痛いのいたいの

 できることをこなしていくだけの人生を送るはずだった。ところが現実は、できていたはずのことすらままならない。夢は露と消え、それでも息をしている。


 少女の膝についた擦り傷を睨みつけて、オリバー・スミスは動けなくなってしまった。頭の中で一つの選択肢が居座っており、それが一番いい方法だと分かっている。しかし、裏腹に体が動かない。


「オリバー先生、まさか、治癒をなさるのかしら」


 頭の上から降ってくる声に、おもてを上げた。少女の母親が心配そうに眉を顰めて娘の怪我とオリバーの顔を覗き込んでいる。

 少女の名前はレイラといった。レイラは痛みを堪えて、押し黙っている。


 母親に返事をできず、曖昧に口ごもったオリバーは、ごまかすように辺りを見渡した。

 数組の親子が連れ立って歩いている。仕立ての良いスーツや淑やかなドレスに身を包んだ親の隣には、同じく正装に身を包んだ、どこか緊張した面持ちの少年少女たち。

 皆一様に前を見据えて、まっすぐに石畳の道を歩いていく。しゃがみ込んでいるこちらに目もくれないか、もしくは少しだけ視線をやって気の毒そうな顔をして通り過ぎる。


 ここは私立の魔法中等学校の正門前。今日は入学試験の当日だった。あと三十分もすれば、試験が始まってしまう。

 レイラもまた受験生だ。オリバーはレイラの魔法の教師として、試験に向かう彼女を鼓舞するためにここへ来た。彼女が九つの歳から教えているから、もう三年もの付き合いになる。オリバーにとっても思い入れのある受験だった。


 昨日、教場にて声をかけた時は顔色がよく自信が滲んでいる様子、準備は万端なはずだった。

 しかし、やはり緊張していたのか、普段着慣れないかっちりとしたワンピースのせいか、レイラは正門前の何もないところでつまずき、派手にこけた。幸い、怪我をしたのは膝だけだ。服もほとんど汚れていない。

 けれど、合格してこの学校に通うため、遊びたい盛りの三年間、堪えて努力を重ねた彼女を前にして、「膝だけで済んでよかったね」などとは、試験前の今は口が裂けても言えない。


 もしも、怪我が跡形もなく治ったのならば。彼女の気持ちはどんなに落ち着くだろうか。本番直前での失敗が、すっかりなかったことになったのならば。


 まだ一二歳の子どもの大舞台だ。些細なことが大きな綻びになるかもしれない。精神的に崩れると、選抜試験に影響が出てしまう。

 だからこそ、彼女に治癒魔法をかけるべきだった。懸念は消してやらねば。自分を奮い立たせるための言葉を、何度も心のなかで唱える。

 このほんの小さな傷を治すだけで、彼女の大きな心の支えになる。彼女が魔法を使う時の、善き思い出になれる。


 揺らぎながらも、決心じみた気持ちでレイラの膝に手をかざした。少女とその母親が息を呑んでこちらに見入っている気配を感じる。

 赤く削れた傷の周りの健やかな皮膚を増やす、そんな想像をしながら傷口を手のひらで温めれば、きっと――。



 それは、いつだってセピア色なんてしていない。

 どこまでも鮮やかだった。

 それは、地面に転がっていた、千切れた腕。

 ああ、あのお気に入りだった腕時計。

 血に塗れながらも文字盤は時を刻み続けていた。



 ――ダメだった。傷口に触れる寸前、手が止まった。

 脳裏に浮かんでしまったものを消そうとするが、そう努めるほど、追想は輪郭をくっきりとさせる。

 その魔法を使ってはならない、触れてはいけないと全身が叫んでいる。


 彼の手は傷に触れることなく力を失った。少女はオリバーのまとまりのない行動に対してか、困惑の表情を浮かべて何度も瞬きをしていた。

 母子の期待を裏切ってしまったことを苦く思いながら、それでも教師としての矜持を保ちたかった。冷や汗を抑えて、笑ってみせる。レイラの顔にわずかに安堵が滲んだような気がした。


「レイラ、少し痛いかもしれないけど、我慢してくれ」

「はい」

「できる限り清らかな水を」 


 手を宙に広げて呟くと、何もない空間にじわりと水滴が浮かび、次第に大きくなり水の球となった。それを溢して傷口を洗う。地面に置いていた鞄を探り、中から擦り傷用の軟膏と綿紗を取り出す。それを使って簡単な処置を施した。それだけのことなのに、肌に指が触れると、手が震えた。


 魔法がなくてもできること。今の彼にできるのはこれだけだった。


 オリバーは立ち上がり、レイラに手を差し伸べた。レイラは素直に手を取り、自分の足で立った。彼女は教師の震えに気づいただろうか。


「歩けるか」

「はい、大丈夫そうです。オリバー先生、その、治癒魔法はできなかったんですか」

「……ああ、ごめんな」

「ううん。やっぱり難しいのね、治癒魔法って。初めて見れるかもって、期待してしまいました。私が知っている人の中で、先生が一番魔法が上手いから」


 少女は、どこか残念そうだった。試験前にそんな顔をさせてしまって申し訳ない。オリバーの胸は痛んだ。


「いや、レイラ。それは君が知っている魔法持ちが限られているからだ。この学校に通い始めたら、先生よりも魔法を上手に扱う人にたくさん出会うよ」

「本当に?」

「もちろん。考えてみてよ、ここに来ている子どもたちは、みんな魔法持ちなんだ。それだけで普段の生活とは格段に違うだろ。知り合う数が多ければ多いほど、上手な人に出会える」


 レイラは周囲を歩く親子たちを見回した。


「そういえばそうですね。貴族の子ばかりだということに目がいって気後れしてましたが、みんな私と同じ魔法持ち……」

「気後れする必要なんかないよ。貴族ばかり、というわけでもないし。レイラ、あれだけ練習したんだ。合格は間違いないから、友だちを作るくらいの気持ちでいったらいいよ」


 オリバーが冗談を言うと、少女はちょっとだけ笑った。


「そこまでは無理よ。でも、うん。同い年で魔法を磨いた子たちに会えると言うのは楽しみです」


 正門をくぐる彼女を見送った。母親がオリバーに会釈をして、そのあと親子は一度も振り返らなかった。

 その背中に、実力を発揮できますように、と願わずにはいられない。

 見えなくなるまで見送って、オリバーはため息をついた。

 こんな形だけの激励をしたところで仕方がないと自分が一番分かっていた。もっと俺に勇気があれば。彼女の合格を真に願っているのであれば、治癒をするべきだった。

 自分への歯がゆさと後悔が充満した体を引きずって、オリバーもその場を後にした。

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