第3話「赤道直下の試練」

 ミッドウェー諸島を脱出して数週間。

 宇佐華鈴のヨットは、インド洋に差し掛かっていた。

 ここで待ち受けていたのは、地球上で最も過酷な海域の一つ――赤道直下の無風帯だった。


「まさか、こんなに風がないなんて……」


 コーヒー豆が焙煎される時のような、じりじりとした焦げ付く日差し。

 一向に進まない航海に、鈴の顔には憔悴の色が濃くなっていく。

 この海域特有の現象"ドルドラム"――。

 赤道付近で上昇気流が卓越し、地表付近の風が途絶えてしまうのだ。

 頼みの綱である風を失ったヨットは、一向に進むことができない。

 真っ青な空と海原が、逆に蟻地獄のように鈴を閉じ込めているようだった。


「……暑い……水が……」


 太陽が容赦なく照り付ける中、鈴の意識が朦朧としていく。

 備蓄の飲料水は、すでに残り少ない。

 食料も、非常食のカンパンとレトルトカレーがあと数食分といったところだ。


『このままじゃ、飢えと渇きで……弱音は駄目よ、宇佐華鈴……!』


 自分を奮い立たせるように、かろうじて意識を保とうと歯を食いしばる。

 一刻も早く、この窮地を抜け出さねばならない。

 だが、どうすれば――。

 ふと、洞窟で出会った子猫のことを思い出す。

 弱冠な姿で巡り会った、あの小さな生命。

 きっと今頃は、自力で生きる術を身につけているだろうか。


『あの子も……私も……こんなところで死ぬわけにはいかないんだから……!』


 胸の内で呟きながら、鈴ははっとある考えを閃いた。

 日本の伝統漁法"追い込み漁"だ。

 長い棒を用いて、魚の群れを浅瀬に追い込んで捕獲するのだという。


『あの原理を応用すれば……!』


 鈴は決意を新たに、ヨットの甲板に備え付けられた漁具入れに向かった。

 中を開けると、コンパクトに折り畳まれた予備の竹竿と、丁寧に束ねられた漁網が目に入る。

 一番長い竹竿を手に取り、念入りにその強度を確かめる。

 海の上で生きていく為には、この道具が命綱になる。


 甲板に立ち、辺りを見回す鈴。

 目指すは、沖合いに見える浅瀬だ。

 エンジンを静かにかけ、舵を取る。

 ゆっくりとヨットを近づけていく、細心の注意を払いながら。

 海の色が次第に明るく変わっていくのがわかる。


 ある程度近づいたところで、鈴は一旦エンジンを止めた。

 ここからは、潮の流れに乗せて近づく作戦だ。

 帆を巧みにコントロールしながら、風を味方につける。

 ヨットはまるで生き物のように、鈴の意のままに動いていく。


 浅瀬が目の前に迫る。

 鈴はヨットを左右に蛇行させ、減速させていく。

 素早く錨を下ろし、ヨットを固定する。

 見事な操船に、自分でも少し驚いていた。


 さて、いよいよ漁の時間だ。

 鈴は竹竿を手に、甲板から身を乗り出す。

 海面を覗き込むと、そこは天然の生け簀のようになっている。

 色とりどりの魚の群れが、きらきらと泳ぎ回っているのが見える。


 竹竿の先端に、丁寧にネットを結びつける。

 何度も練習した手つきは、もう漁師のそれだ。

 ネットの広げ方、水面に投げ入れる角度。

 すべてが、コツを掴んでいた。


 大きく息を吸い込み、鈴はネットを投げ入れた。

 すーっとネットが水面に沈んでいく。

 水の抵抗を感じながら、ゆっくりとネットは広がっていく。

 そのまましばらく待つこと数分。


 時間を見計らって、鈴は竿を手繰り寄せ始めた。

 最初は軽かったネットの重みが、徐々に増していく手応え。

 期待に胸を膨らませながら、リズミカルに竿を引いていく。


 やがてネットが水面に現れた時、鈴は歓喜の声を上げていた。

 銀色に輝く魚の群れが、ネットの中で跳ねているのだ。

 鰯やアジ、小ぶりの鯛まで。

 海の恵みを、しっかりと受け止めていた。


「やった……!食料確保……!」


 鈴は慎重にネットを引き揚げ、甲板の上に広げた。

 歓声を上げながら、魚を丁寧に外していく。

 一匹一匹に感謝を捧げるように。

 この漁は、鈴に希望をもたらしてくれた。

 生きる力の源になる、かけがえのない収穫だった。


 夕陽を浴びながら、鈴はデッキで魚を捌いていた。

 包丁を手際よく動かし、血合いを丁寧に取っていく。

 こんな作業すら、今は楽しくてしょうがない。

 自分の手で獲った魚だからこそ、味わい尽くしたい。

 そんな充足感に満ちた時間が、ゆっくりと流れていく。


 夜の帳が下りた頃、鈴はヨットのデッキにランタンを灯した。

 揺らめく炎が、静寂な海の上に温かな明かりを投げかける。

 その灯りの下で、鈴は夕食の準備を始めた。


 まな板の上には、先ほど捕まえた魚が並んでいる。

 鈴は手際よく包丁を動かし、魚を捌いていく。

 鱗を丁寧に取り除き、内臓を綺麗に取り出す。

 一匹ずつ丁寧に、魚に感謝の気持ちを込めながら。


 捌いた魚を、竹串に刺していく。

 塩を振りかけ、オリーブオイルを軽く塗る。

 シンプルな調理法だが、新鮮な魚だからこそ味わえる贅沢だ。


 デッキの片隅で、炭火を熾す。

 オレンジ色の炎が、夜空に浮かび上がる。

 網の上に魚を並べ、炭火の上に置く。

 まるで、キャンプファイアーのような情景だ。


 しばらくすると、魚が焼ける音が聞こえてくる。

 ジュージューと脂が滴る音、炭の上で弾ける音。

 それらが混ざり合って、食欲をそそるシンフォニーを奏でている。


 同時に、香ばしい匂いが辺りに広がっていく。

 焦げ目の香りと、魚特有の風味が絶妙に絡み合う。

 潮風に乗って運ばれる匂いは、まるで大海原からの贈り物のよう。

 鈴は深く息を吸い込み、その香りを堪能した。


 程よく焼けた頃合いを見計らって、鈴は魚を網から外す。

 皿の上に並べられた魚は、黄金色に輝いている。

 焦げ目がつき、身がほぐれるほどに火が通っている。


 鈴は竹串から一切れ外し、そっと口に運んだ。

 かじった瞬間、じゅわっと溢れ出す脂の甘み。

 身の引き締まった食感と、繊細な味わいが口の中に広がる。

 塩味が絶妙に効いていて、魚本来の旨味を最大限に引き出している。


 鈴は思わず目を細め、その味わいに浸った。

 漁の疲れも吹き飛ぶような、至福の一時。

 自分の手で獲った魚だからこそ、格別の味がするのだ。


 ランタンの灯りを囲みながら、鈴はゆっくりと魚を頬張る。

 満天の星空の下、静かな海の上。

 この一皿の魚が、今の鈴にとって何よりのご馳走だった。


 ランタンの灯りは、ゆらゆらと海の上で揺れ続ける。

 二人の、小さな航海の灯台のように。

 鈴は心地よい眠気に襲われながら、ゆっくりと瞳を閉じた。

 明日への活力を得られた、充実した一日の終わりだった。


 漁は、明日への活力になる。

 この小さな成功が、鈴に大きな自信を与えてくれた。

 もう少しだけ、この海で頑張ってみよう。

 満天の星空を見上げながら、鈴はそう心に決めるのだった。


 海の恵みに感謝しながら、鈴の一人航海は続いていく。

 明日もまた、竿を握る手に希望を重ねて。

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