第13話 山を護るもの

「え……」


 思わず子犬を抱き上げた忍が見上げたそれは、獅子と言えどこの世のものではない風体をしている。

 風が巻くようなたてがみは形が無く、その瞳はガラスのように無機質だ。が、冷たい感じはなくそれがちらと忍のそれを掠めてから、前方の岩壁を睨めつけた。


 ドォン!


 明らかに今までとは違う振動が「向こう側」から響いてまるで見えない穴が突然空いたように突如、轟音と酷い風が吹きすさんだ。立っていられないくらいの地響きにも関わらず、今度は岩壁は崩れずに、代わりに現れたのは巨大な腕だった。

 暗い黄土色をした強靭な人間の腕。いや、大抵の人間ならそれが「鬼」であると理解できただろう。

 想像に漏れず鋭い爪と剛毛、そして人間ではありえないテクスチャを持つ見るからに剛健な皮膚。

 狭い岩室の向こうから伸びた腕に小さく見える獅子はそのまま体当たりをくらわす。

 怯みはしなかったが這い出てこようとした腕が少しだけ後退した。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 忍が自分より少し後ろに後退したことを視界の端に捉えながらキミカズは術式の書きこまれた符を人差し指と中指の間に挟んで静かに呟いた。

 それは陰陽師のみならず、密教や修験道でも使われる言葉でもある。

 それ自体では何の意味もない、だが成就を迅速に行うための命令句。


「炎帝昇空」


 叫ぶ必要はない。あくまで静かに、どこからともなく鬼の響かせる轟音の中でだが確固とした韻を放つ。手の内で術符は燃え上がり尾の長い炎の鳥になった。文字通り鳥を放つように鬼に向けて素早く振り切る。

 朱雀の姿をしたそれはまっすぐに岩壁に突き刺さり更に鬼の腕がにじり退く。

 背後では数人の術師が声を合わせて九字を切る声がする。

 陰陽道の九字とは、四神、神人、星神の名。

 破邪護身の法でありそれらは場を常に清め、有利な磁場を作り出す。

 それだけでも負担は大分違う。何の護法も持たない忍がここにいられるのも浄化の作用があるからだ。でなければすでに常人は昏倒している。

 それくらいの瘴気が岩壁から吹きあがるのをキミカズは見ていた。


「っ!」


 壁の向こうから隙をついて鬼ではない者が何筋か飛び出てくる。

 それはただの小物で「道」の隙間を通って現れた者だが、強者であるキミカズには目もくれずに忍に向かった。

 バクリ。と妙に現実じみた音がしてキミカズはその光景を視界の端に捉える。子犬が食いつき、それを食いちぎっていた。


「この子やっぱり……」


 そう、あれは「獅子」だ。この神域を守る若い獅子。小さきものに擬態していたがその時には文字通り頭角を現していた。ごつごつとした角とたてがみを持っている。瞳孔に光はなく、鬼の侵入を阻む大獅子と似たような勇猛な形相になっていた。

 その時、通路の外が真っ白になった。


(青龍か。時間がないな)


 そう思う間につんざく雷鳴が響く。

 およそ3、4秒。いるとすれば1キロとちょっとの位置だ。

 近づいてはいるがまっすぐに来ているわけではないようだ。龍がその気になればここまで数秒とかからず到達しているだろう。

 ゴロゴロとくすぶる音を聞くに、たゆたう速度には違いない。そのまま遅い速度でいてくれと願う反面、その遅さには爆発寸前の強大な怒りを感じずにはいられない。


 ドォォン!


 穴の向こうからはさらに激しい震撼が圧迫となって襲ってくる。キミカズは術に力を籠めるがここはあまりにも火の気が薄すぎる。

 自然科学に端を発する陰陽道は地相を見ることにも長けるが、故にここに渦巻く力は順を負っても木・土・水・金と分が悪いことにも気づいていた。

 忍にもそれはうっすらとわかる。何にもまして鬼の姿は強大だった。


「……火……赤龍がいれば……でもここの御祭神は火の神様、だったはず……」


 無いなら借りてくるのが一番早い。

 その思考を止める間はなく、もちろん今の状態では忍自身も動くことは不可能だ。

 が、それでキミカズはそちらに道を繋ごうと鬼祓いをしながらも新しい陣を敷く。

 倒すまでには足りないが大獅子がいることで隙はできる。十分だ。

 そう踏んだが、甘かった。

 鬼の腕が上から地面を叩き潰すように降って来た。距離はギリギリだ。そういう場所にいる。だが、陣の要になる石がその衝撃で転げ飛んで「道」の境界まで行ってしまった。

(あれは回収不可能だ……!)

 陣を離れればすべてのバランスが崩れる。そもそもこの狭い通路で動ける範囲は限られているのだ。その安全を確保するためにもキミカズはこれ以上前には出られない。


「……」


 忍はそれを見ていた。もとより出来ることを探す人間だった。何をどうすればいいのかも、大抵に置いて判断できる人間だ。それが最適解かどうかは別として。

 術師の声が延々と響くデバイスを、石や上着で渓谷側の柱に固定して隙を伺う。


「駄目だ! それだけはやめてくれ!」

「清明さん、でも」


 何もできない人間が動くことは、プロからすれば足を引っ張られることでもある。忍はそれも重々承知している。

 だから。


「あれがなければ、私たちは死ぬ。違う?」


 カッ!と雷光がその姿を一瞬影にした。地鳴りのような音を引きながらそれが落ちたのはすぐ後ろの渓谷。

 忍の後ろに、長い影が落ちている。それは大きくうねりながら上空をゆっくりと旋回している。

 キミカズはどこか絶望的な気持ちでそれを見た。


 らしくもない感覚だった。

 忍にはそれが見えていない。けれど彼女が言うことの象徴がすぐそこにいる。「死」の象徴。人にはおおよそ制御しようもない、強大な力の化身。怒りでその身を満たした青い龍が。


「分かった。最後のチャンスだ。君があれを僕に渡すことが出来たなら……僕たちの勝ちだ」


 らしくもない感覚。それがどうして訪れたのかは分からない。持ち前の切り替え力でキミカズはそれを約束する。

 自分の手に要石が戻れば即最大出力で攻撃。

 それが効かなければ終わるのであれば、それは考えても仕方がない。

(効かせるようにやるしかない)

 結論はつまりそれだけ。

 龍が高い高い場所で鳴く、鳥のような声を上げた。

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