第12話 大樹少年の別れ

 報告される死者数は数日かけて僅かずつ増加していた。テレビではほとんど報じられていないため、インターネットを注意深く探して回らないとリアルタイムの情報は見つからない。見つかった情報も信ぴょう性は怪しい。発展途上国で新種ウィルスの検査が充分にできるとは思えないからだ。

「現地にいる仲間によれば、実際にはすでに五百人近く亡くなった。時間はない」

 おばさんがいなくなると聞いてから、俺たちは別れの準備を進めてきた。おばさんが保有している資産の名義を俺に移し、当面の生活について必要な情報を共有した。俺の学費や家賃、電気代などのインフラの支払い方法を聞いたり、秘伝のレシピを教わったり、俺の先祖たちとの思い出を教えてもらったり。

「基本的には記録消去によって周りが上手い具合に合わせてくれるから、致命的な不都合は生じないと思う」

「そっか」

「こんな日のために、お母さんから頼まれていた」

 そう言って渡されたものは、預金通帳だった。

「お母さんが君のために貯めていたお金だ。高校を卒業したら渡すつもりだった」

「母さんが?」

 そんなイメージがなくて驚いた。俺と母さんの生活はカツカツで、金銭的な余裕はなかったし、自分の死を見越してまで貯金しているとは思わなかった。

「お母さんの両親、つまり大樹少年の母方の祖父母は若くして亡くなったからね。彼女も死が唐突なものだと知っていたんだ。君にも身をもって教える形になってしまったのは、悲しいことだね」

「もしもおばさんのことを忘れたら、こういうのはどうなるのかな」

「君の中で適当に記憶が継ぎ接ぎされて説明がつく。私と話して覚えた知識も、いつか誰かに言われたな、と思い出すことはできるよ」

 同じ言葉でも、誰に言われたかで大きく意味が変わってくるのだが、それはどうなるのだろう。俺にはおばさんの代わりになる人などいなくて、今と同じように記憶の中の言葉を思い出せるとは思えなかった。その日、その場所、その文脈でおばさんから言われたから伝わった意味や想いばかりだ。

「忘れたくないな」

「大丈夫、忘れさせないよ。私も忘れてほしくないからね」

 今日、冬の晴れた日、遣いたちは各々の別れを済ませて大規模な介入を実行することに決めた。俺たちは話し足りるはずもなくて、毎日夜遅くまで話し込んだ。大抵は、昔の人間の歯磨き方法だとか、滅んでしまった奇妙な風習だとか、くだらなくて興味深い話だった。

「遣いが介入する頻度が上がっているね」

 どうでもいいような話も多かったが、明らかな傾向もあった。日本でいう平安時代まで、遣いたちが文明社会に介入した回数はほんの数回だったのに、この千年で十回近く介入し、それに伴うペナルティーが発生していた。

「文明のレベルとサイズが高まれば、感染症のリスクは上がるし、自滅するほどの兵器も生まれてしまう。私たちが助けてあげられる時間も、それほど長くないのかもしれない」

 ペナルティーによってこれから約十年間、おばさんは遣いとしての記憶を封印される。記憶が戻っても、一部欠損していることが多いらしい。

「おばさん達が記憶を失っている間に次の危機が訪れたらどうなるんだろう。人類は滅ぶのかな」

「そうかもね」

 おばさんは肯定しながらも、さほど深刻そうではなかった。

「でもね、私はこれでも人類を信じている。きっと遣いなんかいなくても、犠牲を払いながら何とかすると思うんだよ」

「そうかなあ」

 まるで子供の将来を信じる親のようで、俺には過信しているように聞こえた。

「親というのは子供に過保護だし、心配する。でも同じくらい、自力で生きられると信じるものなんだよ」

「おばさんって子供いるの?」

「いたよ。私の子供は遣いとしての性質を引き継がないから、普通に寿命で死んでしまうけどね」

 我が子の死を見るのは辛いから、いつからか産むことはやめてしまった。そう付け加えたおばさんは、悲しげに微笑んでいた。

「人類全体が我が子みたいなもの、だなんて言わないよね」

 おばさんは苦笑した。

「言おうと思ったけど、やめた。今は君を特別扱いしたい」

「じゃあ、その待遇に応えないとね」

「面倒だったら放棄してもいい。先祖が交わした約束なんて、君には関係ないんだから」

 いつまでも傍で見守り、子々孫々ずっと友であり続ける。それはきっと、哀れみから生まれた約束ではない。

「いや、ここで止めたら記憶が戻ったときおばさん泣くでしょ」

「泣かないよ」

「いいや、泣くね。そうなったら罪悪感が凄まじいから、俺もおばさんを見つけるよ」

 俺にしかできない役目、それは、遣いとしての記憶を無くしたおばさんを見つけ、記憶が戻る時まで近くにいることだった。

 この人を一人にしないこと。先祖たちが交わした約束を、俺も受け継ぐと決めていた。手間はかかる。時間もかかる。できるかどうかもわからない。それでも約束する。だって家族だから。

 こんなに人を愛し、俺たちを助けてきた人に、それくらいの救いはなくてはならない。

「記憶を失ったおばさんは、どんな性格になっているんだろうね」

「そんなに変わらないよ。ちょっと不安で、ちょっと情けなくて、ちょっと落ち着きがなくて初心なくらいかな」

 思わず噴き出してしまった。

「駄目じゃん」

 俺を導き、様々なことを教え、何にも動じず諭してくれた記憶と比べる。別人みたいに頼りなかった。

「だから、早く見つけてね」

「しょうがないから頑張るよ」

 ずっと頼りっぱなしだったから、これからは俺が助ける。ベッドで呻く母さんに何もしてやれなかったあの日の俺とは違うことを教えてやる。

 でないと、安心して人類を救えないだろうから。

 アフリカでは犠牲者が増え、エボラ出血熱と類似していることまで研究は進んだが、ウィルスはヨーロッパと日本で初の死者を出していた。

 おばさんは腕時計を確認した。時刻は近い。

「さて、それじゃあ決めてきてくれた?」

「ああ」

 俺は一つの宿題を与えられていた。それは、おばさんの次の名前を決めること。記憶は消えるが、それだけは決められるらしい。新しい記憶を入れるファイルの名前を決めるようなものだからと説明され、わかるようなわからないような気持ちになった。

「実は、記録消去に重要なものは名前なんだ。記録消去を行うときの流れを簡単に説明すると、世界各国の言語で、例えば「リンゴ」や「アップル」に関する痕跡と記憶を消去せよ、と全人類に命じる動きに近い。だから、誰か一人が世界でその人しか使っていない別の呼び名を持っていた場合、その人の記憶は高確率で残る。「りんご」を「だぱんけ」みたいに存在しない言葉で呼んでいる、といった状況だね」

 人は名前でものを認識し、思考する。それは心当たりがある感覚だった。考えるときは必ず言葉を介する。言葉として知らないものを考えることはできない。新しい概念や物体には、名前を付けることで他人と共有したり、性質を記録したりすることができる。

 動物たちは言葉で思考していないはずだが、代わりに知識の共有が人間ほど簡単ではない。文明相手の記録消去らしい条件だ。

 僕だけがおばさんを別の名前で認識していれば、記録消去から逃れられる。そういう理屈らしかった。

「なるほど」

「今ので理解したの?」

「伊達におばさんの教えを受けて成長したわけじゃないんだよ」

「そんなに名教師だったかな、私は」

「教師というより、師匠かな」

「君が大人び過ぎているんだと思っていた。私のせいか」

「母子家庭だったから、しっかりしないといけなかったのもあると思う」

「ああ、たしかに」

 さて、無駄話ばかりしているわけにもいかない。命名させてもらおう。

「それでは発表します」

「珍しくおどけるね」

「陰山直人。山陰地方の山陰を引っ繰り返した苗字に、直線の直、そして人」

 おばさんは目を閉じ、陰山直人、と口に出して繰り返した。

「男になれってことね」

「駄目かな」

「いいよ。久しぶりに男になるなって思っただけ」

 おばさんが語った昔の話の中では、性別が何度も変わっていたので問題はないはずだと思っていた。

「意味を聞いてもいいかな」

「人類を陰から支え、愚直なまでに愛した、人間。陰山愚人と最後まで悩んだ」

「常識的な選択をしてくれて嬉しいよ。次の私が不要な苦労をするところだった」

「そうだろ」

 声が震えてしまって、咄嗟に心を鎮めた。おばさんはそれに気づかないふりをした。視線や表情がそれを雄弁に語っている。

「私を、人間と呼んでくれるんだね」

「当たり前だ。当たり前だろ」

 おばさんの表情が歪んで見えた。

「おばさんが人間じゃないなら、ヒューマニズムなんて言葉は無くなった方がいい」

 俺は、これほど人類への愛を持っている人を知らない。自分が何者かわからないまま生きる恐怖、一部とはいえランダムに消える記憶、そんなリスクを背負ってまで何度も何度も救いをもたらす献身。

 一緒に暮らした俺にはわかる。おばさんは、決して何も感じず今日を迎えたわけではない。悲しみ、恐れ、できる限りあがいた。俺に未来への希望を託して。

 孤独を恐れるその姿は、人間臭さで満ちていた。人間らしくて人間の形をしていれば、それを人間と呼んで文句は言わせない。

「ありがとう」

「礼を言われるのはまだ先だ」

「うん、でも、ありがとう。今まで一緒にいてくれて」

「これからも、の間違いだろ」

 おばさんはボロボロと大粒の涙を零しながら、何度も顔を手で拭った。

「それじゃあ、やるよ。後のことをお願い」

「任せろ」

「……大きくなったね、大樹少年。いや、もう少年と呼ぶのは失礼だね」

 俺が少年と呼ばれるのは、今日が最後だろう。もう、守ってもらうばかりじゃない。

「よろしく頼むよ、村上大樹」

「ああ。陰山直人、必ず迎えに行く」

 おばさんは俺を力強く抱きしめ、次の瞬間消えた。

 俺は高校一年生、十六歳になっていた。


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