第9話「運命の岬」
「ついに、ここまで来たのね……」
南米、チリの西岸。
そこに位置する、険しい岬角に立ちながら、宇佐華鈴は感慨深げにつぶやいた。
ホーン岬。大西洋と太平洋がぶつかり合う、荒波渦巻く"運命の分岐点"。
数々の伝説的航海者たちが、この海域の突破に人生を賭けてきた。
「……私も、ここを越えれば……夢は、もう目の前なのよね」
遠く水平線を見つめながら、鈴はかすかに目を細める。
世界の果てを見下ろすような、雄大な景色が広がっていた。
かつて鈴は、太平洋を東向きに進み、インド洋、大西洋を抜けてここまでやって来た。
数々の試練を乗り越え、何度も死の淵を彷徨った。
だが、ここを通過すれば……最後の難関を突破すれば……。
世界一周の偉業は、ついに成し遂げられるのだ。
「……待ってて、巧。……お父さん、お母さん。……必ず、笑顔で帰るわ」
胸に宿る大切な面影を思い浮かべながら、鈴は静かに目を閉じた。
次の瞬間、ヨットのエンジン音が大気を震わせる。
南極海を分け入るように、一条の白い航跡が海原に刻まれていく。
「さあ、ラストスパートよ……!」
緊張感に満ちた面持ちで、鈴はかじ取りを強く握りしめた。
目指すは、南極海を東向きに突き抜け、再び太平洋に出ること。
冷たい潮風が容赦なく頬を叩くが、鈴の眼差しは真っ直ぐ前を見据えている。
「うっ……寒い……!」
果てしなく続く、銀世界。
目に映るものすべてが凍てついているかのような、極限の世界。
その只中を、ひとつの小さな点が、ゆっくりと進んでいく。
南極海を突き進む、宇佐華鈴のヨットだ。
一面に広がる流氷。
水平線の果てまで、白一色の絶景が広がっている。
所々に顔を出す氷山は、まるで神々の彫刻のよう。
あまりの荘厳な光景に、言葉を失ってしまいそうだ。
しかし、その美しさの裏には、容赦のない過酷さが潜んでいる。
吹きすさぶ風は、体の芯まで凍りつかせるほどに冷たい。
一瞬たりとも気を抜けば、指先の感覚さえ奪われてしまいそうだ。
「く……っ……!」
氷点下の世界に包まれながら、鈴は必死に耐え続ける。
幾重にも重ねた防寒着の下、鈴の華奢な体は細く震えている。
息をするたびに、白い霧が立ち込める。
体温を奪われまいと、鈴は懸命に身を縮こまらせるのだった。
数日間に渡る悪天候の中、ヨットは延々と針路を突き進み続けた。
休むことなく吹き荒れる暴風雪。
一時たりとも、油断は許されない。
コックピットに立つ鈴の姿は、もはや人間離れしているかのようだ。
「……私は……諦めない……絶対に……!」
擦れた声で、鈴は自分に言い聞かせる。
南極海の試練に打ち克つためには、肉体以上に、精神力が問われる。
吹雪の中をひたすら前を向き、夢に向かって進み続けること。
その強靭な意志を、鈴は心の支えにしているのだ。
「海は……試してる……私の覚悟を……」
一瞬、鈴の脳裏に去来するのは、彼方の家族の面影だ。
世界一周の夢を応援し、見送ってくれた両親。
いつまでも待っていると約束してくれた、恋人の巧。
大切な人 々との固い約束が、鈴の心に灯を灯す。
「待っててね……必ず……帰るから……!」
心の中で愛する人たちに呼びかけながら、鈴は再びかじ取りに集中する。
雪に覆われたコンパスを凝視し、わずかに見える前方の視界を頼りに針路を微調整する。
凍てつく海は、冒険者の意地を試すかのように、次々と難問を投げかけてくる。
それでも諦めない。
一歩ずつ、着実に前に進んでいく。
吹雪に煽られ、何度も立ち往生しそうになりながら、ヨットは南極海を駆け抜けていく。
その軌跡は、夢に向かって走り続ける、人間の勇気の証だ。
「私は……負けない……!海と……戦い抜く……!」
歯を食いしばり、鈴は自らに活を入れる。
幾日も寝食を忘れ、カジキマグロのように海を切り裂いてきた。
今さら、この程度の風雪で、立ち止まるわけにはいかないのだ。
鈴のかすかな囁きは、南極の大気に掻き消されていく。
だが、その心は燃え盛る炎のように熱く、揺るぎない。
母なる海が、若き冒険者の覚悟を認めたのかもしれない。
ふいに、風向きが変わり、ヨットを後押しするかのように、追い風が吹き始める。
「……ありがとう……」
鈴は海に向かって、小さく呟いた。
幾多の試練を味方につける技を、鈴は身につけたのだ。
自然を、世界を、引き寄せる魔法のように。
その雄姿に、空は神々しいほどの輝きを放っているようだった。
こうして、鈴は南極海の試練を潜り抜けていく。
極地の苛烈さに抗いながら、愛する人 々との約束を胸に、前へ前へと進む。
遥か彼方、吹雪の向こうには、きっと新たな世界が待っているはず。
それを切り拓くのが、冒険者の宿命なのかもしれない。
果てしない銀世界を進むヨット。
その孤高の航跡は、夢を追う者たちへの、最大の称賛だった。
氷の大地に刻まれたかすかな跡は、鈴の不屈の精神を物語る。
吹きすさぶ南極の風は、若き冒険者の勇姿を、万感の思いを込めて包み込んでいた。
そして、遂に訪れた運命の瞬間。
長く続いた氷海の果てに、淡いエメラルド色の海が姿を現した。
「……太平洋……!? 私……ついに、帰ってきたのね……!」
思わず声を上げながら、鈴は感極まって目を瞑った。
出発点たる太平洋。最初の一歩を刻んだ、懐かしい海原。
長い旅の終着点が、ようやく見えてきたのだ。
「巧……お父さん……お母さん……ただいま」
風に向かって叫びながら、鈴の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
幾多の試練を乗り越えてきた今、胸の奥から溢れ出す感情を抑えきれない。
歓喜、安堵、そして何よりも……愛おしい人々との再会を心から願う気持ち。
万感の思いを胸に秘めながら、鈴のヨットは最後の直線に入っていく。
そう。彼女は決して一人ではなかった。
旅の間中ずっと、見えざる絆に支えられ続けてきたのだ。
そして新たな絆もまた、確かに手に入れてきた。
ナターシャ、そして海そのものとの、揺るぎない結びつき。
かけがえのない仲間たちに見守られながら、宇佐華鈴は夢への一歩を刻み続ける。
「……ゴールは、もうすぐそこなのよね」
輝く太陽を仰ぎながら、鈴は静かに微笑んだ。
南米の岬角を過ぎ去った後、ヨットの針路は北東へと向かっている。
太平洋上のさざ波は、まるで鈴の帰還を歓迎するかのように、キラキラと輝いていた。
「……ありがとう、海よ。……そして、私の全てを支えてくれた人たち」
かすかに目を閉じて、鈴は心の中で紡ぐ。
長く険しい航海の日々。決して平坦ではなかった道のり。
だがその一つ一つが、かけがえのない思い出となって、自らを形作ってくれたのだ。
『夢を……必ず、現実にするんだから……!』
かつての誓いを胸に刻みながら、宇佐華鈴のヨットは最後の航海を続けていく。
遥か彼方の水平線の先に、きっと新たな人生の扉が開かれているはずだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます