第8話「運命の嵐」
ヨットを駆る宇佐華鈴の眼前に、再び暗雲が立ち込める。
大西洋上で、突如として巨大な熱帯低気圧が発生したのだ。
「ここは、ハリケーン回廊……油断大敵ね……!」
公的機関からの警告を受け、鈴は歯を食いしばる。
過去最大級のハリケーンが目前に迫り、緊急避難が勧告されていた。
『でも、港まで戻る時間はない……ここは、嵐を耐え凌ぐしかないわ……!』
覚悟を決めると、鈴は機敏にヨットの方位を調整し始める。
マストを倒し、スターンを風上に向ける。
嵐の中心に背を向け、なるべく風圧を受けないよう、ヨットの姿勢を整えるのだ。
「さあ来い、自然の猛威……私は負けないわよ……!」
たとえ巨大な大波と強烈な風雨に呑まれようと、鈴の瞳は真っ直ぐ前を見据えている。
◆
一方、遠く離れた日本では、黒瀬巧と鈴の両親が、息を呑んでいた。
「た、大変だ……!鈴が、ハリケーンに……!?」
巧は衛生画像を見ながら、絶句する。
鈴の乗るヨットのGPS信号は、ハリケーン渦中の、尋常じゃない速度で海上を躍動していた。
「……信じるしかない。あの子の力を、信じるんだ……!」
そう呟いたのは、鈴の父、要だった。
自らもかつて荒海に身を投じた経験から、要は娘の心情をよく理解していた。
「戻ってくるさ。……だって、あの子は約束したんだ。世界一周を成し遂げると……僕らに、誓ったんだから」
そう言って空を仰ぎながら、要は心の中で祈った。
『海の神よ……どうか、娘を守ってやってくれ……!』
嵐はまさしく、神の怒りの如くだった。
まるで山のような大波が次々と押し寄せ、風は想像を絶する勢いで叫び続ける。
そのただ中で、ただ一艘のヨットだけが、かろうじて風浪に耐え続けていた。
「くっ……!嵐なんか……私は……負けない……!」
荒れ狂う海原。
舟山のような大波が、容赦なくヨットに襲いかかる。
日常の感覚からはかけ離れた、圧倒的な自然の驚異。
それを前にしても、宇佐華鈴の眼差しは真っ直ぐに前を見据えている。
「うぉぉぉぉっ……!」
思わず洩れる叫び声もすぐに風に掻き消される。鈴はかじ取りに全身全霊を傾ける。
ぎしぎしと軋むタイラーを握る手に、微塵の緩みもない。
進路を定め、海流に逆らい、風を味方につける。
その一瞬一瞬の判断が、ヨットの命運を左右する。
幾度となく大波に呑まれながらも、鈴のヨットは毅然とその姿勢を崩さない。
まるで海に飲み込まれまいと、必死に海面に喰らいつくように。
どれだけの海水を被っても、鈴の意識は揺るがなかった。
「海は……私の仲間だもの……一緒に……乗り越えて……みせる……!」
歯を食いしばり、覚悟を込めて紡がれる言葉。
その心の支えとなっているのは、父・要から教わった極意だ。
海と逆らうのではなく、共に在ること。
その真理を、全身で実践しようとしている。
「お父さん……私、海と一つになるって……約束したから……!」
脳裏に過ぎる、通話での父の言葉。
かつて若き要もまた、こうして命懸けで海と向き合ったのだ。
その時の感覚を、言葉を超えて娘に伝えたかったのだろう。
鈴は目を瞑り、五感を研ぎ澄ませる。
風の音、波の響き、潮の香り。
全身で自然を感じ取ろうとするように。
「……聞こえる?海の声が……」
錯覚だろうか。
まるで、海が語りかけてくるような感覚。
怒りや脅威ではなく、冒険者の来訪を歓迎するような、温かなメッセージ。
「……一緒に………乗り越えよう……そう言ってくれてる……」
鈴はかすかに微笑む。
もはや恐怖心など欠片もない。
海と一体化した瞬間、あらゆる迷いが消え去ったのだ。
再び目を開けた鈴の瞳は、烈々と輝いている。
もはや、死の淵をさまよう冒険者などではない。
自然の懐に抱かれた者だけが持つ、静謐な輝きがそこにはあった。
「私は……海と共に在る……!」
大波が幾重にもヨットを襲う。
それでも鈴は、ビクともしない。
自然の脅威は、もはや畏怖の対象ではない。
それを味方につける技を、鈴は手に入れたのだ。
海のリズムを読み、その力を活かす。
水の抵抗を逆手に取り、風の流れに乗る。
自然と一体になることで、小さな人間の力は、無限に拡がっていく。
巧みなセーリングで、鈴のヨットは徐々に波間を駆け抜けていく。
それはまるで、海の上を舞うように。
時には大波にのまれながらも、また勢いよく海面に躍り出る。
その雄姿からは、冒険者の歓びが溢れんばかりに伝わってくる。
「海は、私を受け入れてくれた……」
感慨に胸を熱くしながら、鈴はさらに帆を高々と掲げる。
自然を、世界を、味方につけた者の証のように。
嵐の中で揺れる帆は、冒険者の矜持を雄弁に物語っていた。
こうして航海者は、大海原の試練を潜り抜けていく。
海と共に在ること。
その真理を胸に刻み、若き女性冒険者は未知なる世界への扉を開いたのだ。
暴風雨の向こうには、きっと新たな景色が待っているはず。
それを探しに行くことが、宇佐華鈴の運命だったのかもしれない。
荒ぶる海原を突き進むヨット。
その雄姿を、空は静かに見守っている。
嵐の中で揺れる一艘の小舟は、大海原を駆ける冒険者の象徴だった。
「海と共に在れ」。その父の教えを胸に、鈴は懸命に今を乗り越える。。
果てしない時間が過ぎ去った頃、嵐の勢いはようやく弱まっていった。
世界が闇に閉ざされ、あらゆる希望が見えなくなった時。
宇佐華鈴は、自らの心の灯りを頼りに、運命の荒波を切り裂いたのだ。
『……お父さん……私……やったわよ……!』
疲労困憊しながらも、鈴の瞳には静かな輝きが宿っていた。
絶望を凌駕した先に、新たな希望の光が差している。
しとしとと降る朝靄の中、ヨットは穏やかな海原をゆっくりと進んでいく。
かすかに聞こえるのは、鈴のささやくような寝息。
幾多の試練を乗り越えた先に、静かな航海の時間がようやく訪れたのだ。
「……私の……夢は……もうすぐ、そこまで……」
眠りの淵で呟く鈴の唇に、清らかな微笑みが浮かぶ。
世界一周の旅は、ついに佳境を迎えようとしていた。
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