第七話 惚れた方の負け
生徒たちを帰して、オリバーは日課の見回りに出た。子どもらが途中で道草を食ったり、悪いことに巻き込まれていたりしないか、確かめるためだ。
夜の帳が下りて辺りは暗く、月も痩せ細っていて、夜灯としては頼りない。家々から漏れ出る灯りを頼りに、決まった道順で夜道を一人歩いた。
――
気づいたのは、歩き出してすぐだった。おそらく学舎を出た直後から、後ろを追ってきている。心当たりはある、というかこの状況自体に覚えがあった。昔、よく記者に尾行されたのだ。
今回もそうに違いない。ため息を堪えて、ルートを変える。できるだけ人気がない方へと歩を進める。敷石の舗装がなくなり、土の道に変わる。森の入り口の近くまで来て、オリバーは足を止めた。灯りが届かない、自然の闇の中、わずかな月光すらも雲に隠れた。
離れている誰かさんが、こちらに合わせて止まるのがわかった。下手くそな尾行だ。さて、どう出るかと待っていると、気配が近づいてくる。
「すみません。あの、オリバー・スミスさんですか」
答えずに声の方へ振り向く。闇に溶けるようにして、黒い布をまとった者が立っていた。声からして若い男だ。嫌でも関連づけてしまう。おそらく、母が対応した若者。
「そっちから名乗れ」
男が口ごもる。苛立ちが募り、恐怖が裡に湧き上がる。尾行されるのに慣れているからと言って、怖くないわけではなかった。
相手が得物を持っていたとしても、魔法で応戦することはできないのだ。たとい殺されかけようとも、オリバーは戦えない。今度こそ死刑になると想像がつくから。
気配が更に寄ってくる。心を落ち着けるために、深く息を吸いながら、オリバーはファスティアン織のズボンのポケットから、紙片を取り出して握った。
口で合図を唱えなくとも、オリバーにはできる。強く念じて灯り代わりに紙片を燃やした。
赤々と燃える炎が闇を焼いた。
「わっ」
思っていたよりも、男は近くに来ていたらしい。湧き出た焔から、男がのけぞって離れた。顔を腕で庇っている。オリバーは冷や汗をかいて、反射的に炎を引く。
男が静かに腕を顔から外した。照らされながら、二人は見つめ合う。
新緑の瞳、薄茶の髪。火の照り返しの橙をまといながら、あの、ごみ引きの男がそこにいた。見間違うはずもない。
先ほどの苛立ちや恐怖が風に吹かれたように消えた。
運命を感じさせられて、目眩がしそうだった。脈を感じ取れるほどに、心臓が早鐘を打つ。
「あ……」
小柄な男は、オリバーを見上げて小さく笑ってみせた。ご機嫌伺いの笑顔かもしれない。しかし、それだけで十分だった。大柄で優しく、過去に縛られている男のハートを射止めるには。
「炎の魔法、すごい。俺こんなに近くで見るの初めてだ」
瞳が炎を映す。それは、オリバーの心を表すように大きく揺らいでいた。
「熱くないんですか? 俺も触れる?」
ごみ引きは体つきよりも一回りも二回りも大きなクロークを身につけていて、布の中から細い腕を炎に伸ばしてくる。オリバーは、咄嗟に炎を掻き消した。
空になった手に、彼の手が重なる。
「や、火傷をするからダメだ」
「火が消えても少し熱い。暖炉のそばにいるみたい」
静かな口調でありながら、感嘆しているのを隠さずに、そう言った。表情が見えないのが残念だった。彼の指先を握りしめて捕まえ、反対の手で火を起こした。
なぜ手を握ったのか? 握りたかったから、としか言いようがない。オリバー自身も無自覚だった。
男は繋がれた手に目をやって、不思議そうにしていたが、払うことはしない。
「オリバー先生、であっていますか」
改めて問われる。優しそうな顔に見とれて、オリバーは抗えずに頷いた。男は嬉しそうに小首を傾げた。後ろで団子に束ねている結髪、それが揺れたのが、地面に伸びた影の動きで分かった。
「俺の名前はカイって言います。カイ・ウェルザリー。……尾行したみたいになってしまってすみません。不躾ながら、先生にお願いがあるのですが、声をかけるタイミングが難しくって」
再び頷こうとして、ためらった。オリバーの影が揺れる。片手を掴んだままだから、傍から見れば、まるで二人、寄り添って踊っているようだった。
「王立中のことか」
上ずる声を抑えて問うと、カイはこくんと頷いた。
「うちの息子を来年、王立中にやりたくて、授業してもらいたいんです」
あどけなさが残るような若い男からその言葉が出ると、不可解だった。
「息子。お前の息子なのか」
「うん。俺の息子。魔法が使えるんです。どうしても王立中に入れたい」
色々と聞きたいことはあったが、それよりもさきがけて、断らなければならなかった。
「……俺には無理だ」
「どうしてですか」
言いたくなくて仕方がなかった。この男の前で、自分が祖父を傷つけたことをどうしても話したくない。やけくそ気味に誰にも隠さず過ごしてきたから、このような恥を忍ぶような気持ちになったのは初めてだった。
黙り込んだオリバーを急かすことなく、カイは穏やかに話し始めた。
「スミス学舎のこと、調べました。いろんな人に話聞いて。平民から王立中進学者をたくさん出して、伝説って言われてるんですよね」
「……ああ、よくご存知で。懐かしい話だよ」
瞳の輝きが、心をとらえて離さない。薄緑の、ブナの新芽のような色がこちらを見ていた。
「この国全土から受験可能の王立中、倍率はだいたい六倍から八倍。しかも、合格者のうち例年、概ね全員が貴族の子だ。募集要項には、身分は考慮しないなんて書かれているけれど、元来魔法の稽古をする環境が整っていない庶民なんて……相手にしないような学校、だった」
目をそらして、踵を返してここから去りたい、そう思っているのは確かなのに、オリバーはとどまった。視線も逸らせない。彼の、熱に浮かされたような語り口と瞳にその場にピン留めされてしまった。
「そんな王立中に庶民一人合格させるだけでとんでもないことだ。なのに、スミス学舎はそこに一度で十人も通した。伝説だ」
若い男は小さく喉を鳴らして、少し間をおいて続けた。
「……先生はその時合格した子どものうちの、ひとりなんですよね」
ああ、もう逃げられない。オリバーは、握ったカイの手を離した。
「誰に聞いたんだよ、それ」
「年寄りに聞くと、嬉しそうに話してくれる。スミス先生は人望があったんですね」
「じゃあ、知ってるだろ。俺の末路も」
「治癒魔法をしようとしたけど上手くいかなかったって話ですか?」
「それ」
「まあ、聞きましたよ」
「なら、分かるだろう。王立中に行きたいなら俺に関わったらダメだ」
「でも、オリバー先生に教えてもらえないと、王立中に受からない」
きっぱりと、カイは言い切った。瞳をより強く射止められて、オリバーの心はざわついた。
「よその教師に教えてもらえよ」
「オリバー先生しかいない」
「そんなわけがない。ブルーム地区までいきゃあ、いるだろう」
「あなたじゃないとダメなんだ」
「なんで」
「先生が子どもの頃に書いた受験体験記を読んだことがある。それで、この人に教えてもらいたいと思った。息子もそう言ってる」
「なっ……」
もはや自分でも何を書いたのか、ぼんやりとしか覚えていない作文を話に出されて、オリバーは絶句した。顔に血が昇る。確か、治癒師になりたいとか、なんとか書いていた。よりによってこの子に読まれたのか。
内容ははっきり覚えていないが、祖父を傷つけて自分を省みたときに、強烈に感じたことは覚えている。あれに書いたことは。
「あれに、俺が書いたことは、全部嘘だ。……いや当時は嘘を書いたつもりはなかったが、本当のことではなかった」
カイは間髪入れずに否定した。
「そんなことない。だって、オリバー先生は、本当に、あの作文の通り、スミス学舎にいてくれたじゃないか」
オリバーは息を詰めた。カイがオリバーの手を取ったのだ。両手で包みこむように強く握られて、緊張が走った。
ぎゅうと力を込めて、カイは切なそうな顔でオリバーを見上げた。
「おねがい! あなたしかいないんだ。俺の息子、見てあげてください」
オリバーはというと、男の魅力的な相貌に見とれて、話の前後も一瞬忘れてしまうほどだった。
必死の嘆願すら。なんてかわいいんだ。
握られた手の平から伝わる男の指先は、硬くてざらついていた。その対称性にくらりとした。ごみ引きで鍛えられた、労働者の手だった。
というわけで、惚れた方の負けだった。
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