第7話

ㅤ世の中は梅雨入りしたようだ。

 愛音が好きな雨降りが続いているが、最近の彼女は元気がない。仕事以外は大抵ベッドに横たわっていて最低限の事でしか動かなくなった。顔色が悪いし食事もろくに取らないでいる。部屋も散らかりがちになり、出窓に飾られた紫陽花の鉢植えも土が乾いたまま放置されていた。あんなにも生き生きとしていた紫陽花の青はぼやけてしまい、元気なく萎れかかっている。


 いつだったか、霊に取り憑かれたら徐々に陰を引き寄せ消耗していくと聞いたことがある。僕は彼女に今それをしているようだ。


 大切な人だと思っているのに、なぜそうなってしまうのか。それに愛音はなぜ僕を放たないんだろう。いっその事、強制的に放ってくれたなら楽になれるのに。そんなチャンスはいくらでもあっただろうに、なぜ愛音はそうしなかったのか。それをなんとなく待っているうち、愛音は衰弱していった。これ以上は見ていられない。原因が僕ならば、彼女から離れるべきだと思った。


「そろそろ行くな?」

 

ㅤ去ろうとしたその時、


「へっくしょん!?」


 疑問形のくしゃみを投げかけられた。

 泣けない僕の代わりに、窓の外では雨が降っている。僕の耳には、その雨音が悲しく感じられた。


『愛音といて楽しかった。僕はここにいてもあまり意味が無いみたいだ。っていうか、それ以下みたいで。ごめん。だからそろそろ離れることにするよ。ありがとうな?』


 昼寝をする彼女の頭を撫でたくても叶わない。


「そうなの。…これからは、あそこでコスモスをみても、もうあなたはいないんだね?」

 

 寝ていると思っていた彼女は、目を閉じたまま、そう静かに呟いた。

 

『起きてるのか…?』

 

 彼女は応えない。

ㅤそういえば、僕が彼女の車に無断乗車した時の交差点の車道脇には、たくさんのコスモスの花が咲いていた。僕はその季節から梅雨入りした今まで、彼女のそばにいたんだ。


 長いようで短い期間。


 この先も、もっとずっと彼女のそばにいたかった。だけど、それ以上に彼女のことが大切になってしまったから。


ㅤ外では雨が降っている。現在進行形の、本物の雨だ。僕は窓越しにその悲しい音を聞いた。黒猫も出窓のスペースに飛び乗り、しおれた紫陽花の鉢植えと並んで座った。


『愛音を頼むな?』


 黒猫は窓の外の雨を真っ直ぐと見つめたまま、不機嫌に呟いた。


『昔、この家に人間の男が住んでいたんだ。……お前、そいつになんとなく似ているよ。ある日突然いなくなったアイツと同じだ』


『……そっか。そうだったんだな。このままずっとここにいて愛音に取り憑いたまま永遠に離れたくないところだが、そうすればするほどに辛くなるんだ』


 空っぽのまま止まっていた僕は、彼女に時を進められた。そんな彼女にはこの先もずっと笑っていて欲しかった。


「私こそ、ありがとう。それに、ごめんなさい」


 背中から声がして振り返った。

 愛音はベッドから起き上がり、ゆっくりと、僕の方へと歩み寄ってくる。


 目が合った。僕に身体があるのなら、号泣するほどに嬉しい瞬間だった。僕を見上げる彼女はもう僕から目をそらす事もない。


「なぜ謝る?」


「あなたの自由を奪ったのかなって」


「勝手に僕が付いてきて好きでここにいただけだ。家賃も払わず居座ってて、僕こそ悪かった」


「あなたが家賃とか言う?」


 愛音は吹き出して笑った。

 彼女が笑うと、僕も調子に乗りたくなる。


「家賃、何ヶ月分僕は踏み倒すつもりかな? …大家さんわりぃ。見逃してな?」

 

「仕方ない。家賃はチャラにしてあげるわ。今まであなたのおかげで楽しかった。……私、昔を思い出して癒されてたのかもしれない。ありがとう」


 彼女の瞳には僕は映らない。

 だから僕は、僕が今何歳なのか、どんな容姿なのか、ジジイなのか実はハゲなのか、人間の形をしているのか、全く別の生き物なのか、知ることも出来ない。

 

 勝手に自分は若いつもりでいるが、実の所は醜く太った中年なのかもしれない。


 僕の姿がどんな風に愛音の目に映っているのか、愛音好みの姿なのか、知りたくて、でも叶わなくて。彼女好みの、フェロモン爆発してそうな年上のダンディ男みたいな僕だったなら嬉しいが、僕の精神年齢はなんとなく中二っぽくて。でも実際の見た目はオッサンなのか、なんなのか……。鏡を見たって何処を見たって、僕を映し出すものはこの世に何一つ存在しなくて……。苦しかった。


 でも今は、ちゃんと、愛音は僕の姿を見つめてくれている。形のない僕を、ちゃんと、見てくれているんだ。

 

 僕の心は温かいもので満たされた。

 僕は愛音の頭を大切に撫でた。彼女の大きな目からは涙が溢れ、雨のように頬を濡らしていく。


「もしかして悲しんでくれてるのか?」


「当たり前じゃない」


「そっか。サンキューな。バイバイ」


「……うん。バイバイ」


 愛音は泣きながら笑うという器用なことをして、僕から目を離さない。


「絶対私を忘れるなよ!」


「おまえもな!」


 それから僕の手を握ってくれた。

 僕も、その手を握り返す。

 なんとなく手のひらに愛音の温かみが伝わってきて。僕は確かめるようにその手に力を込めた。

 

 だんだんと声が遠くなっていく……。

 僕は思い切り叫んだ。


「粗塩、絶対切らすなよ!」

「大丈夫よ。定期購買してるもの!」

「それな! 間違いない!」


ㅤ僕はキレッキレのコマネチをしておどけてみせた。


「だからそのギャグ古いって!」

 

 彼女がケラケラと笑い出す。

ㅤその瞬間、温かくて眩しい光が、僕を包みこんだ。






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彼女のそばにいたいけど 槇瀬りいこ @riiko3

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