第8話「運命の嵐」

 ヨットを駆る宇佐華鈴の眼前に、再び暗雲が立ち込める。

 大西洋上で、突如として巨大な熱帯低気圧が発生したのだ。


「ここは、ハリケーン回廊……油断大敵ね……!」


 公的機関からの警告を受け、鈴は歯を食いしばる。

 過去最大級のハリケーンが目前に迫り、緊急避難が勧告されていた。


『でも、港まで戻る時間はない……ここは、嵐を耐え凌ぐしかないわ……!』


 覚悟を決めると、鈴は機敏にヨットの方位を調整し始める。

 マストを倒し、スターンを風上に向ける。

 嵐の中心に背を向け、なるべく風圧を受けないよう、ヨットの姿勢を整えるのだ。


「さあ来い、自然の猛威……私は負けないわよ……!」 


 たとえ巨大な大波と強烈な風雨に呑まれようと、鈴の瞳は真っ直ぐ前を見据えている。



 一方、遠く離れた日本では、黒瀬巧と鈴の両親が、息を呑んでいた。


「た、大変だ……!鈴が、ハリケーンに……!?」


 巧は衛生画像を見ながら、絶句する。

 鈴の乗るヨットのGPS信号は、ハリケーン渦中の、尋常じゃない速度で海上を躍動していた。


「……信じるしかない。あの子の力を、信じるんだ……!」


 そう呟いたのは、鈴の父、要だった。

 自らもかつて荒海に身を投じた経験から、要は娘の心情をよく理解していた。


「戻ってくるさ。……だって、あの子は約束したんだ。世界一周を成し遂げると……僕らに、誓ったんだから」


 そう言って空を仰ぎながら、要は心の中で祈った。


『海の神よ……どうか、娘を守ってやってくれ……!』


 嵐はまさしく、神の怒りの如くだった。

 まるで山のような大波が次々と押し寄せ、風は想像を絶する勢いで叫び続ける。

 そのただ中で、ただ一艘のヨットだけが、かろうじて風浪に耐え続けていた。


「くっ……!嵐なんか……私は……負けない……!」


 荒れ狂う海原。

 舟山のような大波が、容赦なくヨットに襲いかかる。

 日常の感覚からはかけ離れた、圧倒的な自然の驚異。

 それを前にしても、宇佐華鈴の眼差しは真っ直ぐに前を見据えている。


「うぉぉぉぉっ……!」


 思わず洩れる叫び声もすぐに風に掻き消される。鈴はかじ取りに全身全霊を傾ける。

 ぎしぎしと軋むタイラーを握る手に、微塵の緩みもない。

 進路を定め、海流に逆らい、風を味方につける。

 その一瞬一瞬の判断が、ヨットの命運を左右する。


 幾度となく大波に呑まれながらも、鈴のヨットは毅然とその姿勢を崩さない。

 まるで海に飲み込まれまいと、必死に海面に喰らいつくように。

 どれだけの海水を被っても、鈴の意識は揺るがなかった。


「海は……私の仲間だもの……一緒に……乗り越えて……みせる……!」


 歯を食いしばり、覚悟を込めて紡がれる言葉。

 その心の支えとなっているのは、父・要から教わった極意だ。

 海と逆らうのではなく、共に在ること。

 その真理を、全身で実践しようとしている。


「お父さん……私、海と一つになるって……約束したから……!」


 脳裏に過ぎる、通話での父の言葉。

 かつて若き要もまた、こうして命懸けで海と向き合ったのだ。

 その時の感覚を、言葉を超えて娘に伝えたかったのだろう。


 鈴は目を瞑り、五感を研ぎ澄ませる。

 風の音、波の響き、潮の香り。

 全身で自然を感じ取ろうとするように。

「……聞こえる?海の声が……」


 錯覚だろうか。

 まるで、海が語りかけてくるような感覚。

 怒りや脅威ではなく、冒険者の来訪を歓迎するような、温かなメッセージ。


「……一緒に………乗り越えよう……そう言ってくれてる……」


 鈴はかすかに微笑む。

 もはや恐怖心など欠片もない。

 海と一体化した瞬間、あらゆる迷いが消え去ったのだ。

 

 再び目を開けた鈴の瞳は、烈々と輝いている。

 もはや、死の淵をさまよう冒険者などではない。

 自然の懐に抱かれた者だけが持つ、静謐な輝きがそこにはあった。


「私は……海と共に在る……!」


 大波が幾重にもヨットを襲う。

 それでも鈴は、ビクともしない。

 自然の脅威は、もはや畏怖の対象ではない。

 それを味方につける技を、鈴は手に入れたのだ。


 海のリズムを読み、その力を活かす。

 水の抵抗を逆手に取り、風の流れに乗る。

 自然と一体になることで、小さな人間の力は、無限に拡がっていく。


 巧みなセーリングで、鈴のヨットは徐々に波間を駆け抜けていく。

 それはまるで、海の上を舞うように。

 時には大波にのまれながらも、また勢いよく海面に躍り出る。

 その雄姿からは、冒険者の歓びが溢れんばかりに伝わってくる。


「海は、私を受け入れてくれた……」

 感慨に胸を熱くしながら、鈴はさらに帆を高々と掲げる。

 自然を、世界を、味方につけた者の証のように。

 嵐の中で揺れる帆は、冒険者の矜持を雄弁に物語っていた。


 こうして航海者は、大海原の試練を潜り抜けていく。

 海と共に在ること。

 その真理を胸に刻み、若き女性冒険者は未知なる世界への扉を開いたのだ。

 暴風雨の向こうには、きっと新たな景色が待っているはず。

 それを探しに行くことが、宇佐華鈴の運命だったのかもしれない。


 荒ぶる海原を突き進むヨット。

 その雄姿を、空は静かに見守っている。

 嵐の中で揺れる一艘の小舟は、大海原を駆ける冒険者の象徴だった。

 「海と共に在れ」。その父の教えを胸に、鈴は懸命に今を乗り越える。。


 果てしない時間が過ぎ去った頃、嵐の勢いはようやく弱まっていった。

 世界が闇に閉ざされ、あらゆる希望が見えなくなった時。

 宇佐華鈴は、自らの心の灯りを頼りに、運命の荒波を切り裂いたのだ。


『……お父さん……私……やったわよ……!』


 疲労困憊しながらも、鈴の瞳には静かな輝きが宿っていた。

 絶望を凌駕した先に、新たな希望の光が差している。


 しとしとと降る朝靄の中、ヨットは穏やかな海原をゆっくりと進んでいく。

 かすかに聞こえるのは、鈴のささやくような寝息。

 幾多の試練を乗り越えた先に、静かな航海の時間がようやく訪れたのだ。


「……私の……夢は……もうすぐ、そこまで……」


 眠りの淵で呟く鈴の唇に、清らかな微笑みが浮かぶ。

 世界一周の旅は、ついに佳境を迎えようとしていた。

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