第2話「孤島の一夜」
太平洋上に点在する無人島の一つ、ミッドウェー諸島近海。
嵐による予想外の流されで、宇佐華鈴のヨットが小さな島に漂着した。
浅瀬に乗り上げ動けなくなったヨットを見上げながら、鈴は白い砂浜に立ちすくんでいた。
「まさか、こんな孤島に……」
目の前に広がるのは、人の気配のまるでない、手つかずの自然だけだ。
ラジオを使って情報を集めようにも、嵐で壊れて使い物にならない。
孤立無援の状況に、鈴は自分を奮い立たせるように声に出して言い聞かせた。
「どうにかなる……。必ず、この島を脱出して……!」
ともかく、備蓄の食料と飲料水を持って上陸する。
バナナの木があるのを見つけ、青い実を頬張る。
ざらりとした質感に酸味が効いていて、空腹を紛らわすにはもってこいだ。
『これだけ自然が豊かなら、何とか食いつなげるわ』
島の探索を進めていくと、ヤシの木が連なる奥から、不思議な音が聞こえてきた。
そっと近づいてみると、岩が積み重なってできた洞窟があり、そこから響いているようだ。
「もしかして、人が……?」
鈴は期待を込めて洞窟の中をのぞき込む。
だが中にいたのは、一匹の子猫だった。
「あら、猫ちゃん……。どうしてこんなところに?」
鈴が手を差し出すと、薄茶トラの子猫は警戒するようにしばらく後ずさる。
それでも、ゆっくりと手を近づけていくうちに、子猫はおずおずと鈴の指先に頭をすり寄せてきた。
「可愛い……。きっと船から落っこちて漂着したんだね。一緒に頑張ろう」
鈴は微笑むと、子猫をそっと胸に抱いた。
人恋しさが込み上げてくるのを、この小さな生き物の温もりで紛らわせる。
日が暮れると、島に人の姿のない静寂が深く垂れ込めてくる。
洞窟の中で焚火を焚きながら、鈴は空を見上げていた。
こんなにも星が瞬く夜空を、東京で見上げたことがあっただろうか。
満天の星の輝きは美しくも、この上ない孤独を思い知らせる。
ふと脇を見やると、丸くなって眠る子猫の姿があった。
「ねえ、もしかしてあなたも、家族と離れ離れになっちゃったのかな……」
思わず声をかけると、子猫は目を覚まして鈴を見つめ返す。
その澄んだ瞳に映る自分の姿を見つめながら、鈴は静かに語りかけるのだった。
「私も今、一人ぼっちだ。でもね、負けないよ。絶対に生きて帰るんだ」
小さく握った拳を、鈴は自分の胸に当てた。
たとえ孤独でも、弱気になってはいけない。
胸の奥には、帰るべき場所がある。待っていてくれる人たちの笑顔が、心の支えになっているのだ。
子猫の鼻先に、人差し指をそっと触れる。
「一緒に頑張ろうね。必ず助かるから」
決意を新たにしながら、宇佐華鈴はゆっくりと目を閉じた。
這い寄る静寂の中で、かすかな猫の鳴き声だけが、心地よい子守唄のように響いている。
見知らぬ孤島での一夜は、不安と希望が交錯する、忘れがたい時間となるのだった。
◆
明日からの航海のことを考えながら、そろそろ休むとするか。
この静けさを存分に活かして、英気を養っておこう。
明日はどんな風が吹くのだろう。どんな出会いが待っているのだろう。
胸躍らせながら、未知なる明日への期待を胸に秘める。
ゆっくりと瞼を閉じて、澄み渡る波の音に耳を傾けた。
この静寂の中で、私の夢は、また一歩、前に進むのだから。
◆
目覚めると同時に、鈴は自力でヨットの修復に取り掛かった。
浅瀬に乗り上げたヨットを、まずは引き揚げなければならない。
まずは船体の破損状況を入念に点検する。
幸い、船底の破損は表面的なもので、構造的な問題はなさそうだ。
小型ポンプを使って船内に溜まった海水を排出し、バッテリーや電装系統の点検を行う。
海水による腐食を防ぐため、真水で丁寧に洗い流していく。
次に、帆の点検と補修だ。
嵐で裂けてしまった帆を、針と糸で丁寧に繕っていく。
幸い、予備の帆布と修繕キットが残っていた。
何時間もかけて、帆を元の形に戻していく。
日差しが照りつける中、黙々と作業を続ける鈴の姿があった。
エンジンは、海水を吸い込んでしまったようだ。
シリンダーヘッドを外し、内部を念入りに清掃する。
海水に含まれる塩分は、エンジンにとって大敵だ。
部品を一つずつ点検し、損傷したパーツを予備品と交換していく。
何とか自力で直せそうだが、完全復旧までには時間がかかりそうだ。
子猫は、鈴の作業を興味深そうに見つめていた。
時折、鈴の手を止めて頭を撫でてやる。
この子も、自分なりに励ましてくれているのだろうか。
ふと、そんなことを考えながら作業に励む鈴があった。
夕暮れ時、ようやくヨットの応急修理が完了した。
水を汲んで船内を拭き、帆を張り直す。
明日の出航に向けて、最終チェックを行う鈴。
ここまで無事にたどり着けたのは、偶然の産物ではない。
ヨットの修復を諦めなかった自分自身の力があったからこそだ。
満天の星空の下、鈴はヨットの甲板に寝転がっていた。
子猫を胸に抱き、静かに空を見上げる。
今日一日の出来事を思い返しながら、鈴は小さくつぶやいた。
「私は世界一周するんだ。絶対に……!」
子猫の鼻先に、人差し指をそっと触れる。
「ねえ、約束だからね。きみも応援してくれるでしょ?」
わからないはずの言葉に、子猫はまるで頷くように目を細めた。
鈴はかすかに微笑み、夜空を見上げるのだった。
次の朝、鈴はいつもより早く目覚めた。
心地よい潮風に吹かれながら、甲板に立つ。
今日から、再び世界一周の航海が始まる。
応急修理を施したヨットは、力強くまっすぐ前を向いている。
子猫を撫で、鈴は静かに言った。
「さあ、行こう。私たちの夢に向かって」
エンジンを始動させ、帆を張る。
ヨットは風を受けて、ゆっくりと航行を始めた。
白い航跡を残しながら、大海原へと船出していく。
遠ざかっていく孤島を見つめながら、鈴は心の中で誓うのだった。
どんな困難にも負けない。
必ず夢を叶えてみせる、と。
鈴の世界一周の旅は、新たなスタートを切ったのだった。
子猫と共に過ごした、忘れられない一夜。
その思い出を胸に刻み、鈴はまた新たな冒険の日々へと旅立っていく。
風を味方につけて、「チェリッシュ」は勇敢に波を越えていった。
その雄姿を、朝日が優しく照らし出していた。
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