかしながら、目を閉じてしまうことはできなかった。目を閉じてしまえば暗闇の中に自分の思考だけが取り残されてしまうようで、自分の存在が影の一部となることを想像してしまった。

体の中から飛び出た、何か大切なものが返ってくるまで××は眠れない。そしてその「大切な何か」というものの正体を、彼は確信していた。


ユキノがケンの家に着いた時も、××はまだ目を閉じられずにいた。瞬きでさえ意識的に行っており、最低限の回数でしか行われないために××の眼からは絶えず水が流れている。

「……ユキノ」

 名前を呼ぶ以上の言葉が出てこなかった。

 ユキノも何も言わず、音もたてずに隣に座る。そのまま××の手を握り、その胸元に耳を当てた。

「……こうして、君の胸元で、何度も心臓の音を確認しちゃうんだ」

 トクン、とまた一つ鼓動が鳴る。××の呼吸に合わせて。

しばらくの間、ユキノも××も静かに触れている体のぬくもりを共有していた。ユキノがそっと目を閉じたころ、××もまたユキノの心臓を感じるために目を閉じていた。迫りくる明かりの、熱も痛みも責めるような音も、すっかり届かなくなっていた。どちらのものかわからない鼓動を感じるたびに、言葉も思考も、一つ一つと××の中に戻ってきた。

「……いつも、ユキノが心臓の音を聞きながら安心して、俺もユキノの暖かさを感じてた」

 不思議な安心感。何度だって他人と抱きしめあったり、手を握ったり、ぬくもりを感じることはあった。しかしユキノとくっついて体温を共有しているときだけは、他人と共有したことのない懐かしさを感じていた。夜の寒さから守ってくれる、毛布のような優しく愛しく手放しがたい温もり。その理由は残酷で冷淡なものだったけれど。

「僕もだよ。××が生きてるって感じて、だから君のために、僕は何でもしてあげたいって願ってた」

 ××の顔は強張る。それと同じようにユキノの手を握る力が強くなった。それに応えるように、ユキノも強く指を絡ませる。指から腕へと力を入れて、そのまま××をベッドに寝かせる。

「今日はもう寝よう。いろんなことがあって、いっぱい考えて疲れてるんだよ」

 力の抜けた××の体はゆっくりと柔らかいベッドに沈み込んでいく。考えを巡らせることができるようになったとはいえ、まだまだ本調子とは言えぬ思考の渦はユキノのおかげでぬくもりを感じていることもありゆっくりと意識を手放そうとしてしまう。

「……目を閉じても、いなくならない?」

「今はね」

 ユキノの言葉に不安を覚えつつも、眠るために瞼を落とした。視覚情報が得られない暗闇で、感じたのは××とは違う体温のみ。その温かさはユキノが存在しているという証明。眠りの中に意識を手放そうとも、そのぬくもりを感じることだけはやめまいと、無意識のうちに××はユキノの手に爪を立てていた。

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