第八話 こんな雷みたいな気持ちは

 こんなところで長々とする話ではなくなった。夜道をカイを連れて引き返し、学舎に戻ると、戸締りを終えた館内は真っ暗だった。室内のガス灯を灯して、佇む彼を振り返る。


 陽の光の下でこの人を見たい、と思ったのは、先ほどの炎よりもつぶさにカイの姿形が見えたからだ。昼の彼は近くで見ると、どんなだろうかと思わず想像した。


 顔はやはり美しく、彫刻のようだ。目の奥まりと鼻梁の高さが、楚々として可憐ですらある。

 ただ、よく見ると薄茶の髪は毛先が随分と傷んでからまっているし、落ち着かなげに前髪を掬う指先も手の甲もボロボロだった。身繕いをする余裕がないほど生活が苦しいのだろうか。


 聞くのをためらい、しかし、これを聞かねば始まらない。

「金はあるのか」

 単刀直入に口にする。


「あんまりないけど、作ります。いくら必要ですか?」

「魔法中を目指したいんなら、うちでは月々四百ポンドの月謝を納めてもらわなきゃならない」

「毎月四百」


 カイは両手の指を折って何やら考えた後、眉を顰めて首を傾げた。

「俺と息子の二月分の食事代と同じだ」

 二人分の食費にしては慎ましいが。安価な芋類で凌いでいるのだろうと想像がつく。


「払えるのか」

「払います」


 少し不安が滲んだ顔を見ていると、「もう無償でいい」と言ってしまいたくなったが、他の生徒らの親はこれを毎月支払っているのだ。

 それに、スミス学舎で働く教員への給金にも関わる。安易にタダにするわけにはいかなかった。


「もうひとつ、王立中の入学金がいくらか、知ってるか」

「えっと……確かだいたい二千ポンド。月々の授業料は五百ポンド」


 カイは、答えてから黙ってしまった。指折り数えるまでもない大金だ。オリバーのひと月の給金が六〇〇ポンド程度(父と母の采配で、食費など細々と勝手に引かれて手元に入る金はもっと少ないが)。


 ごみ引きの給金は……いくらほどだろうか。

 改めて問う。


「王立中は四年間だ。合間で制服代やら物品の購入やら、何かと追加でかかるぞ。最後まで払えるのか」

「払える。もっと働きます」


 固い意思が垣間見える、まっすぐな瞳をもってカイは言った。迷うことばかりのオリバーには、眩しくて、胸が苦しくなった。


「もっと働くって、ごみ引きの仕事は十分過酷だろ」


 カイが小さく口を開いた。しまった、と唇を結んでも意味がない。


「え、俺、ごみ引きしてるって話しましたっけ」


 一方的に眺めていたことが知られてしまう。


「もしかして臭いですか? 水浴びしてるんだけど」


 困惑を露骨に顔に出したカイは、己の腕を寄せて、鼻をすんすん鳴らす。


「自分じゃ分からない」

「いや、別に匂いは普通。そうじゃなくて」


 言葉の続きを彼が待っているが、恥じ入ってしまい、オリバーはいつまでも口を開けなかった。


「あ……魔法使いって、もしかして心を読めるの?」


 見当違いな見解を示されて、慌てた。


「いや、心は読めない。大まかな感情は分かる場合もあるけど。……その、君が働くところを見たことがあって」

「あ、そうなんだ。確かにスミス学舎のごみも回収することあるから。そっかそっか」


 盛大に照れて俯いたオリバーと反対に、カイは朗らかに言った。


「でも、嬉しいな。先生も俺のこと見てたんだ。俺もオリバー先生のこと、気にしてたから嬉しい」


 そうして、言葉に偽りなく嬉しそうに笑うものだから、オリバーの心臓の速度は留まるところを知らない。この若い男に言葉を奪われてしまうのは、一体何度目だろう。


「その、俺。ごみ引きとか、どぶさらいとか……、建築の日雇いとか。そういう仕事しかできないんだけど。でも金はなんとかする」

「しかし……」

「先生、今の俺の感情は分かるの?」


 カイは興味津々という風に顔を近づけてくる。オリバーは弱って(そんなに近づかれると心臓が破裂する)眉を寄せた。


「分からん」

「どうしたら分かるの」

「手、を握ったら分かるかも」


 答えると、カイがオリバーの手を握る。手のひらも傷だらけだった。それに、指先の動きがぎこちない。怪我か何かの後遺症だろうか。


「分かる?」


 肌が粟立つほどのときめき。遠くから見ていた人が自ずから手を取ってくれたという事実に、心が震えて落ち着かない。

 もう手が触れ合うのも三回目なのに。自分の常と異なる状態のことしか理解できず、こうなると人の感情を読み取ることはできない。だから首を振る。


「そっかあ。俺は、今結構ワクワクしてるんだ」


 夜に似合わない笑顔で言った。生来、明るい人なのだろう。


 オリバーは息をく。呆れているように見える仕草だが、実のところ、ただただ自分のために一呼吸置いただけだった。


「……分かった。もう遅い。明日は学校がないだろ。午前中でも、とりあえず息子を連れて来い」


 オリバーは慮って、彼を家まで送ろうとしたが、さらりとかわされた。あまりしつこくすると怪しく見えるのではないか、と下心が全くないとは言えない自分を疚しく感じながら、玄関先で見送るに留めた。


 ふと先ほどの会話で気になったことを思い出し、オリバーは歩き出したその背に伝えた。


「そうだ、魔法使いとは言わない方がいい。魔法持ちと呼ぶのが自然だ」


 彼が振り向く。

「そうなんだ。なぜ?」


「魔法持ちとしてどんなに名が知れた者でも、魔法使いとは名乗らない。魔法をただ持っているだけ、と自分をへりくだって、俺たちは魔法持ち・・と名乗っている。魔法持ちの親ならば、心がけた方がいい」


 お節介ではあるが、祖父が保護者に必ず伝えていたことを話した。


 魔法使い、というのは憧れと尊敬を持って、たとえば、生前魔法でたくさんの人を救った故人を偲ぶ時なんかに使うような誉高い肩書きだった。


「うん、分かった。教えてくれてありがとうございます」


 カイが返事をして、手を振ってくる。振り返す。

 オリバーはその背中が見えなくなるまで、見送った。見えなくなっても、余韻に呑まれてしまって、家に戻る気にならずそこに佇んでいた。



 夜が明けて、窓から差し込む陽が随分高くなった頃、オリバーはベッドの上に体を起こした。昨晩はなかなか寝付けず、睡眠時間が足りていない。


 重たい頭に抗わず、もう一度シーツに潜り込んで、小さく唸った。ポマードで固める前の前髪がさらりと流れた。


 王立中受験に関わることを承諾してしまった。常であれば、決してこんなことはないのに、あの男のためになりたい、と自分を曲げてしまった。


 というか、冷静になってみると色々と聞かなければならないことが多すぎる。


 カイはどう年嵩に見積もっても、オリバーより若いだろう。そんな若者に十一歳のせがれがいるというのは……あり得ないとは言い切れないが、普通ではない。


 母親はいくつなんだろうか。というかいるのか。妻帯者なのか。

 配偶者に先立たれた、蒸発したなどの理由で、決して片親は珍しくないから、そういう身の上の可能性もあるが。

 それから、どうして王立中を目指しているのか。


「……ていうかなんだよ、この気持ちは」

 ベッドに染み込ませるように呟いた。


 緩やかに人に惹かれたり、女性に憧れを持ったり、そういう経験はあったが、こんな雷みたいなものは初めてだ。


 魔法みたいだった。けれど、魔法ではなかった。特別何かをされたわけではなくて、彼を見ているだけで、オリバーの裡にあるものが、自分勝手に暴れるのだ。


 あともう少し眠りたいのに頭が変に冴えて、眠れない。

 彼には、添い遂げることを決めた誰かがいるはずだ。それに、これから教え子になるであろう生徒の親である。


 師と名乗る職に就く者として、オリバーなりの職業倫理がある。教育を提供する相手と、特別な関係になってはいけない、というのもその一つだった。


 故、どうにも消化できない気持ちだと分かっているのに、瞼越しに透ける太陽が心地良い。変な感じだった。今日も会えるのが楽しみだった。

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