第二十一話 その信頼がほしい
街角のメープルの葉が赤く色づく。秋晴れの空に、伸びやかに葉が鳴った。
自然の移ろいに美しさを感じるよりも先に、教え子の受験が近づいてきていることを考えて、オリバーは焦りに胸が苦しくなった。
ギルバードは、以前のような素直さがなくなって、なかなか練習に本腰が入らない。
そして、カイも疲れていて顔色がすぐれないことが多い。声をかけると
「ちょっと忙しくて」
と、なんとか笑ってみせる。
親子そろって不調な気配があった。
ギルバードに父の様子を聞くと、
「送り迎えの時以外は会わない。ご飯は用意してくれてるけど、家にもほぼいない」
と。学費に充てるための金を稼ぐことに必死で、余裕がなくなっていることが窺えた。
ギルバードはつまらなそうな顔で付け足す。
「僕のお父さん、利き手が不自由なんだ」
「ああ……」
わずかにぎこちない、彼の指先の動きを思い出す。
「ごみ引きの仕事で、袋の中の……建築に使うような釘に手をついちゃって」
想像しただけで痛々しく、思わず奥歯を噛みしめた。踏み抜くかの如く、太い釘に手をつき、貫かれる。
「その時、メソメソして、もう働きたくないなんて言ってたのに。今も変わらず危ない仕事してるし、なんか……そこまでする意味あるのかって思う」
適切な返事が浮かばなかった。お前のために働いてくれている、なんて、大人びた表情で淡々と語る少年には相応しくない。
「それだけの価値があることなんだろう。お父さんにとっては」
ギルバードは、唇を曲げて黙った。
◆
その翌日のことだった。ギルバードは、魔法の講義に姿を見せなかった。
「ナント、ナタリー、なんか知らないか?」
ギルバードが授業に参加するようになって以来、三人揃って無遅刻無欠席だったから、空白の机が異様だった。
「聞いてない。昨日も普通にまた明日ね、って別れたけど。ね、ナント」
ナタリーが不安げに眉を寄せる。ナントも空の机に目をやって、顔を曇らせた。
最近の様子から見るに、サボりだろうか、と冷静に考えた。オリバー自身、受験勉強をしている時に、何もかも嫌になって家出をしたことがあった。
学舎では毎年、少なくとも一度は受験生の家出騒動が起こる。生徒の急な欠席程度は、日常茶飯事と言ってしまっても過言ではなかった。
おそらく家で「塾に行かない」と駄々をこねているのではないだろうか。彼のことはカイが必ず送迎しているから、道中で何かにあったという線は薄い。
気になりながらも、授業を始めた。ギルバードへの指示が減る分、講座は単調だった。そのため、今日やるべきことが思いのほか早く終わってしまい、授業を少し早めに切り上げることにした。
ナントとナタリーが帰るのを玄関口から見送る。陽が落ちるのが早くなって、以前よりも道が暗い。
学舎に戻り、館内を見回る。生徒が一人も残っていないのを確認して、教員控室にいる父・アドルフに声をかけた。
「俺、見回り行ってくるから、最後戸締りよろしくな」
「ああ」
学舎の外に出る。陽が暮れている。その暗がりに紛れるみたいに、カイがぽつんと佇んでいた。
「ギルバードの、お父さん」
呼びかけると、こちらに目をやる気配があった。顔が翳ってよく見えない。オリバーは紙屑を握って、手の中に炎を宿した。
若い緑の瞳に、炎が燃えた。
「どうしたんですか」
「……? お迎えに来たんです」
不可解な顔をしてそう言った。二の句が告げず、オリバーは黙る。
「あの、ギルは?」
「えっと……今日、ギルは学舎に来てないですよ」
彼は何を言われたのか分からないように、小首を傾げた。
「でも、授業が始まる前にここまで送ってきて、中に入るのまで見届けた……」
齟齬がある。それを噛み砕きながら、カイの顔を見つめていた。
「ということは、教室に入らず、お父さんが去った後に学舎の外に出たのかもしれないです」
困惑が満ちて、何かを言おうとして噤む。口が小さく動いていた。元々白い顔がさらに青白く見えた。
「じゃあ、ギルは、今どこにいるんだろう」
絞り出すように言って、カイは空虚を見る。その答えを、もちろんオリバーは持っていない。が、己の想像を話すことにした。
「受験生が急に授業に来なくなるのって結構よくあることなんですよ……。授業に出たくなくて、どこかで暇を潰しているのかもしれない」
「……あの、本当に中にいないんですか」
静かでいながら責めるような口調で、そう言った。普段のどこかのんびりとした雰囲気のカイはここにいない。
「中には、職員しか残っていない。生徒は誰もいない」
「見せてください、俺にも」
オリバーは、詰め寄るようにして懇願してくる男と向き合いながら、大きく息を吐いた。
疑いの目を向けられて、呆然としたのだ。手のひらを自分の胸に当てて、その手でシャツの布地を握り込む。
「それはつまり、俺が嘘をついているって言いたいのか」
若い男は、追い詰められた表情で冷たく黙りこむ。その顔を綺麗だと感じてしまい、なんだか悔しい。
「お願い、見せてください」
言葉が通じない。埒が開かない。オリバーは手のひらで学舎の入り口を指し示した。カイが頼りない足取りで、暗い学舎へと踏み入れる。
ガス灯の灯りが漏れでている部屋は、教員の部屋。カイはまずそこをノックして開ける。中にいたアドルフが驚いたように、こちらを見た。
「えっと……? ギルバードのお父さんですか」
「あ、突然すみません。ちょっと……息子を探してまして」
「そういえば、ギルは今日の授業休んだんだっけ」
アドルフには授業の合間に、そのことを話していた。
「ちょっと学舎内見回ってくるから」
「でも、さっきお前、見回りしてただろ?」
「念の為」
父の疑問を雑に交わして、カイを先へ行かせる。自由に扉を開けさせて、二階まで一緒に着いていく。オリバーが火で照らす空間に、足音と扉を開ける音がまだらに響く。
二階にある部屋も全て回った。これであますところなく見終えた。
玄関へ引き返している途中、階段の手前で彼が止まって、背を向けたまま口を開いた。
「ごめんなさい。疑ってしまって」
カイの一連の行動は、不愉快だった。気を許してもらえていないどころの話ではない。
「どうしたら、信用してもらえるんだろうな」
背中に問いかけると、彼は肩を落とした。
「……俺が今まで会った人の中で、一番優しくて頼りになるのがオリバー先生だ。こんなに親切にしてもらったこと、本当に久しぶりだった」
彼が振り向く。泣き出しそうに張り詰めた、
「だから、オリバー先生は何も悪くない。俺が悪い。俺こそ、人に言えないようなことばかりなのに……、そのくせすぐに人を疑って」
「ちょっと待って」
唐突に下から届いたアドルフの声が、カイの口を止めた。階下に立つ彼を、二人で見下ろす。
「暗い中で喋ってるなと思ったら、なんか大層な話をしているようで。うちの愚息が変なことを言ってしまってすみません。口を挟んで悪いが、下で話しましょう」
オリバーは返事をしながら、天井を仰いだ。常と異なることが起き続けて、頭が働かない。冷静になれない。
カイがふらふらと降りていくので、それに付き添うようにして共に歩を進めた。
アドルフが職員控室に足を踏み入れるのを見て、カイは慌てて言った。
「すみません、その、俺。ギルバードを探しに行かないと」
「ああ、私も一緒に探しに行きます。ちょっとだけ落ち着いてから出ましょう。急いては事を仕損ずる。外は暗いし、灯りも必要でしょう」
父が戸棚からガスランプを取り出しながら、言う。
「ええっと、オリバー。お前は信用について話していたか。どうしたら信用してもらえるのか、だっけか。学舎の中にまだギルがいるんじゃないかとおっしゃられて、それを疑われたと思ったのか?」
「……はい」
子どもの頃、怒られた時と同じ口調だった。反射的にかしこまって返事をした。
「おこがましい」
「は」
「出会って一年も経たない保護者の方に、
お前はそこらへんをわきまえていると見ていたが。快く学舎の中を案内すればいいじゃないか。何をこだわっている」
目の前で手を鳴らされたような心地がした。
「この仕事、保護者からの信用は確かに必要だが、子どもを預かって勉強を教えるっていう、それだけの関係だ。
この非常時に、信用してるとかしてないとか……、お前がウェルザリーさんに求めたことはもはや無礼とも言える」
他の保護者には求めないようなことを、カイにだけは、求めてしまっていると気づいたのだ。特別な思いを寄せないように、と心掛けていたのに、このざまだった。
他所の保護者にだって、隠し事はある。どんな家庭にも、色々ある。
だから、こちらもそこに踏み込むことはせずにうまく人間関係を築く。それが当たり前だったのに。
もっと、彼のことを知りたくなってしまっていた。隠し事をされると、我慢ならなかった。
仕事というつながりの上では、過剰なことを求めてしまっていた。
自分を省みて、黙り込んだオリバーを尻目に、アドルフはガスランプの整備を終えて火を灯した。
「お父さん、すみませんね、本当に」
「あ、いえ。その、俺……私が、息子は学舎にまだいるんじゃないかって疑ってしまって、それは本当に失礼なことだから」
「ウェルザリーさんはいつも送り迎えをしてくださっているから、きっと余計に、そう思ってしまったのではないですか。おかしなことではない。不安になると視野が狭くなるものです」
「……そう言っていただけると、ありがたいです」
「少しでも不安を晴らせたらと思うので、言いますが。この学舎を祖父が起こしてから、もう五十年が過ぎた。何人もの子どもがここを旅立って、立派に生きている。私たちにとって、あまりにも大切な場所です」
「はい」
「だから、この場所で子どもの行方不明なんて絶対に出したくないんです。私共も必死で探しますから。どうぞ心を落ち着かせてください」
灯りのついたガス灯を、アドルフがカイに手渡した。それを受け取って、カイは少しだけ笑ってみせた。
性懲りも無く、胸が焦げる。自分がその顔をさせたかった。反省しなければ、という理性と本心が相反してどうしようもない。
「ありがとうございます」
「少し余裕が出たみたいでよかった。あともう一つ、これが家出だったら……私の経験からいくと、お腹が空いて大概帰ってきます。なあ、オリバー」
急に振られて、情けなく顔を顰めてしまった。アドルフは可笑しそうに微笑んでいる。オリバーが家出した時の話をしている。
「そんな昔の話やめてくれよ……。さっさと探しに出よう」
誤魔化すように、踵を返して控室の外へ出る。
「ああ、ただ本当に学舎に戻ってくるかもしれないから、母さんに留守を頼んでから、私は出るよ」
頷いて、カイと共に建物の両開き扉をくぐる。二手に分かれて探すことにして、別れる前にオリバーは言った。
「……その、さっきのは俺が悪かった。父の言うとおりで、俺の気持ちを押し付けてしまった。ごめん」
「謝らないでよ。それに、やっぱり俺が悪い。無理やり頼み込んで、受験勉強見てもらってるのに、その人を信じないなんて。話が違うよな」
手早く言葉を交わしあって、夜道を探しに出た。カイは己の家の方向へ、折り返すように歩を進める。魔法の炎とガスランプの灯りが、互いに離れていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます