第2話

ㅤ観察日記はまだ始まったばかりだった。

 私は縁側でそのノートと睨めっこをし、5日目の日記までまとめてイラストを描くことにした。


 1日目はリアルな幼虫を忠実に描いたが、拒否反応で私の脳もおかしくなったのか、暑さのせいなのか、場所を自分の部屋へと移動させ、冷房をガンガンに付けて机の上に観察日記を広げた。


 中学時代の美術部で使っていた色鉛筆やイラストマーカーを引き出しの奥から引っ張り出すと、2日目からは幼虫を擬人化させてイラストを描き始めた。


 クリスティーナという女の子とアレックスという男の子を、幼虫から美化させ、観察日記物語の背景を考えながら表情豊かに幼虫の心情を表現した。


 一枚のイラストを描いて色を付けるうち、それを5日分もしていると、私もクリスティーナとアレックスの世界に魅了されていった。


 ふと窓の外に視線をやると、いつの間にか空はオレンジ色に染まり、日記の持ち主の千尋ちゃんの姿は消えていた。いつからいなくなったのか、記憶もない。


 イラストを依頼しておいて、なんて自由人だと思ったが、そんな所も兄の和希とよく似ている。


 私は観察日記を抱えて外へと出た。

 夕焼け空を見上げながら、ひぐらしの声に包まれてのんびりと歩いた。

 昔よく通った懐かしい道だ。

 もしかして、道中アイツに会えるのかもしれないと、密かな期待をしている自分の思いを消し去るように、今度は全速力で走って向かった。


 すれ違ったのは、犬の散歩をしている住人か、畑仕事をするおじさん。ベビーカーを押して散歩をする主婦と幼稚園児……。

 この道を通ると、和希に会えるのかもしれないと条件反射みたいに期待する心は、いつから私に根付いているのだろう。

 私は目的の家のインターホンを押す勇気がなくて、郵便ポストに観察日記を返しておいた。


 翌朝、千尋ちゃんが血相を変えて私の部屋まで飛び込んできた。


「みさきねえー! 大変大変! 一人増えちゃった! まさかの三角関係になっちゃったよ!」


 いつものようにラジオ体操に強制的に起こされた早朝、千尋ちゃんがベッドで眠る私の顔に虫かごを近づけてきた。


 目覚めた私はキモい幼虫をドアップで見てしまい、「ひ…!」と声にならない声を上げた。


「なんなのよ~朝っぱらから! 心臓に悪いでしょ!」


「大変なの! 起きて! すぐにピッシャリと起きて! 朝起きたらヨシオが増えてた! 昨日寝る前はいなかったのになんで!?」


 千尋ちゃんは捲し立てるように叫び、


「ああどうしよう!」


 と私の部屋を行ったり来たりと歩き回った。動揺が隠しきれない様子だ。


 私は半分寝ぼけながら虫かごを覗いた。



 新たな幼虫の胴体には、タスキのように紙切れが掛かっていた。

 それには『ヨシオ』とカタカナで書かれてある。細身の黄緑色の幼虫だった。

 

 なんでヨシオ……?


 こんな事するのはアイツしかいないでしょ。


「どうせ和希のイタズラでしょ。ちーちゃんが寝てる間にアイツがヨシオを入れたんだよ」


 って、なんでこれだけ日本人設定……?


 千尋ちゃんの動きはピタリと止まり、


「……ああ~!! そっか! 和希の仕業か~! そう言えば昨日和希、わたし達の観察日記を盗み見してめっちゃ笑ってたもん。和希が入れたんだ! 絶対そうだ! ……あーあ、物語がややこしくなっちゃうよ……」


「昔から和希ってそういう所あったわ。このヨシオの文字も和希の字体だよ。この跳ね上がったようなクセ字。……私、思い出したよ、色々」



 ちょうど私達が千尋ちゃんぐらいの時、


「いいモノみせてやるから来いよ」


 と言うから庭へと出ると、うちの庭に流れてくる山水のたまり場に、私の苦手な大小さまざまなカエルが何匹もいた。


 そこはスイカを冷やす為の大切な場所だった。

 お気に入りの山水の貯水場所に、10匹以上のカエルが楽しそうに泳いでいて、私はひどく驚き腰を抜かした。


「ここはスイカを冷やす所でしょ! なんで私の一番嫌いなカエルがいるのよ!? なんで、なんでそんなひどいことできるのよ! バカ!」


 私が泣いて怒ると、


「ちょうどいい水場があったからさ。こうも暑いとカエルも可愛そうだろ?」


 和希は謝りもせずにゲラゲラと笑い出した。

 私の怒りは最高潮に達し、気づくと和希の急所を思い切り蹴飛ばしていた。

 和希は地にうずくまり、

「ひきょうもの…」と恨めしそうに私を見上げて苦しんだ。

 私はその姿を見て「ざまあ!」と笑い飛ばした。


 それから互いに口も聞かず目も合わせない日が何日か続いたが、ある日和希が畑で取れたスイカを持ってきて、


「この前はごめんな」


 と謝ってきて。私も、


「おしっこちゃんと出る? 折れてない?」


 と心配して謝ったら、和希は


「案ずるな! オレは不死身だよ!」


 とゲラゲラ笑った。

 私も仲直り出来た事が嬉しくて、和希に負けない程にゲラゲラと笑った。


 それから一緒にスイカ割りをして縁側で種飛ばしごっこをして競った。

 どちらが種を遠くへと飛ばせるか。

 スイカを食べる時は毎回種飛ばしで競ったものだった。


 その日私は、石垣の向こう側へと種を飛ばす最高記録を叩き出した。


 和希も顔を真っ赤にさせながら、「絶対美咲を越えてやる!」と何度も種飛ばしに挑戦していた。

 和希の努力は報われることなく、結局越えられることはなかったけれど。

 なんだか懐かしい。

 今はどうだろう。

 和希に追いつくどころか、私達の世界はどんどんと離れて行っているように思える。


 私が過去を思い出すのは、その距離を埋めたいからなのかもしれないし、今の私を、無いものにしたいからなのかもしれない。

 

「和希はホント、余計なことばかりするお兄ちゃんだわ…。困った人ね」


 千尋ちゃんはそう言いながらも温かい笑みを浮かべている。


「アイツも未だそんな幼稚な事して、それほど変わってないみたいだね」


 今に取り残されてたような気持ちでいた私は、昔と変わらないイタズラ好きの和希に間接的にでも触れることが出来て、なんだかほっとさせられた。


 離れていた距離が、それだけの事で近づいたような、そんな錯覚を起こした。


 アイツは今何を思って生きてるんだろう。そんな風に、バカみたいに気になった。

 



 観察日記物語は三角関係のまま進んでいった。


 私が描くイラストも日を追うごとに上達していき、何を描いても千尋ちゃんは瞳を輝かせてベタ褒めしてくれた。


 もはや観察日記とは言えない世界観があった。

ㅤ私は脱皮を繰り返す幼虫達を幼虫として描かないし、千尋ちゃんの物語は観察を無視した妄想だからだ。


 頭が大きく見えるクリスティーナは、鉄仮面を被らされ素顔を晒すことができない少女を描いた。

 緑と黒の模様を持つアレックスは見た目強そうなので、マッチョに鍛え上げられたイケメンに仕上げた。

 細身の美肌を持つヨシオは、韓流スターのような中性的な仕上がりにさせた。

 サナギになった後は、棺で眠るバンパイアをイメージしてホラーチックに描いた。

 ヨシオだけは日本人設定なので、押し入れの襖の中で眠る愛くるしいゆるキャラに寄せてイラストを描いてみた。


 三体のサナギは、どんな色の羽を持ち変化するのか。

 私もとても楽しみで、ラジオ体操終わりに観察日記物語を千尋ちゃんと進めるのが楽しみでならなかった。

 

 

 幼虫がサナギになってからは、物語は急展開することもなくなった。

 その頃から千尋ちゃんは、虫かごを持ち歩くことはなくなった。

 

 毎朝ラジオ体操で一緒になった時、


「まだ止まったままだよ」


 と、気のない様子で教えてくれた。


 私たちの観察日記への取り組みも、だんだんと熱が冷めてきたのかと、そんな変化に少し悲しい気分になったけれど、私は続けてもやめることになっても、別にどちらでも良いと思うようにした。


 そもそも暇つぶしの為に始めた観察日記だし、私の宿題でもないのだ。

 私は流されるままに自分の行動を決めていけばいい。そんなスタイルが当たり前になっていたし、その方が楽なのも知っている。


 私は楽しいオモチャを取り上げられた子供のように、心にぽっかりと穴が空いたような気分になった。それもこの夏の暑さのせいだと自分をごまかし、代わりに外の景色や、近所の野良猫の絵を描いたりした。



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