ずる休みと陰謀論:2

 大澤に連れられてきた個室居酒屋は完全予約制で、見るからに高級そうだった。

「さっき予約したらたまたま空いてただけだから」と大澤は言っていたが、職場近くの繁華街で偶然会うとは考えにくい。待ち伏せされていたと考える方がはるかに自然だろう。どうやって職場の所在を知ったのかは解らないし知りたくもないが、ずる休みなどせずにさっさと帰ればよかったと真取は悔やんだ。大澤がこういった形で持ち込んでくるのは、きまって面倒事だ。


 ――真取くん、持ってるっしょ。


 大澤の言葉が未だに頭から離れない。全身の血管が収縮している。

「ノンフィクション」の存在は誰も知らない。疑われても信じられても、ろくな結果にならないことは目に見えていたからだ。前者ならば当然真取は病院の受診を勧められるし、後者ならばもうまともな付き合いは叶わない。半ば人の頭を弄るような真似ができる人間と、誰が交流したいと思うだろう。


「乾杯」

「飲めるか」


 大澤に勧められた黒ビールを真取は突き返した。アルコールに弱い真取にとって、酒はうっかり正体をなくし能力を暴発させてしまう危険なものだったからだ。そもそも、酒を飲むような気分でもない。


「僕に変な力があるって何? お前、漫画の読み過ぎだぞ。昔から」

「最近のジャンプめちゃくちゃ面白いよ。真取くんダンダダン読んだ?」

「仕事で全然読めてない。ダンダダンって何だよ。餃子屋の名前か」

「嘘だろ。昔俺、鬼滅もハガレンも貸してあげてたじゃん」

「あったなそんなこと」

「そうだよ。真取くんが漫画好きになるように英才教育したのに」


 大澤はむかしと変わらず、自分の好みを相手に押し付けて来る。なのになぜか、相手は会話が終わるころにはおおかた大澤の勧めたものを好きになっているのだった。


「あの時の漫画の恩だと思ってさ。俺の仕事を手伝って欲しいんだよね」

「仕事?」


 真取は鼻で笑いそうになった。


「僕にお前の仕事が手伝えるわけないだろ」


 最後に大澤に会ったのは大学を卒業してすぐの飲み会だった。そのとき、真取は大澤の務めている企業が日本人なら誰でも使っているSNSの運営会社であると知った。大澤が格差などないように振る舞っているだけで、ふたりの間には埋めようのない市場価値の開きが存在する。


「昔から思ってたよ。真取くんの言うこと、やけに説得力あるなって」

「存在感がないから、何か言う時は悪目立ちしただけだ」

「俺が地元のやばい先輩に絡まれてた時、『警察呼びましたよ』って追い払ってくれたよね。そんな嘘にビビる奴じゃないのにさ」

「昔の話だろ」

「会社の後輩に、ずる休みの上手い先輩がいるって聞いたよ?」


 花匡くんだっけ、と大澤は肩を揺らして笑った。

 大澤の瞳の奥にはかわらず旧交を暖める和やかな光が残っていて、真取の頭の奥が底冷える。つまり、大澤はある程度確信を持って真取を訪ねて来たのだ。何故そこまで、この男は自分に付きまとうのだろう。


「僕にお前の言うような変な力があるとしても、何を手伝えばいい」

 真取は仕方なく大澤が頼んだ焼き鳥を摘まんだ。学生時代に大澤と食べたチェーン店のものより遥かに高価なはずだったが、ほとんど味がしなかった。

 大澤は満足したようにビールを飲み干して、真取を見据える。


「俺、会社辞めてさ。今は別のことして稼いでるんだよね」

「辞めた? 何で」


 大澤ほどの能力があれば、世の中を上手く渡れないことなどないだろう。

 だいいち、大澤が務めているのは誰もが羨むような大企業だ。自分から辞める理由など、真取のような安月給では一つも思いつかなかった。

 だとすれば、一人ではどうにもできない人間関係や労務環境の悩みなのか。

 そこまで考えたところで、真取は大澤が笑みを浮かべているのに気付く。

 秘密の遊びを友人に打ち明けたくてたまらない子供のような笑顔だ。

 これ真取くんにしか言わないからね、と大澤は前置いて、


「詐欺やってんの、俺」


 詐欺?

 思考の空白に墨を落としたように、その二文字は鮮明に像を結んだ。


「詐欺って犯罪の詐欺か?」


 突然の自白に、真取は愚にもつかないことを聞き返してしまった。

 これまで、違法な行為とは全く無縁の世界に生きて来た。そしてこれからも自分が法を犯すことはないだろうと思っていたからだ。そもそもそんなことを真取に教えていいのだろうか。自分はもう後戻りできない所まで来てしまったのではないか。思考がまとまらない内に、大澤が身を乗り出してきた。


「騙してるのは悪い奴だけ。ほら、陰謀論とか怪しい情報商材とか売る奴いるじゃん。そういう奴らをカモにしてるわけ」

「金に困ってるのか? 多少は貸せるから、そんなことやめろ」

「真取くん相変わらず良い奴だね。俺が金に困るわけないでしょ」


 大澤は何のてらいもない様子で笑った。


「思ったことない? 俺みたいな悪い奴が沢山金持ってるのに、真取くんみたいに真面目にコツコツ働く人が苦しむ社会は間違ってるって」

「それは大澤が頑張っただけだろ。犯罪は止めた方が良いけど」

「俺全然頑張ってないよ。ゲームみたいなもんだし。自分が搾取する側だってふんぞり返ってるバカを騙して金を取るのは最高に気持ちいいね」

「相変わらず性格が悪すぎる」

「じゃあ真取くんは、一回もそういうこと考えなかった?」


 大澤の問いに、真取は目線を落とした。

 考えたことはある。若い社員を使い潰すことしか考えていない会社の上層部に痛い目を見せてやりたい。そうすれば、自分の灰色の人生も少しは報われる気がしていた。それでも物事が急に変わることなどありえない。特に真取一人の力では。だから真取は、こう答えることに決めていた。


「それでも、自分にできることをやっていくんだ。結局それが一番強い」


 大澤は真取を凝視している。彫の深い石膏像のような表情からは何の感情も読み取れなかった。不気味に思いながらも真取は紙幣を置き、席を立った。


「大澤も詐欺なんてやめろ。友達が捕まるのは見たくない」

「変わんないよねぇ真取くんは」


 遮るように大澤は呟いた。断られたというのに、何故か頬が上気しており、酩酊したような顔色だった。もしかすると、真取が気付いていなかっただけでずっと酔っていたのかも知れない。


「そういう奴だから誘ったんだよ俺。良かったよ、そのままでいてくれて」


 もう行きなよ、と大澤は手を払った。

 それが少し寂しそうに見えたので、真取は机の上に飴玉を置いてやった。

 真取がいつも会社の人に配っているものだ。仕事で理不尽に見舞われたとき、真取はいつも飴玉を舐めるようにしていた。


「やばくなったら飴を舐めろ。それで俺を思い出せ。自首くらいなら付き合うから」


 真取は立ち去った。大澤がどんな顔をしていたかは解らないが、考えても仕方のないことだ。真取にも自分の人生がある。味のぼやけた、ぬるい豆腐のような人生が。


 居酒屋を出てから、しばらく真取は夜の街を歩いた。

 人々は互いのことを気にも留めずにすれ違っては街角に消えていく。

 真取自身も、他の人々と何も変わりはない。ただの背景だ。

 久しぶりに煙草を買おうかと考えていると、ポケットの中で携帯が揺れた。

 着信名を見ると実家の母だった。


宗一そういち

「母さん。何か用?」


 真取が訊くと、長い間が空いた。

 次第に、真取の胃の腑にも重石のように沈黙がのしかかってくる。

 母さん、と訊き返そうとしたその時、


『お父さんが詐欺に遭ったの』


 詐欺。あの犯罪の詐欺か?

 先程大澤に投げた自らの問いが、頭の中を駆け巡る。


 真取の父は、昔から冒険せずに何事も堅実に生きることを自身にも息子の真取にも強いて来た人間だった。しかし在職中に旧弊なやり方に反発した若い部下によるハラスメントに遭ったことから鬱病を患い、定年よりも数年早く退職していた。父にとって、『自分よりも目下の人間からハラスメントを受けている』と誰かに相談するということは面子や世間体の面から考えて堅実ではなかったらしい。

 職を辞してからはあまり外出せず、図書館で借りて来た本を読むか、動画サイトを無気力に巡回するだけの生活を送っていたはずだ。

 だから、金を騙し取られる以前に、何かに投資する姿が思い浮かばない。

 しかし母は真取の返事も待たず、一方的にまくしたて始めた。


『お父さんね。前から変な動画にはまってたみたいで。私、全然知らなかったんだけど。変な人のオンラインサロンってところにもうずっとお金を振り込んでるみたいで。ローンの支払いでお父さんの口座見たら、もうずっと空っぽで、ほうぼうに借金もしてて。お父さんに聞いても、ディープステートがどうとか自分に反抗する若い奴らは思考に悪い波動を受けてるとか――』


 結局、母の話をまとめるとこのような内容だった。

 父は退職してしばらく経った頃から『ストライクファクト』と呼ばれる動画投稿者の投稿を見付け、次第にのめり込んでいったらしい。

『ストライクファクト』の販売する高額な書籍を片っ端から買い漁り、運営するオンラインサロンでは最も高級なコースに入会し、配信するライブでは高額な課金を連発し――気付けば、老後の蓄えを全て費やすに飽き足らず、消費者金融に借入までしていたという。

 具体的な損失の額を聞いて、真取は膝から力が抜け落ちそうになった。ローンを払うどころか、家をもう一度立て直せる金額だった。


 電話を切ってから最初に真取が考えたのは、父は死を選んでしまうかも知れないということだった。堅実に生きるということにこだわって、自分が追い詰められていようが誰にも相談できない人間だ。一家を破綻させるだけの借金をしていても誰にも言い出せなかったのだろう。自らの死をもって、相続放棄と言う形で全てをなかったことにしようとする可能性は充分にある。


 しかし、父の死をどのように止めればいい?

 もう金を取り返すことはできない。全て父が自発的に払ったのだから。

 相手は恐らく詐欺の専門家だ。父がまともな精神状態ではなかったと主張しても、当然のことながら抜け道は用意しているに違いない。

 つまり、真取ができるのは真っ当に働いて金を返すことだけだ。

 違う世界に心を置いてきてしまった父親の命の手綱を握りしめながら。

 この先自分の人生をなげうって、十数年も金を返すためだけに生きる。


 真取はアスファルトの真ん中でうずくまった。

 顔を塞いでも、指の隙間から零れるように照るネオンが厭わしくてたまらなかった。人々は互いを気にも留めずにすれ違っては街角に消えていく。

 誰も真取に関わろうとはしない。背景であるかのように。


 どうして父さんなんだ?


 真取は小さく呟いた。父は誰にも迷惑をかけず、真面目に生きていた。身の丈に合う人生を送ろうとしていたはずだ。だが悪意と不幸は嵐のようにやってきて、真取の人生も家族の人生もすべて更地にしようとしている。


 ――思ったことない? 俺みたいな悪い奴が沢山金持ってるのに、真取くんみたいに真面目にコツコツ働く人が苦しむ社会は間違ってるって


 大澤の言葉が頭の中に蘇る。

 自分のせいだ、と真取は思った。

 真取が『真面目にコツコツ』仕事などにかまけていなければ、こんなことは起こらなかった。もっと器用に仕事をこなして土日には実家に帰っていればよかった。悪意を持った連中の接近に気付けた。父をもう少し気にかけていればよかった。

 無数の「もしも」が頭の中に煮えたぎって、涙腺からあふれ出そうだった。


 どうすれば、この失敗に報いることができるのだろう。

 とうに解っていた。答えはもう一つしかなかった。

 真取の生き方のせいで家族が壊れたのならば、自分の人生しか守らない「身の丈」など犬にでもくれてしまえばいい。


 真取は立ち上がり、通話アプリから『大澤大智』のアイコンをタップした。

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