第4話「嵐の中の奇跡」

 喜望峰沖を航行中の宇佐華鈴のヨットに、再び暗雲が立ち込める。

 前方に迫る黒い雲は、凶暴な嵐の到来を告げていた。


 これまで何度となく切り抜けてきた試練。

 だが今回は、あまりに急激に風が強まっていく。


「ここは……喜望峰だもの……油断大敵ね……!」


 鈴は歯を食いしばりながら、ヨットの操舵に全神経を集中する。


 世界三大荒海の一つとも称される、この海域。

 大西洋とインド洋がぶつかり合う場所だからこそ、海流や気象は複雑怪奇を極める。


「うわっ……!」 


 突如、目の前に巨大な波が立ちはだかった。

 まるで水の壁のようなその姿に、鈴は息をのんだ。

 高さ10メートルはあろうかという大波が、ヨットを飲み込まんとしている。


 咄嗟に、鈴はヨットを大きく右に切ろうとした。

 舵輪を力一杯に切り、ヨットの向きを変える。

 同時に、メインシートを緩め、セールをたなびかせる。

 本来なら、風を捉えたセールがヨットを加速させ、波を乗り越えられるはずだ。


 しかし、巨大な波のエネルギーは予想以上だった。

 波に押し流されるように、ヨットが左舷側に大きく傾く。

 舵を切っているにも関わらず、ヨットは思うように動いてくれない。

 逆に波に翻弄され、コントロールを失ってしまう。


 鈴は必死にヨットの姿勢を立て直そうとする。

 舵輪を切り続け、ヨットの向きを維持しようとする。

 同時に、セールをさらに緩め、風圧を逃がそうとする。

 だが、波のパワーが勝っている。

 ヨットはまるでおもちゃのように、大波に翻弄されてしまう。


 このままでは、ヨットが横波を受けて転覆してしまう。

 そう直感した鈴は、とっさの判断を下した。

 セールを大きく開放し、ヨットの速度を殺す。

 同時に、舵を中央に戻し、ヨットを波の向きに合わせる。

 波に逆らうのではなく、波に乗るように姿勢を変えたのだ。


 ヨットはゆっくりと波の斜面を滑り上がっていく。

 まるでローラーコースターのように、大波の上を駆け上がる。

 頂点に達した瞬間、ヨットは大きく宙に浮いた。

 一瞬の無重力状態。

 そして、再び波の斜面を滑り降りていく。


 鈴は必死に舵を取り続ける。

 波のリズムに合わせて、ヨットを操船していく。

 セールは開放したまま、風を受け流している。

 ヨットの速度は落ちたが、波に乗ることで安定した。


 巨大な波は、次々とヨットに襲いかかる。

 鈴は一つ一つの波を乗り越えていく。

 時には横波を受けて大きく傾きながらも、何とか姿勢を維持する。

 まるでサーフィンをするように、波の上を滑走していく。


 鈴の手は、舵輪から離れない。

 波の動きを読み、的確に舵を切っていく。

 長年の経験で培った操船技術が、今ここで生きている。

 必死に耐え続ける鈴。

 ヨットと一体となって、嵐の海を突き進んでいく。

「く……そ、あっ!」


巨大な波が目前に迫る中、鈴は咄嗟の判断でヨットの操縦を試みる。

 まず、メインシートを大きく緩め、帆をリリースする。

 これにより風圧を逃がし、ヨットが波に押し流されるのを防ぐ。

 同時に、ティラーを大きく押し込み、ヨットを風上に向ける。

 波に対して斜めに立ち向かう事で、ヨットの復原力を最大限に活かすのだ。


 しかし、あまりに巨大な波は、鈴の操船技術をもってしても避けきれない。

 波はヨットを容赦なく飲み込み、甲板の上に大量の海水を叩きつける。

 鈴はとっさに身を伏せ、ライフラインにしがみつく。

 体が宙に浮くような感覚の中、必死にヨットにしがみついた。


 だが、次の瞬間には最悪の事態が起きる。

 ヨットが横波を受け、あっけないほど簡単に横転したのだ。

 マストが水平になる瞬間、鈴の体は海中に放り出された。


 一瞬で海水に飲み込まれ、鈴は呼吸ができなくなる。

 塩水が口や鼻に入り込み、肺が悲鳴を上げる。

 視界は真っ暗で、上下の方向すら分からない。

 パニックに陥りながらも、必死に海面を目指して泳ぐ。


 だが、体は思うように動かない。

 海水を大量に飲み込んだせいで、意識がどんどん遠のいていく。

 手足の感覚がなくなり、体が沈んでいくのを感じる。

 頭の中が真っ白になり、自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。


 横転したヨットから脱出するには、通常のプロセスがある。

 まずは、艇内に流れ込んだ水を排出するビルジポンプを作動させる。

 同時に、マストに登ってメインセールを降ろし、風圧を逃がす。

 その後、重りを利用してヨットを起こし、通常の位置に戻すのだ。


 だが、それらを実行するには冷静な判断力と、体力が必要不可欠だ。

 パニックに陥り、意識が朦朧とする鈴には、到底できない芸当だった。


 海中を漂う鈴の意識は、どんどん薄れていく。

 冷たい海水に体温を奪われ、力尽きていくのを感じる。

 これまでの人生がフラッシュバックのように駆け巡り、走馬灯のように蘇る。


 頭の片隅で、自分が"沈んでいく"ことを認識していた。

 もがけばもがくほど、体力を消耗していく。

 このまま、静かに意識が消えていくのかもしれない。

 絶望的な状況の中で、鈴は最期の想いを馳せるのだった。


 水中で光を失った瞳は、ゆっくりと閉じられていく。

 冷たい海の中で、鈴の意識は完全に途絶えた。

 ヨットの横転は、若き航海者から一切の希望を奪っていった。

 無情な海の只中で、鈴の命の灯火は消えようとしていたのだった。


「……ここで、終わるのかな……」


 朦朧とする意識の中で、走馬灯のように過去の記憶がよみがえる。

 夢への挑戦を決意した日。

 見送ってくれた両親と、恋人の穏やかな笑顔。


「……巧……お父さん……お母さん…………ごめんなさい……」


 力尽きた鈴の意識が、どんどん深い闇に沈んでいく。



「………ねえ……ねえ、しっかりして!」


 不思議な声が、遠くから聞こえた気がした。


「あなたはまだ大丈夫よ! ほら、目を開けて!」


 その声に導かれるように、鈴はゆっくりと瞼を持ち上げる。


「……あれ……? 私………生きてる……?」


 目の前に広がるのは、遠浅の海岸と白い砂浜。

 どうやら嵐に流されて、どこかの島に打ち上げられたらしい。

 そして鈴を見下ろしているのは、30代前半と思しき、優しげな瞳をした女性だった。


「良かった、気がついてくれて……!」


 鈴を介抱するようにして、女性が微笑む。


「ここはセーシェル諸島のマエ島よ。あなたのヨット、嵐で流されてきたみたい」

「……私のヨットが……?」


 はっと我に返って海の方を見やると、無残に横転したヨットが、岩場に乗り上げている。


 このピンチに、鈴の脳裏をよぎったのは、例の子猫との思い出だった。


『助かったのは奇跡……でも、私にはまだ使命がある……!』


 かろうじて立ち上がると、鈴は女性に向かって頭を下げた。


「助けていただいて、本当にありがとうございます……!」

「どういたしまして。でも、あなた……これからどうするつもり?」


 女性の問いかけに、鈴は静かに微笑むのだった。


「世界一周の夢……絶対に叶えてみせます。だから私……」


 鈴の瞳には、揺るぎない決意の炎が宿っている。

 今は挫折を喫したが、新たな一歩を踏み出す勇気を、この島で与えられたのだ。

 ヨットの修理をし、食料と水を補給したら、再び旅立とう。

 たとえどんな試練が待ち構えていても、諦めずに進み続けると誓って。

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